第76話 更新が止まる
朝、スマホを持った。
小さな三脚は、昨夜のまま机の上にあった。
いつものカメラは修理店にある。
レンズの色も、台所の湯気も、ピコの光も、今日はスマホの小さな画面でしか見えない。
DungeonTubeの通知は百十二件になっていた。
「どうした」
「更新止まってるけど大丈夫?」
「待ってます」
「説明だけでも出してほしい」
最後の一行で、指が止まった。
説明だけならできる。
料理動画ではない。
探索記録でもない。
でも、止まったままにしておくよりはいい。
俺はスマホのインカメラを向けた。
画面の中に、自分の顔があった。
目の下が少し暗い。
声を出す前から、喉が細くなっていた。
録画ボタンを押した。
「佐々木ユウトです。いつものカメラが壊れて、いま修理に出しています。しばらく料理動画と探索記録は止まります」
一度、息を吸った。
「素材条件については、確認できた範囲から順番に説明します。未記載素材は食べていません。グリーンモスはJAGL食用登録済み、パープルモスは加熱推奨、ゴールドモスは未記載なので使いません」
そこまで言って、少しだけ間が空いた。
「急ぎません。でも、止まったままにはしません」
録画を止めた。
聞き返した。
声は硬かった。
笑えてもいない。
それでも、昨日の俺よりは前を向いていた。
タイトルは「カメラ修理中のお知らせ」にした。
概要欄には、ランクと階層、安全確認はJAGL公開資料に従うこと、未記載素材を真似して採らないことを入れた。
投稿ボタンを押した。
すぐに肩の力が抜ける、ということはなかった。
画面には、自分の動画が小さく並んでいる。
いつものサムネは、皿と湯気とピコの光だった。
今日だけは、暗い顔をした俺の上半身だけ。
料理の匂いもしない。
包丁の音もない。
それでも、チャンネルは消えていない。
その事実を、画面の中に残した。
* * *
コメントはすぐに来た。
「カメラ壊れてたのか」
「未記載素材食べてないって明言助かる」
「焦らず待ちます」
「tanuki_yamaより:安心しました。ゆっくりで大丈夫です」
最後のコメントを二回読んだ。
「焦らず待ちます」。
俺が何度も言ってきた言葉が、別の形で返ってきていた。
急がないんで、と言ってきた。
それを、視聴者に言わせてしまっている。
ありがたいのに、少し痛かった。
喉の奥が、かすかに細くなった。
読んでいる人がいた。
待っている人がいた。
それだけのことが、今日は普段より重かった。
コメント欄を閉じた。
読み続けると、今度は動けなくなりそうだった。
ザックを持った。
今日は撮らない。
でも、潜る。
B2の空気を、自分の手で確かめたかった。
* * *
JAGLアプリに入場ログを残し、B2へ降りた。
階段を下りる前に、公開資料の食材リストも開いた。
グリーンモスは食用登録済み。
パープルモスは加熱推奨。
ゴールドモスは未記載。
知っている内容でも、画面で確認してから入る。
今は、その一手順を飛ばしたくなかった。
岩盤エリアは湿っていた。
苔と石の匂いが、肺の奥に入る。
冷たいのに、どこか甘い。
今日は採取が目的ではない。
ただ、足を止めずに歩く。
入口側の岩棚で、グリーンモスに触れた。
指先に、細い青い熱が返ってくる。
採取Sの感覚は、素材の中にだけあった。
コメント欄も、記事の見出しも、カナメとの言い合いも、そこには入ってこない。
それでよかった。
グリーンモス。
JAGL食用登録済み。
加熱用。
俺は声に出さず、頭の中で確認した。
少量だけ採る。
次に、少し高い岩壁のパープルモスを見る。
今日は色が濃かった。
指先にくる熱も、いつもより細い。
採取Sが、乾きすぎている個体だと告げていた。
採らない。
最後に、岩の割れ目に金色が見えた。
ゴールドモスだった。
甘い匂いが、ほんの少しだけ鼻に届く。
指を伸ばしかけて、止めた。
未記載素材。
食べない。
撮らない。
採らない。
画面に出せばまた切り取られる。
食べなくても、そこだけを抜かれる。
