第73話 カメラが壊れる
炎上から三日目の朝、コメント欄は千二百件を超えていた。
夜の間に、新しい声が増えている。
「長く見てたけど、今回の件で信頼できなくなった」
「追記を読んだ。未記載素材を食べてないのは分かった」
「でも、動画だけ見た人には分からないよ」
「また撮ってほしい。ちゃんと説明してくれたら見る」
俺はコメント欄を閉じた。
カメラのバッテリーは満充電になっていた。
今日は撮る。
料理ではない。
素材条件の記録だ。
B2で、食用登録済みのグリーンモスと、加熱推奨のパープルモスだけを撮る。
未記載のゴールドモスは撮らない。
JAGL公開資料の画面、入場ログ、採取袋のラベル、概要欄に書く予定の注意文。
そのための素材を集める。
昨日作った告知動画の下書きも、まだ公開していない。
言葉だけでは足りない。
でも、映像だけでも足りない。
ラベル、資料、採取場所のぼかし方、袋を分ける手順。
そういう地味な部分を、面倒なくらい見せる必要があった。
面白い動画にはならないかもしれない。
それでも、今の俺が撮るべきものはそれだった。
俺はカメラをザックの内側に固定し、B2へ向かった。
* * *
JAGLアプリに入場ログを残した。
B2「苔の間」。
撮影は入口側の通路と、いつもの岩棚だけ。
正確な区画番号と目印になる岩の形は映さない。
最初に、採取袋へラベルを貼った。
B2グリーンモス。
JAGL食用登録済み。
加熱用。
次に、別の袋。
B2パープルモス。
加熱推奨。
少量確認用。
三つ目の袋は空のまま、画面に映した。
ラベルには「ゴールドモス」と書き、赤い線で不使用と入れてある。
今日は採らない。
画面に出すとしても、未記載素材として食べない説明だけだ。
金色で目立つから見せる、ということはもうしない。
カメラを回す。
声は入れない。
指先でグリーンモスの根元に触れると、青い熱が細く返ってきた。
採取Sの感覚は、いつも通り素材の中にだけあった。
コメント欄の声も、記事の見出しも、そこにはない。
俺は根を傷つけないように少量だけ採った。
パープルモスも、同じように袋を分ける。
採取後、袋の口を閉じ、ラベルをカメラに映した。
これが俺の扱う素材だ。
これ以外は、今日の動画には出さない。
そう言える記録を残すために。
最後に、JAGL公開資料の画面をスマホに出し、カメラの横から撮った。
画面全体ではなく、素材名と注意書きだけ。
個人IDや入場コードは映さない。
撮った後、もう一度確認した。
グリーンモス。
パープルモス。
不使用のゴールドモス。
単純で、地味で、でも必要な三つだった。
撮影を終え、カメラをザックに戻した。
* * *
帰り道、B2出口に近い通路で黒葉レンと会った。
黒葉は片手に小型カメラを持っていた。
俺を見ると、足を止めた。
「佐々木」
「黒葉」
通路の空気が一段冷えた。
「まだ撮るのか」
「撮る」
「葉山の名前、消えたな」
公開済みの説明欄を見れば分かることだった。
「一時非表示だ」
「そういう言い方もできる」
黒葉の声は平らだった。
怒っているようにも、笑っているようにも見えない。
「対処は進んでるのか」
「公開できることだけ記録してる」
「地味だな」
「派手に怒っても、証明にはならない」
黒葉が俺を見た。
アイスブルーの目が、何かを測るように細くなった。
「……バカだな」
黒葉が歩き出した。
すれ違いざま、肩が近かった。
黒葉の腕が、俺のザックに当たった。
強い衝撃ではない。
でも、ザックは左に振れた。
俺は壁に手をついた。
中で、鈍い音がした。
黒葉は振り返らなかった。
足音だけが、通路の角へ消えていった。
故意か偶然かは、分からない。
ただ、振り返らなかった。
* * *
その場でザックを下ろした。
カメラを取り出す。
レンズの前玉に、細いひびが入っていた。
中心から、蜘蛛の巣みたいに広がっている。
電源を入れる。
画面が一度白く光り、それから歪んだ。
映像が出ない。
手が震えた。
