第55話 ゲン爺の記憶
月曜日の午後。最浅層入口そばの源田屋に有希さんを連れて行った。
日曜は動画も投稿せず、メモだけを整理した。
山田善三。
源田正夫。
佐々木健次郎。
その三つの名前が、同じ場所に置かれる可能性がある。
有希さんは、祖父のノートを鞄に入れていた。
表情は落ち着いていたけれど、指先だけが少し硬かった。
* * *
引き戸を開けるとゲン爺はいつも通り棚の整理をしていた。
「また来たか、坊主」
「はい。——今日は連れがいます」
ゲン爺が振り返った。
有希さんを見た。
一秒。
「……山田の孫か」
「はじめまして。山田有希と申します。祖父、山田善三のことをご存知だと聞いて」
ゲン爺は少し間を置いた。
有希さんの顔をもう一度ゆっくり見た。
「……善三の孫が。そうか」
ゲン爺の声が一瞬低くなった。
胸の奥がかすかに揺れた気がした。
ゲン爺はカウンターの奥から椅子を二つ出した。
「座れ」
* * *
源田屋の奥は外より少し暗かった。
棚に並んだ採取道具が古い木の匂いを出していた。
ゲン爺は急須でお茶を二杯、出した。
黄みがかった、薄い緑のお茶。
ダンジョン産の葉を使っていると前に聞いた。
「今日はわざわざどこから来た」
「葉山食品の広報課に勤めています。ダンジョン食材の研究にも関わっています」
「葉山か。善三の孫が食品の研究か。面白いな」
ゲン爺の声が少し和らいだ。
有希さんは鞄から私物のノートを出した。
「今日は、会社としてではなく、祖父の孫として伺いました」
有希さんは先にそう言った。
「ここで伺ったことを、許可なく社内資料にはしません」
「当たり前だ」
ゲン爺は短く言った。
「会社に出す話じゃない。少なくとも、今はな」
「はい」
有希さんは祖父が亡くなる前に残したメモの話をした。
「最浅層の本当の価値に気づいた者が独占しようとする時が来るかもしれない」。
ゲン爺は静かに聞いていた。
「……善三らしい書き方だな」
「知っていたんですか」
「知っているというか、同じことをワシも思っていた」
「あの頃というのは」
「大発現の直後だ。最初に降りた連中は、みんな分かっていた」
ゲン爺は湯飲みを置いた。
「最浅層は、ただの初心者階層じゃない。あの頃から、そういう違和感はあった」
「祖父も、同じようなことを書いていました」
「善三は慎重な男だった」
ゲン爺の声が少し低くなった。
「だから、お前さんの家に残っているなら、それは大事にしろ」
有希さんはノートの上で指を止めた。
「残っているなら、ですか」
「全部が残るとは限らん、という意味だ」
それ以上、ゲン爺は言わなかった。
俺はその沈黙の方に重さを感じた。
欠けている。
その言葉までは出ていない。
でも、何かが欠けていることだけは伝わってきた。
* * *
有希さんとゲン爺が話している間、俺は黙って聞いていた。
父の古いメモにも、最浅層らしい記述があった。
まだ読めない記号も多い。
でも、父がこの場所に無関係だったとは、もう思えなかった。
「……ゲン爺」
俺が口を開くと二人がこちらを見た。
「佐々木健次郎という名前に、覚えはありますか」
ゲン爺は動かなかった。
俺をじっと見た。
三秒。
「……健次郎」
小さく繰り返した。
その声で、知っているのだと分かった。
喉の奥が細くなる。
「やはり、そうか」
ゲン爺が言った。
「佐々木健次郎の息子、か」
俺は気づいたら、椅子の端を握っていた。
「知っている」のか。
この人が——父を知っている。
手が震えた。
喉の奥が細くなった。
「……知っているんですか」
「知っている」
ゲン爺は椅子に深く座り直した。
顔に、言葉にしにくいものが浮かんだ。
驚きでも、喜びでもない。
痛みを飲み込んだような重さだった。
「いつから」
「名字と目元で、薄くはな。だが、名乗らん相手に、ワシから言うことじゃない」
ゲン爺は俺から目を逸らさなかった。
「健次郎とワシは同じ時代に最浅層を探っていた。あいつは——」
途中で止まった。
