第57話 父を知っていた男
土曜日。最浅層入口そばの源田屋に一人で行った。
水曜日、ゲン爺は「また今度」と言って、父の話をほとんどしなかった。
その続きを聞きに来た。
* * *
ゲン爺は今日もファイルを準備していた。
でも——今日はファイルを開かなかった。
「佐々木健次郎について、話す」
俺は椅子に座った。
「……はい」
* * *
「健次郎はワシより十五歳若かった。大発現の直後ではない。2004年頃、制度が少し落ち着き始めた時期に最浅層へ降り始めた第2世代の探索者だ」
ゲン爺は静かに語り始めた。
「B1からB5をくまなく歩いた。採取Sを持っていたから——そうか、坊主も採取Sか」
「はい」
「……父親に似ているな。同じように素材に触れる」
俺は手の中のお茶が少し揺れるのを見た。
手が震えていた。
父が採取Sを持っていた。
十二年間、誰も教えてくれなかった。
父の適性テストの結果を俺は一度も見せてもらっていない。
母は——知っていたのか。
聞いたことはなかった。
知らなかったのかもしれない。
採取S。俺と父が同じ。
俺の手のひらで日々、B1からB5の素材が「良品」か「否か」を告げる、あの感覚が——父の手のひらにもあった。
そう思った瞬間、胸の奥が詰まった。
手が震えた。
喉の奥が細くなった。
俺はお茶を一口飲んだ。
続きを聞かなければいけなかった。
「健次郎は最浅層に何かあると確信していた。ワシが1997年に書いたメモを後から読んで、同じことを感じたと言っていた。それでワシに連絡を取ってきた」
「何を探していたんですか」
「層の下だ」
「層の下というのは」
「B5よりさらに下。JAGLが管理している未踏層ではなく——最浅層の地面の下に何かがあると健次郎は言っていた」
指先の奥が、静かにうずいた。
「その根拠は」
「B2の苔の間だ。坊主もピコが立ち止まると言っていたあたり。健次郎も、あの周辺で何度も足を止めていた。足裏から下へ引かれるような感覚があると言っていた」
父と俺が同じ階層の、近い場所で足を止めていた。
二十年近い時間を超えて、似た何かに引き寄せられていた。
俺は一度深呼吸した。
「……父はどんな人でしたか」
ゲン爺は少し間を置いた。
「寡黙な男だった。でも、やると決めたことをやり遂げる。頑固というより——何かを深く確信するタイプだった」
「俺のことを話していましたか」
「……話していた。息子がいると言っていた。まだ小さいと」
俺が六歳の頃。
父はまだ最浅層を歩いていた。
その頃から父は「層の下」を探していた。
「健次郎はしつこく言っていた。最浅層はただの入門エリアじゃない。他の誰かが気づく前にちゃんと記録しておかないといけないと」
* * *
「父がなぜ、死んだのか、知っていますか」
俺は直接、聞いた。
ゲン爺は少し間を置いた。
「……事故だと聞いている」
「でも?」
「でもとは言っていない」
「ゲン爺の顔が言っています」
ゲン爺は俺を見た。
しばらく黙った。
「……坊主には今は言えない」
「なぜ」
「証拠がない。ワシが感じた、違和感だけだ。違和感を事実として言うことはできない」
「違和感というのは」
「……健次郎がB5の奥を調べに行く前の日、ワシに連絡を寄越した。何かを見つけたと言っていた。詳しくは話せないと言っていた」
ゲン爺の声が少し低くなった。
「翌日、健次郎は事故で死んだ」
* * *
俺は深呼吸した。
「……父は何かを見つけたんですか」
「わからん。ワシも後で確認しようとしたが、現場の記録の肝心なところが見られなくなっていた」
「誰が」
「わからん。でも——その直後から、ワシが調べようとすると妙な横やりが入るようになった」
「確認先が急に口を閉ざす。資料が出てこない。それがワシが最浅層を離れた理由の一つだ」
俺は椅子から立ち上がった。
ゲン爺を見た。
「ゲン爺がそれでも源田屋をここに続けているのは」
「……来る者がいたら、話そうと思っていた。健次郎の息子が来たら、なおさら」
それだけだった。
でも、その一言の重さが腹の底に沈んだ。
