第65話 葉山食品の縮小話
最浅層ダンジョンの入口近く、いつものカフェで北条さんと会った。
週明けの月曜日。
外は冬の曇り空だった。
北条さんはコートを脱いで椅子に掛けた。
顔に疲れがあった。
「先日は電話で失礼しました。今日、話を聞いてもらえますか」
「はい」
「単刀直入に言います」
北条さんはテーブルに両手を置いた。
「葉山食品の上層部が、監修業務の予算を削減する方向で検討に入っています」
* * *
俺はコーヒーを持ったままにした。
「……削減というのは」
「縮小です。打ち切りではありません。ただ——現状の規模を続けるのが難しくなってきています」
「分析回数、試作の確認、監修コメントの確認枠。そういう部分が減る可能性があります。監修表記をすぐ外す話ではありません」
北条さんは目を伏せた。
「私は上司に二度反論しました。佐々木さんの研究は弊社の食品開発に直接的な価値があると。それでも——会社として動いている方向は変えられませんでした」
俺は頷いた。
「……お知らせいただき、ありがとうございます」
「まだ正式な決定ではありません。今週中には連絡が来ます」
「分かりました」
「佐々木さん」
北条さんが俺を見た。
「申し訳ないと思っています。私は佐々木さんの採取スキルと料理をもっと世界に出したかった」
「北条さんがそう言ってくれているだけで十分です」
北条さんは少し目を閉じた。
カフェの中で他の客の話し声が遠くから聞こえた。
北条さんの前のコーヒーはまだ手をつけていなかった。
緊張しているのがカップに触れないその手から分かった。
「——最後に一つ。ここからは、私が確認を取ったうえで伝えられる範囲です」
「はい」
「葉山食品の上層部と東和グループ側の面談がありました。私は同席していません。ただ、来社した担当者の名刺名に——槇原という姓があったと聞いています」
「名刺そのものをお見せすることはできません。部署名や同席者名も、ここでは伏せます」
「分かっています。姓だけでも十分です」
槇原。
東和プロモーションとの話し合いの場で相手方の名前として出てきた名前だった。
以前、東和側の説明で聞いた、ダンジョン事業本部の専務と同じ姓。
その名前がここでまた出た。
手が一度止まった。
コーヒーカップを持ったまま、止まっていた。
胸の奥が一拍、詰まった。
線が一本、引かれそうになる感覚だった。
でも、まだ確定ではない。
俺はコーヒーを一口飲んだ。
苦かった。
でも、温かかった。
「北条さん。これを話してくださったことは——正直に言うと助かります」
「……佐々木さんのためになるかどうか、分からなくて」
「名前が分かっただけで違います」
北条さんはようやくコーヒーを手に取った。
一口飲んで少し表情が和らいだ。
「佐々木さんはどうするつもりですか」
俺は少し考えた。
「情報を集めます。できることから」
北条さんは間をおいた。
「……それが佐々木さんらしい答えだと思います」
* * *
カフェを出た。
外の冷たい空気が頭を覚ました。
コーヒーの苦みがまだ口の中に残っていた。
槇原という名前が頭を流れた。
北条さんの手がテーブルの上に置かれていた場面が残っていた。
カップに触れないまま、話してくれた。
それがどれだけのことか——俺には分かった。
B2に入った。
JAGLアプリには通常採取の入場ログを残した。
父の地図も、北条さんの話を写したメモも持ち込んでいない。
今日は、考えを整理するためのB2だ。
苔の間を歩いた。
ピコがバッグから顔を出した。
「ぴこ」
一声。
グリーンモスの岩盤に触れた。
指先からいつもの感触が来た。
よく育った株だ。
岩盤の表面が手のひらに密着する感覚。
苔の根元まで繊維がしっかりしている。
このグリーンモスの青い気配が今日も変わらずここにある。
B2の岩盤を一つずつ確認した。
指先で株の張りを確かめた。
ここはまだ早い。
ここは今日が採り頃。
俺はそれに従って、丁寧に採った。
根を傷つけないように。
