第66話 監修一時停止の正式通知
最浅層の苔を鍋に入れていた朝、有希さんから連絡が来た。
昨夜のメッセージに「朝なら出られます」と返していた。
「電話できますか。十分で大丈夫です」
俺は火を止めて、スマホを取った。
* * *
有希さんの声は落ち着いていた。
「ユウトさん、今日の夕方か明日、葉山食品から正式な連絡が来ると思います」
「北条さんから縮小の話は聞いています」
「そうですか。では、私から伝えたいのは別のことです」
俺は立ったまま、スマホを持ち直した。
「私は葉山食品の業務窓口として連絡する立場ではなくなります。ただ、個人として、ユウトさんの採取記録の研究を私費で続けたいと思っています」
「……個人でですか」
「はい。祖父が最浅層に関心を持っていた理由を私は今でも探しています。ユウトさんの採取記録は、その手がかりの一つになると思っています」
「会社の資料は使いません。葉山食品で得た未公開データも持ち出しません。公開動画と、ユウトさんが同意してくれた範囲の記録だけです」
そこまで言われて、胸の奥が少し熱くなった。
有希さんは、逃げ道を作ったうえで続けると言っている。
「……それは有希さんにとって、負担じゃないですか」
「負担は構いません。続けたいんです」
俺は少し間を置いた。
「……わかりました。俺も続けます」
「ありがとうございます」
電話を切った。
鍋にもう一度火を入れた。
ことことと再び音が立ち始めた。
苔の青い香りがまた立ち上がってきた。
さっきより深くなっていた。
煮込まれた時間のぶん、味が出てきている。
火を止めていた間も余熱でゆっくり火が入っていたのだ。
指先で選んだ苔は、急がなくてもちゃんと出汁が出る。
そのことが今、妙に腑に落ちた。
有希さんが「私費で続けたい」と言った。
葉山食品が縮小しても有希さん個人は続けたいと言った。
その言葉の重さを俺は電話の間に受け取れていたか、自信がなかった。
落ち着いた声だったから。
感情をあまり出さない人だから。
でも、「続けたいんです」という一言だけは少し違う温度があった。
俺はそれを信じたいと思った。
* * *
夕方。
葉山食品からメールが来た。
件名は「監修業務に関するご連絡」。
本文を開いた。
読んだ。
要約すると。
監修業務を当面、縮小する。
月次のサンプル分析は継続する。
レシピ開発への関与は一時停止。
文面は丁寧だった。
「今後もご関係を続けたい」という言葉もあった。
でも、「一時停止」の二文字がそこにあった。
俺はメールを閉じた。
スマホをテーブルに置いた。
予想通りだった。
でも、来ると違う。
北条さんが反論してくれた。
有希さんが個人で続けると言った。
そのことは分かっていた。
でも、実際に「一時停止」という文字を目で見ると、別の感覚が来た。
積み上げてきたものが外側から圧力を受けている感覚。
自分の手が届かないところで動いている何かがある感覚。
胸の中に鈍い重さがあった。
怒りというより何かが詰まったような感触。
ここしばらく、監修してもらっていた。
北条さんとグリーンモスの出汁の粘度を一緒に計ったことを思い出した。
シンプルすぎてログを取るのが難しいと笑い合った。
レシピ開発の一部が、今日で止まった。
吐き出す言葉もなく、俺はスマホを裏返しにした。
喉の奥が細くなっていた。
台所に行って、水を一杯飲んだ。
冷たかった。
少しだけ胸の詰まりが緩んだ。
でも、消えはしなかった。
俺は立ち上がった。
B2に行くことにした。
* * *
JAGLアプリには通常採取の入場ログを残した。
父の地図も、葉山食品のメールを写したメモも持ち込んでいない。
苔の間を歩いた。
ピコがバッグから顔を出した。
「ぴこ」
一声。
いつも通りの一声だった。
岩盤に触れた。
指先に、よく育った株の張りが返ってきた。
苔の繊維の密度が手のひらに伝わった。
冷たい岩の感触。
指先で張りを確かめた場所を丁寧に採った。
葉山食品のメールの内容が頭の中に浮いていた。
「一時停止」。
北条さんが反論してくれた。
有希さんが個人で続けると言った。
でも、会社の決定は変わらなかった。
槇原という姓が出た。
東和グループ側の面談もあった。
槇原という名前が頭に来た。
俺は苔を採り続けた。