俺は手帳に、ゴールドモス未記載、位置詳細なし、採取せず、とだけ書いた。
このメモは動画にはならない。
でも、次に説明するときの足場にはなる。
何を使わなかったかを残すことも、今は記録だった。
採取Sは、甘い熱を返していた。
でも、それは食べていいという意味ではない。
素材の状態が分かることと、人に出していいことは違う。
その違いを、今は間違えない。
* * *
B2の奥へは行かなかった。
入口側の岩棚を一周して、戻る。
それだけなのに、足は少し重かった。
カメラがないだけで、B2の見え方が違う。
いつもなら、ここで一度立ち止まる。
画角を確認して、苔の光が潰れないように角度を変える。
今日は何も構えない。
手ぶらの目で見るB2は、少し広すぎた。
採取Sだけが、いつも通りだった。
良い個体。
今日は採らない個体。
水気が多い岩。
熱が薄い根元。
そういう細かな感覚だけが、変わらず返ってくる。
俺の気持ちが荒れていても、素材は素材だった。
そこに少し救われた。
変わらないものがある。
それは、俺を励ます言葉ではない。
ただ、指先に返ってくる事実だった。
だから信じられた。
帰り際、もう一度だけスマホの通知を見た。
お知らせ動画の再生数は、いつもの料理動画より少ない。
でも、コメントは増えていた。
「戻ってくるまで待つ」
「最浅層なんで、急がなくていい」
その言葉を見て、足が止まった。
急がない。
でも、止まるのとは違う。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな痛みが来た。
俺は、急がないふりをして止まっていたのかもしれない。
* * *
帰宅した。
ピコが玄関で待っていた。
「ぴこぴこ」
二声。
いつもの高さより、少し低い。
「ただいま」
台所に立った。
今日採ったグリーンモスを出す。
袋のラベルをもう一度見る。
B2グリーンモス。
JAGL食用登録済み。
加熱用。
フライパンにバターを落とした。
じゅっと音がして、白い泡が広がる。
刻んだグリーンモスを入れる。
青い匂いが立った。
バターの丸い香りと混ざり、苦味の手前で柔らかくなる。
ピコがカウンターに乗った。
「ぴこ」
一声、少しだけ上がった。
塩を振る。
葉の端がしんなりして、濃い緑に変わる。
火を止め、皿に盛った。
ピコに小さく分ける。
「ぴこぴこぴこ」
三声。
俺も食べた。
バターの甘さの後に、苔の青みが来た。
噛むと、最後に薄い苦味が残る。
うまかった。
カメラはない。
この味は、俺とピコしか知らない。
それでいいと思いたかった。
でも、今日の俺は、それでいいとは言い切れなかった。
待っている人がいる。
焦らず待つと言ってくれる人がいる。
だったら、止まっているだけでは駄目だった。
怖い。
それは、たぶん本当だった。
黒葉に接触され、カメラが壊れた。
東和の名前が文書の端に見えた。
カナメには言いすぎた。
父も、もしかしたら似た場所に立っていたのかもしれない。
戦闘Fの手で、何を守れるのか。
その問いが腹の底にあった。
怖くないふりをするのは違う。
怖いから全部閉じるのも違う。
ピコが俺の隣に来た。
「ぴこ」
一声。
低かった。
でも近かった。
その近さだけで、呼吸が少し戻った。
* * *
夜遅く、ゲン爺から電話が来た。
「坊主。来い」
「……今日はもう遅いです」
「明日でいい。来い」
「何かありましたか」
「お前に話したいことがある」
ゲン爺は少し黙った。
「急がなくていい。でも、来い」
電話が切れた。
俺はスマホをテーブルに置いた。
胸の奥に、重いものが落ちた。
また来い、ではない。
来い。
ゲン爺がそう言うのは初めてだった。
ピコが隣で光っている。
青緑の静かな光。
「……明日、行く」
言葉にすると、少しだけ決まった。
急がない。
でも、止まらない。
その違いを、今夜は間違えたくなかった。
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