第58話 父のザック
日曜日の朝。書斎で父のザックをもう一度見ることにした。
初めて鍵を開けた朝から、ずいぶん時間が経った気がする。
でも実際には、何年も経ったわけではない。
俺が変わっただけだ。
ゲン爺から父の話を聞いた。
父が採取Sを持っていたこと。
B2の近い場所で何度も立ち止まっていたこと。
何かを見つけた翌日に死んだこと。
そのあとで見る父のザックは、前とは違うものに見えた。
* * *
朝食の片づけが終わった後、母に一言だけ確認した。
「父さんの地図、もう一度見る」
母は少しだけ目を伏せて、それから頷いた。
「うん」
「見てもいい?」
「ユウが見るものだと思う」
母の声は静かだった。
でも、いつもより少しだけ低かった。
「父さん、書いていたことは知ってた」
「前にも言ってたね」
「でも、見せてもらえなかった。私にも」
母はそれだけ言って、食器を拭く布巾を畳んだ。
俺は頷いた。
これは動画の素材ではない。
まずは家の中で、もう一度受け取るものだ。
* * *
二階の書斎に入った。
棚に戻していた黒革のザックを机の上に置く。
前にB4まで背負って行った時の小さな擦れが、肩紐の端に残っていた。
父が使った革の上に、俺の機材の重さも少しだけ残っている。
B4の冷たい空気を吸った夜、このザックは俺の背中で何も言わなかった。
でも、肩から下ろした時、革の鳴る音だけが妙に耳に残った。
父も同じ音を聞いていたのかもしれない。
それでも、ザックの底にはまだ古い土の匂いがあった。
乾いた紙と革と、最浅層の湿った石を思わせる匂い。
ただの道具ではない。
父が持って行き、俺が背負い直したものだ。
中身はもう移してある。
机の引き出しから、革表紙の探索ノートを出した。
折り畳まれた古地図を出した。
薄い調理ノートを出した。
三つを机に並べる。
最初に開けた朝は、三つが父の遺品に見えた。
今日は少し違った。
父が途中まで書いて、俺が続きを見ている記録に見えた。
写真に撮ることはしなかった。
スマホも机の端に伏せた。
画面越しにすると、紙の重さが軽くなってしまう気がした。
* * *
まず、革表紙の探索ノートを開いた。
二〇一四年、四月十二日。
父の字で書かれた日付。
その下に、円と三角と点が並んでいる。
何度見ても、読めない。
でも、前より少しだけ怖くなかった。
ゲン爺の声が頭に残っていた。
健次郎は何かを見つけた。
父は何かを見つけた。
その言葉を知ったあとで見ると、ただの記号ではなくなった。
B4、苔の発光、再現性なし。
B5、記号、断片。
円、三角、点。反応、弱い。
日本語の部分だけを拾っても、答えにはならない。
でも、父がずっと同じものを追っていたことは分かった。
採取Sは使わなかった。
紙は採取物ではない。
ここで能力に答えを言わせたら、父の字を読む前に逃げてしまう気がした。
ただ、ページの端に触れた指先が、かすかに温かいような気はした。
紙の温度なのか、自分の体温なのかは分からない。
理由はまだ分からない。
分からないまま、記録しておく。
* * *
次に古地図を広げた。
和紙のような厚手の紙。
墨と朱の二色。
公式マップとは違う線の引き方。
前に見た時は、朱の丸が一つある地図だと思った。
今日は、机の横から朝の光を当てた。
朱の丸の周りに、細い重ね書きがある。
丸に見えた線の内側に、もう一つ小さな丸がある。
◎。
そう見えた。
地図の端のB2付近には、薄い△があった。
前は汚れか折り目だと思っていた。
B3とB4の境目あたりには、▽に近い線がある。
父が書いたのか、もともとの地図にあったのか、まだ分からない。
B5の奥には、朱の線が何度も重なっている。
俺は息をゆっくり吐いた。
父は、ここを何度も見た。
父は、ここに何かを書き残そうとした。
でも、今の俺が勝手に答えにしてはいけない。
鑑定Bを使った。
「古い」という感触だけが返ってきた。
鑑定Bは、地図の意味を読んでくれない。
