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【最浅層×料理配信】戦闘F判定を喰らった俺、誰も採らないスライムゼリーで配信はじめたら、気づけば最浅層の億り人になってました  作者: いなばの青兎
第3章 深化編

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第56話 最浅層の記録

 水曜日。ゲン爺から「また来い」と短いメッセージが来た。


 月曜日から二日、父の名前が頭の中に残っていた。


 佐々木健次郎。


 ゲン爺が、知っていると言った名前。


 その続きを聞きに、最浅層入口近くの源田屋へ向かった。


* * *


 ゲン爺は棚の整理もせず、カウンターの前に座っていた。


 テーブルの上に古い茶色いファイルがあった。


「坊主だけでいいか」


「有希さんは?」


「後でいい。善三の孫に話すことと、健次郎の息子に話すことは分ける」


「……わかりました」


 ゲン爺が急須を持ち上げた。


 お茶を二杯、注いだ。


 俺の前に置いた。


「飲め」


 俺は両手で受け取った。


 温かかった。


* * *


 ゲン爺はファイルを開いた。


 手書きの古い記録だった。


 紙は乾いて、端が少し波打っている。


 俺はスマホを出しかけて、すぐに戻した。


「撮るな」


 ゲン爺が言う前に、俺は頷いた。


「はい。見せてもらうだけにします」


「この紙は、まだ外に出すもんじゃない」


 俺はファイルの位置を目で覚えることにした。


「大発現の翌年、1997年のものだ。ワシがB1からB5を歩き回っていた頃の記録だ」


 記録には採取した素材の名前と観察メモが書いてあった。


 グリーンモス。ブルースライム。ホタルトンボ。


 全部俺が今も採っている素材だった。


「最初に降りた連中は全員気づいていた」


「何にですか」


「この素材たちが——普通じゃないということに」


 ゲン爺はファイルの一ページを指さした。


「ワシが書いたメモだ。三十年近く前のものだが、読んでみろ」


 俺は読んだ。


「ブルースライムゼリー。低温での粘度変化が通常生物由来のゲルと合わない。説明不能。要再測定」。


 短い記録だった。


 でも、そこに書かれている言葉は、俺が最近計測していたB1ゼリーの数字と同じ方向を向いていた。


「俺も、葉山食品の監修でB1ゼリーの粘度を測りました。公開できる範囲で言うと、通常食材とは違う数値が出ています」


 ゲン爺は動かなかった。


「そうか。三十年近くかけて、ようやく数字にできるようになったか」


「当時はできなかったんですか」


「機器も足りん。制度も足りん。何より、調べ続ける体力がなかった」


 ゲン爺はページをめくった。


 次のページは、端が不自然に切られていた。


 破れたというより、そこだけ抜き取られたように見えた。


「記録が欠けている」


「ああ」


「誰が」


「わからん」


 ゲン爺は即答した。


「わからんことを、分かったようには言わん。ただ、欠け方が自然じゃない」


 俺はファイルのメモをもう一度見た。


 三十年近く前に書かれた文字が今も鮮明に読めた。


 その文字を書いた人間は今もここにいる。


 でも、続きはない。


 続きが、切られている。


 指先がかすかに冷えた。


 俺はゲン爺に聞いた。


「記録が欠けたのは、このファイルだけですか」


 ゲン爺はしばらく黙っていた。


「全部ではない。だが、肝心なところほど残っていない」


「有希さんのお祖父さんのノートも?」


「善三は慎重だった。だから一部は残った。だが、あいつの記録も、全部が残っているわけではないはずだ」


 有希さんの祖父のノート。


 ゲン爺のファイル。


 別々の場所に残った記録が、同じように欠けている。


 それだけで、背中が少し冷えた。


 俺は深呼吸した。


 胸の奥が一拍、詰まった。


 俺はお茶を一口飲んだ。


 ダンジョン産の葉の淡い緑。


「ゲン爺は——今も怖いですか」


 聞いてから失礼だったかと思った。


 でも、ゲン爺は顔色を変えなかった。


「……怖い、か。そうだな」


 静かな、間があった。


「坊主に正直に言う。ここに道具屋を続けてきたのはただ待っていたからというだけじゃない。ワシが調べるのをやめてしまったからでもある。その後悔が離れなかった」


 俺は何も言わなかった。


「坊主は——急がないと言っていたな」


「はい」


「それは正しいと思う。ただ——止まることとは違う」


 ゲン爺はファイルに置いた手を止めた。