「……続きはまた今度だ」
「どうして」
「一度に全部話すことじゃない。ワシも整理が必要だ」
ゲン爺の視線が、俺ではなく古い棚の奥へ落ちた。
ゲン爺はお茶をもう一口飲んだ。
その手が少しゆっくりだった。
何かを思い出しているような、動作だった。
* * *
源田屋を出た。
夕暮れの路地。
有希さんが静かに言った。
「……繋がってたんですね、いろいろ」
「うん」
父のこと。
ゲン爺の「整理が必要だ」という言葉。
有希さんの祖父とゲン爺が同じ時代に最浅層を歩いていた。
その時代に何かがあって、今も言えないことが残っている。
父も、その外側にはいなかった。
何かが——大きく動き始めた気がした。
ピコが肩の上で静かだった。
『ぴ……』
低い声だった。
有希さんが振り返った。
「ユウトさん。私はもう少し話を聞けますか」
「いつでも」
「ありがとうございます。また、源田さんのところへ来てもいいでしょうか」
「ゲン爺が来たければ来いと言っていましたから」
「そうですか」
有希さんは少し頷いた。
それから少し考えるような間があった。
「……ユウトさんのお父様のことが出てくるとは思いませんでした」
「俺も驚きました」
「……源田さんが整理できたら、また話してくれますよね」
「たぶん」
夕暮れの路地に風が来た。
有希さんのコートの裾が少し揺れた。
俺は空を見た。
晴海の街の上にうっすら赤い。
父が最浅層を歩いた頃、この空も同じ色をしていたんだろうか。
「——じゃあ、またご連絡します」
有希さんが駅の方向に歩いていった。
俺はしばらく路地に立っていた。
ピコが肩の上で小さく動いた。
『ぴ……ぴこ』
二声。
羽の光が、いつもより少し弱かった。
「……わかった。急がない」
ピコが羽を閉じた。
源田屋の引き戸が微かに軋んでいた。
ゲン爺がまだ中にいるはずだった。
整理が必要だと言った。
三十年間、誰かが来るのを待っていたのかもしれない。
俺はその引き戸をもう一度開けなかった。
今日はここまでだ。
続きはゲン爺が話す時に聞く。
夕暮れの路地が二人分の足音を飲み込んだ。
* * *
帰り道、足が少し重かった。
「整理が必要だ」というゲン爺の言葉が頭に残っていた。
整理が必要なのは——ゲン爺だけじゃない。
俺自身も今夜は少し整理が必要だった。
父が最浅層を探索していた。
ゲン爺と有希さんの祖父と同じ時代に。
三人が繋がっていた。
そして——ゲン爺は父を知っていながら、これまで俺に何も言わなかった。
なぜ、今日まで。
そこがまだわからなかった。
ゲン爺は「整理が必要だ」と言った。
俺も「整理が必要だ」と思った。
でも——ゲン爺の「整理」と俺の「整理」は違うものかもしれない。
ゲン爺は三十年間、何かを抱えて、ここにいた。
俺は今日、その「何か」の端に触れた。
ピコが肩の上で一声鳴いた。
『ぴこ』
アパートのドアを開けて、電気をつけた。
台所がいつもの光で照らされた。
B2のグリーンモスを出して、スープにした。
JAGL食用登録済みで、昨日の残りを加熱用に分けておいたものだ。
小鍋に水とグリーンモスを入れて、弱火にかける。
細かく刻んだ苔がゆっくりと水の中に溶けていく。
青みがかった緑が鍋の中に広がった。
草と石の匂いが立つ。
最浅層の匂い。
今夜の台所にはこれが必要だった。
ひとすくい、飲んだ。
甘くて、静かな味だった。
今日のことを考えながら飲んでいると、少しずつ体の中から温かくなった。
温かい料理を作りながら、父の名前が口の中で転がっていた。
佐々木健次郎。
ゲン爺がその名前を繰り返した時の顔がまだ目に残っていた。
スマホを伏せたまま、しばらくスープを飲んだ。
今日はコメント欄を開かなかった。
誰かの声を足す前に、父の名前を自分の中で置く時間が必要だった。
続きを聞くのは、ゲン爺が話せる時でいい。
急がない。
今日は、この名前をここに置く。
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