第59話 地図の記号
月曜日の午後。最浅層探索者だった父の古地図を源田屋のゲン爺に見せた。
ゲン爺は地図を受け取り、両手で広げた。
* * *
しばらく黙って見ていた。
「……健次郎の字だ」
ゲン爺の声が低かった。
「分かるんですか」
「字の癖が同じだ。昔から変わっていなかったから」
ゲン爺は地図の端から端までゆっくり目を動かした。
老いた指が紙の端を軽く押さえていた。
紙がぱりぱりと音を立てた。
乾いた紙の音。
十二年前から残り、いまは書斎と俺の手を行き来している紙の音。
昨日、自分一人で見た時よりも重く聞こえた。
ゲン爺の前で広げると、父の地図が家の中だけのものではなくなる。
それでも、動画や写真にする気にはならなかった。
ここで分かることは、まずこの場で受け止める。
「この記号、読めますか」
「……一部は読める。一部は読めない」
「読める部分は何ですか」
ゲン爺はB2の印を指さした。
「△の記号はワシらが使っていた符牒だ。意味は『採取的に特異な場所』。B2のここに△がついている」
ピコが光った場所に、近い。
俺は地図のその一点から目を離せなかった。
紙の上では、ただの小さな三角形だ。
でも、実際のB2では、ピコが白く光った岩盤がある。
地図の記号と現実の岩盤が、頭の中で重なりそうになった。
紙が急に薄いものではなくなった。
父が歩いた足音まで、そこに折り込まれている気がした。
でも、同じ場所だと決めるには早い。
地図の線と、現実の岩盤は違う。
現地で照らすまで、ここでは「近い」で止める。
「◎は——」
ゲン爺は別の場所を指した。
B5の奥の方。
「ワシらの符牒では『入ってはいけない場所』だ。でも——お前の父親が◎を重ね書きしている」
「重ね書きというのは」
「◎の上にもう一つ◎を書くのはワシらの符牒にはない。健次郎が自分で作った記号だろう。意味は——わからん」
* * *
ゲン爺は地図の中央付近を見た。
▽の記号がB3-B4の境界付近に書かれていた。
「これは読めますか」
「……わからん。ワシが知っている符牒の中に▽はない」
昨日は、そこで採取Sを使わなかった。
紙に答えを言わせるのが怖かったからだ。
でも、今はゲン爺が目の前にいる。
父の古い符牒を知る人が、同じ地図を見ている。
俺は採取Sを使った。
▽の部分に指を近づける。
通電の感覚——あった。
「……採取Sが反応しています」
ゲン爺は俺の指を見た。
「採取Sが地図に反応するか」
「……初めてです。素材じゃないのに反応したのは」
ゲン爺は長い間、黙っていた。
「……それが答えかもしれない」
「何のですか」
「健次郎が▽を作った理由の」
俺はゲン爺の目を見た。
「父は採取Sを持った人間だけが反応できる記号を書いたということですか」
「かもしれない。健次郎が後から来る誰かを——想定していたとも考えられる」
「ただし、決めつけるな」
ゲン爺はすぐに付け足した。
「反応があることと、意味が分かることは違う」
俺は地図を見た。
父が書いた記号。
採取Sを持つ人間でなければ、反応を拾えないかもしれない記号。
父が採取Sを持った「誰か」のために残したのかもしれない地図。
それが——俺に届いたように思えた。
十二年越しで届いたように、思えた。
胸の奥が一拍、詰まった。
指先がかすかに温かくなった。
ゲン爺が続けた。
「健次郎は計算した上で書いていたのかもしれん。誰にでも読めるものにしなかった。採取Sを持つ者だけが、別の反応を拾えるようにした」
「なぜ」
「……見せたい相手を、想定していたからだろう」
俺は地図をもう一度見た。
父が書いた、▽。
指先が静かにうずいている。
紙の下から、かすかな温度だけが返ってきた。
しばらく沈黙が続いた。
ゲン爺がお茶を一口飲んだ。
「坊主。一つ、聞いていいか」
「はい」
「父親のことを小さい頃から知っていたか」
「……あまり、知らなかったです。仕事のことはほとんど話さなかったと母から聞いています」
「そうか」