来週も来れるよう、取り残しも考えて。
北条さんの声がまだ頭の中に残っていた。
「会社として動いている方向は変えられませんでした」。
北条さんは二度反論してくれた。
それでも変わらなかった。
圧力というのはそういうものだ。
個人の意思を凌いで組織として動く。
でも——それは北条さんのせいじゃない。
俺は苔を採りながら、そのことを確かめていた。
槇原という名前が頭を流れた。
東和を断ったことを黒葉が知っていた。
葉山食品に、槇原という姓の担当者が来たという話。
組織的に見えたコメントの動き。
全部が同じ方向を向いているように見える。
一点から放射状に広がっているようにも見える。
でも——どう動くかはまだ分からない。
今日は名前を覚えただけだ。
それで今日は十分だと思った。
B2の奥三番目の岩盤の前を通り過ぎた。
ピコが羽を開いた。
俺は止まらなかった。
今日はそちらじゃない。
* * *
帰って、B1のスライムゼリーを使ったデザートを作った。
冷やしたゼリーにグリーンモスを炒めてソースにした。
フライパンにバターを入れた。
ジュッと音がした。
甘みとコクの匂いが台所に広がった。
刻んだグリーンモスを加えると、緑の色がバターをまとって濃くなった。
バターに包まれた苔がじわりと香りを出し始める。
縁から少し濃い緑に変わって、中心は明るいまま。
その境目が少しずつ動いていく。
火を弱めて、ゆっくりと炒めた。
急いで炒めると苦みが出る。
弱火でじっくり、苔の青い香りとコクを引き出す。
五分ほど、フライパンの前に立っていた。
仕上げにゼリーの上にソースをかけた。
ゼリーの透明感と緑のソースの対比がきれいだった。
ソースがゼリーの表面を流れて、半透明の層ができた。
ピコが透明なゼリーを見て、鼻をひくつかせた。
「ぴこぴこ」
高い声。
尾の光が小さく跳ねていた。
「これは食べていいやつだ」
「ぴこぴこぴこ」
三声。
俺が言う前に三声。
俺は笑った。
一口食べた。
……うまい。
甘みとコクとひんやりとした食感が合わさった。
ゼリーのぷるんとした冷たさと温かいソースの対比。
口の中で温度が混ざった。
冷たいものと温かいものが同時にある、その境目の感触。
これはゼリーとソースを別々に食べたら、絶対に出ない味だった。
今日の気分にちょうどよかった。
北条さんの話がまだ頭に残っていた。
でも——この味は変わらない。
その名前が出ても、葉山食品の縮小話が来ても、この味は変わらない。
そのことが奇妙な安心感だった。
* * *
夜、動画を投稿した。
動画タイトルは「B1のスライムゼリーとB2のグリーンモスソース、デザートにした」にした。
概要欄には、JAGL食用登録済みのB1スライムゼリーとB2グリーンモスを使い、グリーンモスは加熱してソースにしたことを書いた。
再現するなら市販の下処理済み素材か、JAGLで確認できる素材だけにしてほしい、とも添えた。
コメントが来た。
「スライムゼリーの可能性、まだあったのか」
「グリーンモスソースのつやが可愛い」
「ピコが爆速で反応してて笑った」
「tanuki_yamaより:今週末に作ります!グリーンモス買ってきます」
「寒い日のデザートって何かいいよな」
「なんかこの組み合わせ、最浅層らしくて好き」
批判コメントは今日は来なかった。
俺はスマホを置いた。
葉山食品の公式連絡が今週中に来る。
槇原という姓がまた頭に来た。
北条さんがカップにも触れないまま話してくれた。
その手の重さが胸に残った。
知っているだけで動けていない。
でも——それでも、今日は一歩、前に進んでいた。
* * *
翌朝。
有希さんからメッセージが来た。
「葉山食品から正式連絡が行く前に一つお知らせがあります。今日か明日、時間はありますか」
正式連絡の前に、まだ話がある。
俺はスマホを持ったまま、しばらく画面を見ていた。
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