* * *
源田屋を出た。
晴海の空が夕暮れで赤かった。
俺はしばらく道に立っていた。
父が何かを見つけた。
その翌日、父が死んだ。
ゲン爺が「違和感」と言った。
それだけで何かを断定することはできない。
でも——指先の奥が、かつてないほど強く冷えていた。
ピコが肩の上で温かかった。
「……ピコ」
声が少し震えた。
「父が探していたのは——お前が光るB2の岩盤に繋がっているのかもしれない」
ピコは何も言わなかった。
でも——羽が微かに震えた。
俺は家に向かって、歩き始めた。
晴海の路地をゆっくり歩いた。
父が採取Sを持っていた。
父がB2の苔の間で立ち止まっていた。
父が何かを見つけた翌日に死んだ。
ゲン爺は三十年近く、話せないものを抱えていた。
そして十年ほど、ここで待っていた。
何のために。
誰かが来るのを。
父の息子が来るのを——待っていたんじゃないかと思った。
断定はできない。
でも——そうじゃないとも思えなかった。
帰ってから何かを食べようと思った。
お腹は空いていなかった。
でも——何か、作ろうと思った。
台所に立つことで整理できることがある気がした。
冷蔵庫を開けた。
B2のグリーンモスが一束残っていた。
フライパンを出した。
油を引いた。
弱火でゆっくり炒めた。
苔の香りが台所に広がった。
深い、土の匂い。
採取Sを持つ者が感じる「良品」の感触が父の指先にもあった。
この苔を採るとき、父の手のひらにも同じような通電の感覚があったのかもしれない。
それを思うと——炒めた苔の香りが違う意味を持ち始めた。
ピコがカウンターに乗って、鍋を見ていた。
『ぴこ……』
静かな、一声。
俺は火を止めた。
小皿に盛った。
箸で一口、口に運んだ。
炒めた苔の薄い緑が皿の上で熱を持ったまま湯気を立てていた。
歯が入ると繊維がしゃりっと割れた。
土の匂いと奥からにじむ甘み。
B2の岩盤の前で採ったものが今、台所で美味かった。
……本当に美味かった。
答えはまだ出ていない。
でも——飯は美味かった。
それだけは変わらなかった。
カナメにメッセージを送った。
「父が採取Sを持っていたことをゲン爺から聞いた」
少し経ってから返信が来た。
「……知らなかった。でも、ユウが採取Sなのなんか納得した気がする」
俺はスマホを閉じた。
カナメの「なんか納得した気がする」という言葉が頭の中で静かに広がった。
父が採取Sだったことを俺以外にも「そうだったのか」と思う人がいた。
それが奇妙な安堵になった。
ピコが小皿を丁寧に舐めていた。
* * *
深夜。眠れなかった。
書斎に置いてある父のザックが頭の中に浮かんだ。
鍵はもう開けた。
中身も一度、机に並べた。
でも、読んだとは言えなかった。
あのときの俺は、父の字を見ただけで胸がいっぱいになっていた。
ゲン爺の話を聞いた後なら、違うものが見えるかもしれない。
廊下を歩いて、書斎の前に立った。
棚に戻していた黒革のザックがある。
布の感触。古い革の金具の冷たさ。
指先がかすかに動いた。
「……もう一度、見る」
静かな、確信だった。
ゲン爺が言っていた。
「健次郎は何かを見つけたと言っていた」。
それが、あの古地図の中にまだ残っているかもしれない。
古地図を見直そう。
今夜じゃなくていい。
明日の朝でいい。
俺は書斎の明かりを消した。
階段を下りて、台所に戻った。ピコがカウンターで丸くなっていた。
「ピコ。父も、お前が光る場所に近づいていたのかもしれないな」
『ぴこ』
一声だけ。
眠気の中から返ってきた、短い声だった。
ピコはB2の岩盤の前で白い光を出した。
父も、その近くで立ち止まっていた。
採取Sを持つ父が探していた「層の下」。
採取Sを持つ俺が今、立っている場所。
明日、父のザックと古地図をもう一度見る。
十二年間、触れなかったものではなくなった。
でも——今夜の話を聞いた後ではもう、見ない理由がなかった。
登録者:三万六千三十二人。
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