第74話 カナメとぶつかる
翌朝、カナメが来た。
約束通りだった。
テーブルには、ひびの入ったカメラが置いてある。
昼に修理店へ持っていくつもりだった。
カナメはそれを見て、すぐには何も言わなかった。
椅子を引き、手袋を外して、座った。
「怪我は」
「ない」
「手首」
「動く」
「肩」
「痛くない」
カナメはようやく小さく息を吐いた。
「修理は」
「今日持っていく。電話では二週間から三週間。四万から六万くらい」
「……そう」
カナメはカメラを見た。
レンズのひびが、朝の光で白く浮いている。
横には、修理店へ持っていくためのバッグがある。
梱包材を詰めた箱と、昨日メモした修理費の概算。
四万から六万円。
その数字が、紙の上で妙に現実的だった。
「JAGLには」
「報告した。受付番号もある」
スマホを見せた。
通路内接触。
装備破損。
怪我なし。
相手は黒葉レン。
故意性は断定しない。
カナメは画面を最後まで見た。
「ちゃんと出したんだ」
「出した」
「よかった」
その「よかった」で、少しだけ肩の力が抜けた。
* * *
俺はコーヒーをいれた。
カナメの分も。
カナメはカップを両手で持った。
温めるみたいに指を組んでいる。
「ユウ、相談しよう」
「何を」
「黒葉の動画、記事、東和系列の広告会社、昨日の接触、JAGLの受付番号。全部、ばらばらだと弱い。でも、並べれば相談材料にはなる」
「正式な証拠にはならない」
「分かってる。だから、正式な証拠として出せって言ってない」
カナメの声は低かった。
「でも、誰かに相談する材料にはなる。JAGLでも、弁護士でも、知り合いの配信者でも」
「DungeonLinkのキャプチャは非公開グループのリークだ。使えない」
「使わなくてもいい。使えないものは使えないって分ければいい」
カナメはスマホを指で叩いた。
「これは公開記事。これはJAGL受付番号。これは黒葉の動画。これはユウが自分で直した概要欄の時刻。全部、性質が違う」
「だからこそ混ぜられない」
「混ぜないために、並べるんだよ」
「そんな簡単じゃない」
「簡単じゃないから、一人でやるなって言ってる」
俺はカップを置いた。
コーヒーはまだ半分以上残っている。
苦味だけが口に残った。
「俺が動くと、カナメまで巻き込む」
「もう巻き込まれてる」
「違う」
「違わない」
カナメの目がまっすぐだった。
「昨日、ユウは私に送った。B2で黒葉と接触した、JAGL報告済み、カメラが壊れたって。送った時点で、私は知ってる」
「それは」
「知ったうえで来てる」
言葉が止まった。
カナメは怒鳴っていない。
怒鳴っていないのに、声が強かった。
「ユウが私を巻き込むかどうかを決めるんじゃない。私が、どこまで行くかも私が決める」
「危ない」
「危ないなら、危ないって一緒に確認する」
「カナメには分からない」
言った瞬間、部屋の空気が少し変わった。
* * *
カナメは黙った。
俺は、言葉を引っ込められなかった。
「分からないと思う」
続けてしまった。
「A級で、戦闘Sで、業界に顔が利くカナメには」
カナメの目が一瞬だけ揺れた。
「……そう」
静かな声だった。
「私は、分からない側なんだ」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味」
答えられなかった。
本当は、カナメのことを責めたいわけじゃなかった。
A級であることも、戦えることも、カナメが悪いわけじゃない。
でも、カメラが壊れて、監修表記が消えて、コメント欄が荒れて、俺の中の古いものが勝手に顔を出していた。
父が死んだあと、戦闘Fの自分では何も守れないと思い続けてきた感覚。
カメラ一つ守れなかった、という言葉が、喉の奥にあった。
言えば、カナメは否定したと思う。
でも、否定されても消えない気がした。
だから言わなかった。
それが、カナメの「手伝う」という言葉をまぶしくしすぎた。
まぶしいものを見ると、目をそらしたくなる。
俺は、そらした。
