第75話 孤立
土曜日の午後、有希さんと会った。
カフェだった。
いつものカフェではなく、有希さんが指定した場所だった。
駅から少し離れた、人通りの少ない通りに面した店。
ガラス張りの窓が小さくて、外から中が見えにくい。
有希さんが選んだのはそういう場所だったと気づいたのは席に着いてからだった。
有希さんは俺より先に来ていた。
「ユウトさん、ありがとうございます。来てくれて」
「いえ」
俺は向かいに座った。
有希さんの前にコーヒーがあった。
まだ湯気が出ていた。
待ちすぎていないということだった。
* * *
有希さんはテーブルの上に薄いファイルを置いた。
「先に確認します。ここに入れているのは、公開済みのプレスリリースと、私が個人として整理したメモだけです」
「社内資料ではない?」
「はい。葉山食品の内部情報も、未公開の問い合わせ内容も入れていません。ユウトさんに見せていい範囲だけです」
有希さんは、そう言ってからファイルを開いた。
「今週、東和グループが発表を出しました」
ファイルの一枚目にプレスリリースが入っていた。
「『最浅層食材の安全基準整備推進について』。東和グループが独自の審査委員会を発足させると」
俺はそれを読んだ。
文体が丁寧だった。
「安全を守るため」「業界全体のため」という言葉が繰り返されていた。
JAGLの認定フローとは別に独自の認証を設けるということだった。
「……これは」
「JAGLの認定フローとは別に、業界独自の安全認証を作るということです。既存の動画配信者に対しても、この認証取得を『推奨』する形で圧力をかけてくる可能性があります」
「推奨という言葉を使っているが」
「義務ではありません。ただ、認証を取得していない配信者に対して、広告や案件がつきにくくなる空気を作る可能性があります。断定ではなく、公開文面から読めるリスクです」
俺はもう一度文書を読んだ。
発表の末尾に、顔写真付きの短いコメントが出ていた。
「東和グループ ダンジョン事業本部 専務 槇原総一」。
俺はその名前を見た。
紙の上で、同じ槇原という姓が目に引っかかった。
三十年前の文書にあった「対応担当:槇原太郎」と、この名前が頭の中で並んでしまう。
それだけで結論になるわけじゃない。
でも、一度並ぶと、紙から目を離しても消えなかった。
「……これが槇原総一」
「はい。JAGL側も東和の動きを把握していると思います。ただ、業界全体に対する影響力が大きいので、JAGLもすぐ表立って反対するとは限りません」
「有希さん、一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「なぜ、俺の動画を最初から応援してくれたんですか」
* * *
有希さんは少し静かになった。
カップの取っ手に手を添えて、テーブルを見た。
「……祖父のことは話しましたよね。遺品の中にJAGLの文書があったこと」
「はい」
「祖父も最浅層の探索者でした。大発現の翌年から十年近く、B2やB3を歩き続けた人でした。最浅層の食材に価値があると信じて、自分でレシピを作っていたほどで」
有希さんは手元のカップを見ていた。
「誰にも見向きされなかったそうです。最浅層で料理をしているなんて馬鹿にされることもあったと家族から聞きました。それでも続けていた」
「……」
「ユウトさんの動画を初めて見たとき、祖父が生きていたら、喜んだと思いました。だから、応援したかった。それだけです」
俺は有希さんを見た。
その言葉は飾りがなかった。
業界の利益や研究上の意義ではなく、ただ、祖父のことを思って、応援したかった。
そういう話だった。
有希さんは今も窓の外を見ていた。
細い日差しが通りに落ちていた。
その横顔に何かを堪えているものが見えた。
大手食品メーカーの研究員として動けないことへの、やるせなさみたいなものが。
俺は何も言わなかった。
言葉が出なかったのではなく、今、静かにしておくべき間だと思った。
有希さんが祖父の話をしてくれた。
それだけで十分だった。
「有希さん」
「はい」
「今でも、そう思っていますか」
「……はい。今でも」
有希さんの声が少し小さくなった。
「でも、会社としては動けない」
「今の状況では。東和の動きが読めない部分も多く、葉山食品として前面に出ることはリスクが大きい。私個人としては、引き続きできることをします。ただ、会社として明示的に支援することは今は難しい状態です」