俺は深く息を吸った。
まず、怪我を確認する。
手首は動く。
肘も肩も痛くない。
次に、カメラ。
レンズ破損。
映像出力異常。
俺はスマホを取り出し、時間と場所をメモした。
黒葉レンとB2出口近くで接触。
故意不明。
怪我なし。
カメラ破損。
書いてから、JAGLアプリの事故報告を開いた。
通路内接触。
装備破損。
相手は黒葉レン。
故意性は断定しない。
送信する指が、少し止まった。
でも、送った。
報告しないまま飲み込む方が、後で自分を削ると思った。
受付番号が出た。
俺はその番号をスクショした。
しばらくして、JAGL支部の窓口からアプリ内メッセージが届いた。
「怪我なしとのこと、承知しました。通路内カメラの確認対象として受付します。故意性の判断には時間がかかります」
それだけだった。
黒葉がやった、と言ってくれるわけではない。
俺のカメラが戻るわけでもない。
でも、記録は残った。
それだけで、握りしめていた肩の力が少し抜けた。
* * *
帰宅した。
カメラをテーブルに置く。
ひびは、部屋の灯りを受けて白く光っていた。
ピコが近づいてきた。
『ぴこ……』
低い声だった。
「今日は駄目だ」
『ぴこ』
俺は椅子に座り、修理店に電話した。
「レンズ交換と映像出力の確認になります。持ち込み後、二週間から三週間ほど見てください」
「明日、持っていきます」
「概算で、四万から六万円ほど見ていただく形になります。内部基板に影響があれば、もう少しかかるかもしれません」
「……分かりました」
電話を切った。
カメラはまだテーブルにある。
でも、明日には修理店へ持っていく。
二週間から三週間。
いつもの料理動画は撮れない。
スマホで短い告知はできる。
でも、このカメラで撮ってきた画とは違う。
スマホのカメラが悪いわけではない。
ただ、このレンズの色があった。
スライムゼリーの透明度が、少しだけ青く出る。
グリーンモスの細い葉が、暗い台所でもつぶれずに映る。
ピコの光が強すぎると白飛びするから、いつも露出を一段下げていた。
そういう癖を、手が覚えていた。
最初のスライムゼリーも。
ピコが初めて画面の端に映った日も。
一万人になった日の皿も。
このレンズ越しだった。
ひびを見ていると、そこに全部が重なった。
俺はカメラから目を離した。
今日撮った素材条件の映像は、メモリーカードに残っているはずだった。
カードを取り出し、パソコンに挿した。
ファイルは開けた。
最初の数分だけ、映っていた。
グリーンモスのラベル。
パープルモスのラベル。
赤い線を引いたゴールドモス不使用の袋。
それから、映像は途切れていた。
壊れる前に撮った分だけは残っている。
それを見て、少しだけ救われた。
* * *
夜、冷たいスライムゼリーだけを器に出した。
料理と呼べるほどのことはしていない。
透明な通常部位を、いつもの皿に置いただけだ。
それでも、ピコは膝の上から顔を上げた。
『ぴこ?』
「食べる」
少しだけ分ける。
『ぴこぴこ』
今日は二声だった。
俺も食べた。
冷たくて、淡く甘い。
うまい。
その一言だけは、まだ残っていた。
動画にできない夜の味だった。
誰にも見せないまま、皿の上で揺れている。
それが寂しかった。
でも、少しだけ助かった。
画面の外にも、食べる時間は残っている。
スマホにカナメからメッセージが来た。
「今日、どうだった」
俺は少し迷って、短く送った。
「B2で黒葉と接触した。怪我なし。JAGL報告済み。カメラが壊れた」
すぐ既読がついた。
「今日行く」
「来なくていい」
少し間があった。
「明日行く」
それ以上は返ってこなかった。
来なくていいと言っても、カナメは来る。
それがカナメだ。
ありがたいと思っている自分がいた。
ひびの入ったカメラがテーブルにある。
ピコが膝の上にいる。
明日、カナメが来る。
登録者:三万九千百四人。
ブクマや評価をいただけると、続きの執筆がすごく捗ります。
楽しんでいただけたら、ぜひ応援してやってください!