「でも——ゲン爺から話を聞いて、初めて、父のことが少し分かった気がします」
ゲン爺は目を細めた。
「健次郎は息子に話すつもりだったとワシは思っている。タイミングを待っていたんだろう。その前に——逝ってしまったが」
俺は頷いた。
喉の奥が少し詰まった。
泣く気にはならなかった。
ただ——その言葉が重かった。
「地図は持っておけ。B2の△の場所は——準備ができたら、現地で照らそう。ワシも久しぶりに降りてみたい場所がある」
「はい」
「急ぐな。B2でも、知らん場所を確かめる時は準備がいる」
「分かっています」
ゲン爺が、現地で照らそうと言った。
それが今日一番重要なことかもしれなかった。
* * *
地図を持って帰った。
ゲン爺の言葉が頭の中を回っていた。
「採取Sが地図に反応する」。
俺の能力が、素材そのものではない地図の記号にも反応した。
父が最浅層で探していた「層の下」。
ピコが立ち止まるB2の岩盤。
地図に書かれた△の場所。
全部が近い場所を指している気がする。
でも、まだ「気がする」だ。
現地で照らして、ゲン爺と見て、それから考える。
ピコがバッグの中で鳴いた。
『ぴ……ぴこ……ぴこ……』
三声。
いつもより長い声だった。
* * *
夜、カナメに連絡した。
「父のザックに古地図があった。ゲン爺に見てもらった。B2にある印が、ピコが光った場所と近いかもしれない」
しばらく既読がつかなかった。
五分後。
「……本当に、そこに何かあるのかもしれないね」
「たぶん」
「……ユウ」
「何?」
「気をつけて」
俺は地図をテーブルに置いた。
指先がかすかにうずいていた。
地図の紙は何も言わない。
でも、俺の手だけが、まだ少し温かかった。
夜、グリーンモスのスープを作った。
昆布と合わせて、弱火でゆっくり。
ぽこぽこと鍋が鳴った。
苔の青みがだんだん深くなって、出汁に緑が溶け込んだ。
冷蔵庫に残していた素材だった。
昨日までのB2の匂いが、鍋の中で香りを出している。
土の奥から来るような、岩盤の匂いがする。
ピコがカウンターで正座するような姿勢で待っていた。
『ぴこ……』
一声。待っていたことだけは分かる声。
俺は笑って、先にピコの分を取り分けた。
『ぴこぴこ』
満足の二声。
俺も飲んだ。
温かかった。
苔の繊維がほぐれて出汁に溶け込んだ、深みのある味だった。
飲むたびにB2の岩盤の前に立っているような気分になった。
父の地図がテーブルの上にあった。
▽の記号が薄い光の下でただそこにあった。
父が書いた記号。
採取Sでなければ反応しない記号かもしれない。
俺のために残してくれていたのか——まだ確かめようがない。
でも——その地図が今、俺の手の中にある。
それだけで十分な気がした。
スープをもう一口飲んだ。
深い、土の匂い。
B2の奥の香りがした。
指先の奥が低く、うずいた。
* * *
スープを飲み終えた後、鍋を洗いながら、今日ゲン爺に言われた一言を考えた。
「健次郎は息子に話すつもりだった。タイミングを待っていたんだろう。その前に——逝ってしまったが」
タイミングを待っていた。
でも、間に合わなかった。
だから、地図を残したのかもしれない。
採取Sを持つ者にだけ反応する記号で。
「話すつもりだった話」が十二年後にこの地図の形で届いたように感じた。
俺は鍋を棚に戻した。
父が話したかったことの続きを——俺がB2の岩盤の下で自分で見つけるしかない。
東和の件をまず片付ける。
それが次へ向かう準備だった。
企業の話を曖昧にしたまま、父の地図へ逃げるのは違う。
急がない。
でも、止まらない。
地図を畳む前に、もう一度だけ△に触れた。
指先がかすかに温かくなる。
採取Sの反応は小さい。
でも、消えない。
父が残した印は、まだ黙ったまま、そこにある。
そう思うと、眠るのが少しだけ惜しかった。
登録者:三万六千二百十三人。
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