俺は頷いた。
「分かりました。ありがとうございます」
「ユウトさん」
「はい」
「続けるつもりですか」
「はい」
有希さんが少し目を細めた。
何かを見るような目だった。
俺を試しているわけじゃなかった。
ただ、信じたいものを確認する目だった。
「……祖父のことを話せてよかった。聞いてくれてありがとうございます」
「俺の方こそ」
有希さんはコーヒーを一口飲んだ。
窓の外を見た。
人通りの少ない通りに細い日差しが落ちていた。
* * *
カフェを出た。
有希さんと別れて、一人で歩いた。
駅までの道をゆっくり歩いた。
急ぐ必要がなかった。
今日は採取がない。
カメラは手元にない。
カナメとは連絡を取っていない。
葉山食品の監修表記は外れた。
有希さんも個人として動くとは言ったが会社としては離れた。
俺が続けると言っても、いつものカメラでは動画が撮れない。
スマホで短い告知ならできる。
でも、台所の湯気や、ピコの光や、苔の細い葉を見せてきた画とは違う。
夕暮れの街を歩いた。
商店街の脇道を抜けると住宅地に出た。
子供が自転車で通り過ぎた。
犬を連れた老人がゆっくり歩いていた。
誰も俺を知らなかった。
炎上のこともカナメとぶつかったことも。
動画が撮れないことも採取Sのことも。
誰も知らないまま、それぞれの時間の中にいた。
ピコは家にいる。
ゲン爺にはまだ何も話していない。
周りの音が遠かった。
車の走る音も、子供の笑い声も、薄い膜の向こうにあるみたいだった。
採取Sは何も言わない。
苔も、ゼリーも、岩の温度も、ここにはない。
だからこれは、ただの俺の感覚だった。
胸の奥が一拍、詰まった。
息がゆっくりとしか出なかった。
足が少しだけ重くなった。
知っていることを、自分の体で知ると違う。
それが重かった。
* * *
帰宅した。
ピコが玄関で待っていた。
「ぴこぴこ」
二声。
「……ただいま」
台所に立った。
グリーンモスのスープを作った。
袋のラベルを見る。
B2グリーンモス。
JAGL食用登録済み。
加熱用。
水を張った鍋に昆布を入れて、火にかけた。
沸いてきた頃に昆布を引き上げて、グリーンモスを入れた。
ことことと鍋が鳴った。
苔の香りが立ち上がった。
B2の匂いだった。
岩盤の近くで採れる、苔の下の方の香り。
採取に行くたびに肺に入ってくる匂い。
その匂いが台所に来ると、少しだけ呼吸が楽になった。
ピコが鼻を近づけた。
「ぴこぴこ」
半音、上がった。
塩を少し入れた。
もう一度混ぜた。
色が少し濃くなった。
器に移した。
俺は分けた。
「ぴこぴこぴこ」
三声。
俺も食べた。
昆布の旨みと苔の青みが静かに溶け合っていた。
温かさが喉を通った後、腹の底に落ちた。
うまかった。
コメント欄は開かなかった。
開いたら、何かが崩れそうだった。
「待ってます」という声が届いているのは分かっていた。
でも、今日は受け取る力がなかった。
ピコがカウンターから降りてきて、俺の隣に座った。
青緑の光が台所を淡く照らした。
一人だ。
でも、ピコがいた。
スープを飲み終えると少しだけ熱が戻った。
腹の底から温かいものが広がった。
有希さんの言葉が頭に残っていた。
「祖父が生きていたら、喜んだと思いました」。
俺の動画を見て、そう思ってくれた人がいた。
今日は誰とも連絡を取れていなかった。
でも、その事実は変わらない。
それだけが今夜の底にあった。
スープの最後の一口を飲んだ。
温かかった。
身体の芯に少しだけ何かが残った。
スマホを取り出した。
小さな三脚に立てる。
画面に映った自分の顔は、思ったより疲れていた。
カメラは壊れています。
修理に出しています。
素材条件の説明は、確認できた範囲から順番に出します。
その三行をメモに打った。
修理店から届いていた見積もりも、メモの下に写した。
修理費:四万八千四百円。
部品在庫あり。返却見込み、十二日から十六日。
いつ戻れるか分からない、ではなくなった。
明日、修理中の告知を出す。
返ってきたら、一本目はB1のスライムゼリーにする。
直った機材で大きな企画を始めるんじゃない。
いつもの台所で、いつもの透明な皿を撮る。
そこまでをメモに足した。
録画ボタンには、まだ触れなかった。
でも、戻る日と、戻った日に作るものは決めた。
登録者:三万八千百二人。
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