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【最浅層×料理配信】戦闘F判定を喰らった俺、誰も採らないスライムゼリーで配信はじめたら、気づけば最浅層の億り人になってました  作者: いなばの青兎
第3章 深化編

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第60話 断ることと始まること

 火曜日の朝。東和プロモーションの中村さんにメールを送った。


「最浅層ごはんの配信スタイルを確実に守れる条件が今回の契約では確認できませんでした。そのため、今回の契約についてはお断りさせていただきたいと思います」。


* * *


 送信ボタンを押した。


 指先がかすかに温かくなった。


 胸の奥が一拍、細くなった。そして——ゆっくりと広がった。


 正しいかどうかは、まだ分からない。


 でも、自分で線を引いた感覚だけはあった。


 一時間後、中村さんから返信が来た。


「……残念です。ただ、ご決断を尊重いたします。佐々木さんのご活躍を楽しみにしています。もし、考えが変わるようなことがあれば、いつでもご連絡ください」


 丁寧な文面だった。


 俺は返信した。


「ありがとうございます。急がないのでもし縁があれば、また」


 送信した。


 画面を閉じた。


 スマホをテーブルに置いて、しばらく台所を見ていた。


 条件が曖昧なまま進まないと決めた。


 派手な区切りではない。ただ、俺の台所を誰かの都合で曲げないための、静かな線引きだった。


* * *


 カナメに伝えた。


「東和、断った」


「……そうか」


「うん」


「後悔してない?」


「してない。北条さんの言った『原則』の二文字が引っかかってた。それが取れなかった」


 カナメはしばらく黙っていた。


「……よかった。ユウが決めたからよかった」


「うん」


「——じゃあ、次に向かっていい?」


「次って?」


「B2のあの場所」


 俺は驚いた。


「……カナメが知ってたの?」


「地図の話、聞いてたし。ピコの異変の話も。ユウが気になってるのはずっと分かってた」


「……一緒に来るか?」


「今度、時間ある時に」


 カナメが少し声を柔らかくした。


「急がなくていいから。ちゃんと準備ができてから」


「うん」


「——何かあったら、すぐ連絡して」


「分かった」


 カナメらしかった。


 カナメは、行くなとは言わない。


 気をつけてとは言う。


 でも、止めない。


 急がなくていいと言って、準備の線を引く。


 俺が一番必要な言葉を知っている。


* * *


 午後、B2に入った。


 一人で。


 ピコを連れて。


 JAGLアプリには通常採取の入場ログを残した。


 カナメにも「下見だけ。岩盤は触るだけで、掘らない」と送っておいた。


 父の地図は鞄の内側に入れ、外では不用意に広げない。


 動画に映すつもりもない。


 本格的に確かめるのは、ゲン爺と現地で照らす時だ。


 今日は下見だ。


 いつもの採取ルートで、あの岩盤の前に立つだけ。


「苔の間」の奥。


 入口の空気がいつも通りひんやりとしていた。


 岩盤の匂い。苔の湿った緑の匂い。


 いつもの採取ルートを歩いた。


 足音が岩の床に静かに響いた。


 グリーンモスを採った。


 指先が軽く温かくなった。


 指先から苔の繊維の密度が伝わってくる。


 水分の含み方が適切で色の深さが均一だった。


 今日の苔は質がいい。


 グリーンモスを少し採った。


 そして——あの場所の前に立った。


 B2・苔の間・奥から三番目の岩盤の前。


 ピコが羽を開いた。


 今日は昼間だった。


 でも——光っていた。


 白い、静かな光。


 前よりも強かった。


 指先を岩盤にそっと当てた。


「通電」の感覚。


 これは——素材じゃない。


 岩盤が反応しているのでもない。


 その奥。


 地面の下へ、指先が引かれるような感覚。


 何かがあるのかもしれない。


 そう思うには十分だった。


 でも、断定するには早い。


 地図は出さなかった。


 昨日見た△の印を、頭の中で思い出す。


 父が地図に残した記号。


 鞄の内側にある紙の重さだけが、肩に伝わっている気がした。


 完全に重なったとはまだ言えない。


 だからこそ、次はゲン爺と照らす。


* * *


 鞄の内側にある地図の重さを確かめた。


 ピコの光が静かに揺れていた。


「……お前はここに何があるか、知っているのか」


 ピコは答えなかった。