採取Sも、父の考えを教えてくれない。
B2付近の△に指を近づけると、触れる前に息が止まった。
温度が変わったような気もしたが、まだ体温の揺れかもしれない。
前にゲン爺が見せてくれた古い記録の印と、似た位置に見える。
同じ場所とは言わない。
でも、無視できるほど遠くもなかった。
* * *
ピコが机の端に上がってきた。
古地図をのぞき込む。
羽が微かに震えた。
『ぴ……ぴこ……』
静かな、二声。
「……お前、気になるか」
ピコは答えなかった。
地図の上で、ピコの視線が一度止まる。
いつもの青緑の光が紙にそっと重なった。
紙は光を吸うように静かだった。
ピコの反応は証拠ではない。
でも、記録しておく価値はある。
俺はノートの余白に短く書いた。
『ピコ、B2付近の印で反応。断定しない』
父の字の横に俺の字が増えた。
それだけで、胸の奥が一拍、詰まった。
* * *
母に声をかけた。
「母さん。父さんの地図、前より少し見えた」
母は台所の入り口で手を止めた。
「どういうこと?」
「朱の丸だと思ってたところ、重ね書きかもしれない。B2の近くにも、見落としてた印がある」
「……そう」
「源田屋のゲン爺に見てもらう。父さんの字や、昔の符牒なら、分かるかもしれないから」
「うん。あの人なら、何か知っているかもしれない」
母はそれだけ言って、少しだけ息を吐いた。
「怖くない?」
「怖い」
母はそこで初めて、俺を見た。
「でも、見ない方が怖い」
「……そう」
母は台所に戻っていった。
蛇口を開く音が響いた。
洗い物を始めたのだと分かった。
その音が、家の中にある。
父の地図も、この家の中にある。
どちらも同じ朝の中にあった。
* * *
夜、ゲン爺にメッセージを送った。
本文は短く打った。
「父の古地図をもう一度見直しました。前には気づかなかった記号がいくつかあります。見てもらえますか」
少し経って、返信が来た。
返信はたった二文字だった。
「来い」
俺は地図をもう一度広げた。
写真は送らない。
紙の折り目も、朱の線の重なりも、画面越しでは軽くなる。
父の線も、紙の重さも、直接見ないと伝わらない。
明日、源田屋へ持って行く。
* * *
夕食を作った。
冷蔵庫にB2のグリーンモスが残っていた。
JAGL食用登録済みで、加熱用に分けておいた株だ。
今日は父の調理ノートに合わせて、炒める前に短く乾煎りした。
水気が飛ぶと、苔の青い匂いが少し丸くなった。
フライパンにバターを落とす。
ジュッと音がした。
塩を少し。
バターが溶けて、苔の繊維に絡む。
縁が焦げる前に火を止めた。
母が台所の入り口から顔を出した。
「……美味しそうね」
「食べる?」
「少しだけ」
小皿に分けた。
母は一口食べた。
俺も一口食べた。
しゃりっとした食感の奥に、乾煎りした分だけ甘みが残っていた。
バターの塩気が後から広がる。
「……お父さんが好きそうな味ね」
俺は何も言わなかった。
でも、さっき見た古地図の朱の線が頭の中で静かに重なった。
父はここまで書いた。
俺はここで食べている。
同じではない。
でも、途切れてもいない。
ピコが小皿の残りを見つめていた。
『ぴこ……』
一声。
俺はピコに少し分けた。
『ぴこぴこぴこ』
三声。最高評価だった。
* * *
洗い物を終えた後、地図を封筒に入れた。
革表紙の探索ノートも一緒に入れる。
調理ノートは机の上に残した。
明日、必要なのは符牒と地図だ。
ザックは棚に戻した。
父のザックはもう、閉じた箱ではない。
でも、まだ全部を開けたわけでもない。
外では登録者数が少しずつ増えている。
スマホには通知が来ていた。
今夜は見なかった。
明日、ゲン爺に地図を見せに行く。
この記号の意味を聞く。
父のザックは書斎の棚にある。
でも、今夜からは少し違う意味でそこにある。
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