「急がないと止まることは違う。ワシは止まってしまった。坊主にはそうなってほしくない」


 その言葉が腹の底に沈んだ。


* * *


 ゲン爺はファイルの後ろをめくった。


 地図ではない。


 B2観察表の欄外に、小さな印がついていた。


「これは何ですか」


「ワシが気になった場所に付けた印だ」


 ゲン爺は紙を俺の方へ向けた。


「B2の苔の間、とだけ書いてある。正確な座標はない」


 胸の奥が一度、強く鳴った。


 B2。


 苔の間。


 ピコが止まる岩盤のある場所。


 俺のメモには、正確な座標を書いていない。


 公開するためではなく、もう一度自分で確認するための記録だった。


「……似ているかもしれません」


「何にだ」


「最近、ピコがB2の苔の間の奥で立ち止まるんです。昼間でも羽が白く揺れるようになってきています」


 ゲン爺の目が鋭くなった。


「その妖精が光る、か」


「はい。ただ、同じ場所かは分かりません。俺の採取メモでは、苔の間の奥、三番目の岩盤です」


「現地で照らさんと分からんな」


「はい」


 確定ではない。


 でも、古い観察表にB2の印がある。


 俺のメモにも、B2の岩盤がある。


 それだけで、十分に手が冷えた。


「今度、現地で見る」


 ゲン爺が言った。


「お前一人で決めるな。ワシも行く」


「ゲン爺もですか」


「ワシの印だ。ワシが見に行かんでどうする」


「……また今度、話す。今日はここまでだ」


 ゲン爺が「また今度」と言う時、まだ話す準備ができていない何かがある。


 でも、今日は一つ変わった。


 ゲン爺が、動くと言った。


* * *


 帰り道。


 B2の印が、ゲン爺の1997年の記録に残っていた。


 ピコが立ち止まる場所と同じかどうかは、まだ分からない。


 でも、偶然だと片づけるには、近すぎる気がした。


 ゲン爺は、止まってしまったと言った。


 それでも今日は、ファイルを開いた。


 夜、帰ってから冷蔵庫を開けた。


 B2から持ち帰ったグリーンモスが残っていた。


 JAGL食用登録済みで、加熱用に分けておいた株だ。


 フライパンを出した。


 油を引いて、弱火で炒めた。


 苔が熱を持ち始めると青緑の葉が少しずつ鮮やかな深緑に変わった。


 ぱちぱちと小さな音がして、湿気が抜けていく。


 苔の香りが台所に広がった。


 土の奥底から来るような、B2の岩盤の匂いだった。


 今日見た欄外の小さな印が、その匂いの中に浮かんだ。


 箸で一口食べた。


 炒めた苔の繊維が歯の間でしゃりっと割れた。


 苦みの奥に薄い甘みがある。


 グリーンモスは焼くと甘みが出る。


 昨日、手触りで張りを確かめておいた株だ。


 熱で別の顔を見せた。


 この味は、ファイルには載っていない。


 古い記録に残っていたのは、名前と観察だけだった。


 三十年近く前の人たちは、ここまで食べて確かめる余裕があったのだろうか。


 ゲン爺の言葉が頭の中を回っていた。


「急がないと止まることは違う」。


「ワシは止まってしまった」。


 でも——今夜、台所でこれを炒めている。


 変わらない何かがある。


 ピコが鍋の音に反応して鳴いた。


『ぴ……ぴこ……ぴこ』


 ゲン爺が答えをくれたわけじゃない。


 それでも、確認しに行くと言った。


* * *


 食べながら、ゲン爺の言葉を整理した。


 ゲン爺は自分が止まってしまったと言った。


 三十年近く、秘密を抱えたまま。


 そして十年ほど、道具屋を続けながら、待っていた。


 でも——ゲン爺は今日、ファイルを開いた。


 B2の印を見せた。


 それは「止まっていた」人間の行動じゃない。


 ゲン爺もまた、ここから動こうとしている。


 ゲン爺が「また今度」と言う限界点まで来たということかもしれなかった。


 炒めた苔が冷めていった。


 でも、香りはまだ台所に残っていた。


 ピコが小皿を覗き込んで俺の顔を見た。


『ぴこ』


「大丈夫だ。次は、佐々木健次郎の続きを聞く」


 その言葉が、苔の香りの中で固まった。


 ゲン爺は、まだ父の話をほとんどしていない。


 でも、ファイルを開いた。


 B2の印を見せた。


 それだけで、次へ進む理由には十分だった。


 急がない。


 でも、止まらない。


 登録者:三万五千三百九十人。


ブクマや評価をいただけると、続きの執筆がすごく捗ります。

楽しんでいただけたら、ぜひ応援してやってください!

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