 でも——羽の震えがいつもと違った。


 答えではない。


 ただ、いつもより長い震えだった。


* * *


 帰り道。


 胸の奥に、準備のような静けさが残っていた。


 何の準備か、まだ分からなかった。


 でも——何かが始まる気がした。


 父が見つけようとして、見つけられなかった何かが。


 俺の手が届くかもしれない場所にある。


「急がない。でも、逃げない」。


 父の書斎の余白に書いた言葉を思い出した。


 あれはまだ父のことを何も知らない頃に書いた。


 今は——父も同じ言葉を生きていたんだと思う。


 急がなかった。でも、逃げなかった。


 だから、「層の下」を探し続けた。


 その続きが俺の目の前にある。


* * *


 夜。新しい動画を上げた。


 タイトルは「B2で苔を採ってきた」。


 いつも通りのシンプルな動画。


 岩盤の場所は映していない。


 父の地図の話もしていない。


 今日の動画は、入口側のグリーンモス採取と火入れだけだ。


 でも——撮影しながら、俺はあの岩盤の場所をずっと意識していた。


 コメントが来た。


「ピコ、今日も可愛い」


「グリーンモスの火入れ、参考になります」


「tanuki_yamaより:苔炒め、今日も火入れして作りました!」


「最浅層なんで急がないんでって感じのペースが好きです」


「何かいいことあったか知らないけど、今日の最浅層ニキ、顔が晴れてる気がする」


 俺は最後のコメントを見た。


 顔が晴れている。


 断ったことを見てくれているのか。


 動画の中で俺はいつも通りに苔を採って、いつも通りに帰ってきた。


 でも——何かが見てくれている人には伝わっていた。


 コメント欄にはいつもの顔ぶれがいた。


 tanuki_yamaさん。dungeon_fan_7さん。tenmusu_kさん。


 毎回来てくれる人たちが今日も来ていた。


 俺が「急がない」ことを支持してくれている。


 東和に断ったことを動画で言ったわけじゃない。


 でも——空気が伝わるのか。


「顔が晴れている」という言葉は嘘じゃなかった。


 晴れていると思う。


 断ったから。


 次があるから。


 父の地図がバッグの中にある。


 B2の岩盤の前で感じた通電が、まだ指先に残っている。


 ゲン爺が「現地で照らそう」と言った。


 次の一歩は、一人で決めるものじゃない。


* * *


 動画を撮り終えた後、採ってきたグリーンモスを炒めた。


 バターを入れるとじゅっと音がした。


 青い香りとバターのコクが混ざって、台所が一瞬B2の苔の間に近い匂いになった。


 苔がフライパンの上で艶を持った。


 青緑から深い緑に変わっていく。


 ぱちぱちと湿気が抜けていく音がした。


 箸でつまんで一口食べた。


 バターのコクが先に来て、後から苔のほろ苦さと薄い甘みがじわりと広がった。


 食感はしゃりっと軽い。


 B2の岩盤へ向かう前に採ったものが、今夜、一番美味かった。


 ピコが膝の上で丸くなった。


『ぴこ……』


 静かな、眠そうな声。


 俺はスマホを置いた。


 今夜はここまで。


 急がない。


 でも——次はもう始まっている。


 スマホを伏せた。


* * *


 深夜。眠れなかった。


 東和を断った。


 月三十万円と機材とB15以深の素材サンプル提供。


 それを「原則」の二文字のために断った。


 後悔していないかと自分に問うた。


 していないと思った。


 でも——少し怖かった。


 葉山食品の監修業務は続いている。


 でも、その収入は月に数万円程度だ。


 東和の月三十万円は母の仕事を軽くできた金額だった。


 それを断った。


 それが正しかったのかどうか——今夜はまだ答えが出ない。


 ピコが枕の横で静かに光っていた。


 俺はピコの光を見た。


 B2の岩盤の下に、父が探していた何かがあるのかもしれない。


 東和に入っていたら、今日のように岩盤の前に立てたかどうかわからない。


「続けること」を守った先に——父の地図が待っていた。


 その順序は間違っていなかった。


 台所の窓から晴海の夜が見えた。


 近いうちに、ゲン爺と現地で照らす。


 怖くてもそこへ向かう準備を始める意味が、今夜分かった気がした。


 登録者:三万六千二百八十八人。


ブクマや評価をいただけると、続きの執筆がすごく捗ります。

楽しんでいただけたら、ぜひ応援してやってください!

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