「手伝える」
カナメが言った。
「私はそう思って来た」
「これは俺の問題だ」
「ユウの問題なら、ユウだけで抱えなきゃいけないの?」
「……」
「私が隣に立つかどうかまで、ユウが決めるの?」
胸の奥が詰まった。
答えはあった。
たぶん、あった。
でも出なかった。
カナメは立ち上がった。
カップをテーブルに置く。
音はほとんどしなかった。
「じゃあ、しばらく連絡しない」
「カナメ」
「ユウが全部ひとりで決めるなら、私が横にいても邪魔だろ」
コートを取って、玄関へ向かった。
扉が閉まる音がした。
ロックがかかった。
部屋の中に、コーヒーの匂いだけが残った。
カナメのカップには、まだ半分残っていた。
湯気はほとんど消えている。
俺のカップも、同じように冷めていた。
二つ並んだまま、どちらも飲み切られていない。
それが、さっきまでここに会話があった証拠みたいだった。
* * *
ピコがカウンターでじっとしていた。
『ぴこ』
一声だけ。
低かった。
俺は椅子に座ったまま、カメラを見た。
言いすぎた。
そう思った。
でも、何を言い直せばよかったのか分からない。
カナメには分からない。
それは本当だと思っていた。
でも、分からないから近づくな、ではなかった。
そう言ったのと同じだった。
俺はカメラのひびを見た。
黒葉。
記事。
東和系列の広告会社。
葉山食品の一時非表示。
JAGL受付番号。
それらを並べれば、相談材料にはなる。
カナメはそう言った。
それでも俺は、戦えない側の自分だけを見ていた。
戦闘Fで何も守れない。
その古い言葉が、まだ胸の中で硬かった。
カナメの「一緒に確認する」という声は、その硬い場所に入ってこなかった。
俺が入れなかった。
スマホを手に取った。
謝る、の二文字を打ちかけて消した。
何に謝るのか、まだ言葉にできなかった。
分からないと言ったことなのか。
巻き込むと決めつけたことなのか。
手伝えると言った声を閉め出したことなのか。
全部だった。
だから、何も送れなかった。
ピコが床に降りて、足元に来た。
『ぴこ』
また一声。
答えを求めているわけではなかった。
ただ、そこにいた。
* * *
午後、有希さんからメッセージが来た。
「ユウトさん、今の状況について少し整理させてください。週末にお話の時間を取れますか」
俺は返信した。
「取れます」
続けて、少し迷ってから送った。
「カメラの件は、JAGLに事故報告しました。受付番号があります」
有希さんからの返事は早かった。
「ありがとうございます。週末、公開情報と相談可能な範囲を分けて確認しましょう」
スマホを置いた。
カナメには、まだ何も送れなかった。
送る言葉が見つからなかった。
* * *
夜、台所に立った。
修理店へ持っていく準備をしたカメラは、バッグの中にある。
今日持っていくつもりだったが、カナメが帰ったあと、予約の時間までに動けなかった。
店には連絡して、持ち込みを明日の朝に変えてもらった。
明日の朝、持ち込む。
冷蔵庫からグリーンモスを出した。
JAGL食用登録済み。
加熱用。
袋のラベルを見てから、フライパンを熱した。
バターを薄く引く。
じゅっと音がした。
刻んだグリーンモスを入れる。
草の青い匂いが立つ。
塩だけで炒めた。
器に盛る。
ピコに分ける。
『ぴこぴこぴこ』
三声。
いつもの三声なのに、今日は少し遠く聞こえた。
カメラがバッグの中にあるせいかもしれない。
カウンターの上に三脚がないせいかもしれない。
いつもなら、皿を置く前に角度を見ていた。
今日は、どこにも向けるレンズがない。
俺も食べた。
うまかった。
うまかったことを、今日は誰にも言えなかった。
カナメがいたら、たぶん「美味しそうだな」と言った。
言わなくても、隣にいた。
今日はピコだけだった。
それで足りる、と言い切れなかった。
でも、それしかなかった。
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