急がない。
でも、何かが動いている。
B2の岩盤を一つずつ回りながら、指先の感触を確認した。
「ここ」「ここじゃない」「ここ」。
指先が岩の縁を丁寧に読む。
苔の根元に密度のある場所を採る。
根を傷つけないように。
その繰り返しをしながら、頭の別の部分が動いていた。
葉山食品に、槇原という姓の担当者が来たという話。
黒葉のコメント欄の動き。
まだ一本の線とは言えない。
ただ、別々の場所から同じ方向の風が吹いているように見える。
でも、どこに向かっているのか、まだ分からない。
B2の奥三番目の岩盤の前に来た。
ピコが羽を開いた。
何かを思い出したような仕草。
指先の奥が低くうずいた。
今日も、あの違和感はある。
俺は立ち止まった。
岩盤に指先を当てた。
電気に似た、細い感覚。
変わらず、そこにあった。
何が起きても。
会社の決定が変わっても。
岩盤の下へ引かれるような感覚は、変わらずそこにある。
俺は深く、息を吸った。
B2の空気が冷たく、肺に入った。
苔の気配がある空気だった。
岩の湿った匂いが混じった空気だった。
この場所は変わらなかった。
* * *
帰って、今日採った苔でシンプルなサラダを作った。
グリーンモスとパープルモスを合わせた。
パープルモスは軽く茹でてから。
歯応えを残すくらいに。
鍋に水を入れて、沸かした。
シュウシュウと湯気が立ち始めた。
塩を少し入れた。
パープルモスを一分ほど茹でた。
茹でると青みがかった紫が鮮やかな色に変わった。
熱が入るほどに色が濃くなる。
紫が深くなって、澄んだ青紫になった。
熱を入れすぎると崩れる。一分が限界だ。
紫が鮮やかになりきる手前で火を止めた。
取り出した。
ざっと冷水に取った。
ざるに上げると水滴が落ちる音がした。
細かく、続く音だった。
水気を切って、グリーンモスと合わせた。
グリーンモスの青と茹でたパープルモスの鮮やかな紫。
器の中で色が混ざった。
ドレッシングはオリーブオイルと塩と、前にJAGL食用リストで確認しておいた酸味液。
合わせた。
ピコが鼻をひくつかせた。
「ぴこぴこ」
半音、上がった。
尾の光が小さく跳ねていた。
俺は分けた。
「ぴこぴこぴこ」
三声。
俺も食べた。
……うまい。
シンプルだからこそ、素材が出た。
グリーンモスの青みのある風味とパープルモスのほのかな甘みが一緒になった。
食感が違う。グリーンモスは歯切れよく、パープルモスはしっとりしている。
その対比が一口の中に入っていた。
これをずっとやってきた。
外から何か言われてもこの味は変わらない。
* * *
夜、動画を投稿した。
動画タイトルは「二色の苔サラダ、今日の気分で作った」にした。
概要欄には、グリーンモスとパープルモスはJAGL資料を確認済みで、パープルモスは加熱推奨のため茹でてから使ったことを書いた。
酸味液も食用確認済みのものだけを使っている。
真似するなら生食せず、JAGL資料を確認できる素材だけにしてほしい、とも添えた。
コメントが来た。
「今日の佐々木さん、なんか静かな感じがする」
「ピコ可愛い」
「二色の苔サラダ、色がきれい」
「tanuki_yamaより:苔サラダ、いつも参考にしています。今日のも作ります」
「何があったか知らないけど、応援しています」
「グリーンモスとパープルモスの食感の違いが面白い」
「最浅層なんで急がないんでってコメントが好きで毎回見てる」
「佐々木さんの動画、見るたびに落ち着く。なんでかな」
俺はコメントを読んだ。
「今日の佐々木さん、なんか静かな感じがする」。
見えるのかと思った。
カメラに映るのか。
返信はしなかった。
でも、見てくれているのはわかった。
葉山食品の「一時停止」は来た。
でも、コメント欄には今日も百件以上の言葉があった。
見てくれている人は変わらず、いる。
それだけのことだ。
でも、今日はその「それだけ」が重かった。
レシピ開発への関与は一時停止になった。
それでも、動画を見てくれる人はいる。
俺はスマホを置いた。
台所の灯が、静かに鍋を照らしていた。
登録者:三万七千九百八十八人。
ブクマや評価をいただけると、続きの執筆がすごく捗ります。
楽しんでいただけたら、ぜひ応援してやってください!




