第54話 懐かしい味の正体
土曜日。カナメが来た。
「ちゃんと寝た?」
玄関を開けて最初の一言が、それだった。
「寝た」
「ならよし。じゃあ、何か作って」
心配と食欲が同じ順番で来る。
カナメらしいと思った。
手元にある安全確認済みの最浅層食材で、作れるだけ作ることにした。
* * *
台所に素材が並んだ。
B1のゼリー通常部位。
濃縮核。
B2のグリーンモス。
食用処理済みで冷凍していた、B4ホタルトンボの発光器官。
濃縮核だけは別枠だ。
北条さんにも確認してもらったロットから、小さじ二口分だけ。
食用評価ではなく少量の試作だと、カナメにも先に伝えた。
カナメはダイニングの椅子に座って、ピコと遊んでいた。
『ぴこ……ぴこ』
カナメがピコの頭を指で撫でるたびにピコが鳴く。
「ピコって、ちゃんと懐くね」
「カナメが来るたびに喜んでる気がする」
「そうかな」
「うん」
まな板の上にグリーンモスを並べた。
JAGLの食用登録と加熱推奨は確認済み。
包丁で刻む。
トントンという音が台所に響いた。
苔の青い香りが漂い始めた。
B2の奥で採れたやつはこういう匂いが強い。
根元まで詰まった繊維が刻むたびに香りを解放する。
フライパンを熱した。
油を薄く引いて、グリーンモスを短く炒める。
ジュッと音がして、甘みとコクが凝縮した匂いが立ち上がった。
青臭さが抜けて、ナッツみたいな香りが少しだけ出る。
昨日採った株の張りは、火を入れても崩れなかった。
ピコがカナメの手から離れてカウンターに来た。
『ぴこぴこ』
鍋の方向に向けて、期待の声を上げた。
「待て」
『ぴこ』
一声。素直だった。
ピコがカウンターで姿勢を低くして、鍋の音に耳を傾けている。
こいつが料理に本気で集中しているときはこういう姿勢になる。
カナメがダイニングから様子を見ていた。
「本当に料理が好きなんだね。ユウって」
「食材を無駄にしたくないの方が近いかも」
「それが好きってことでしょ」
少し考えた。
「……そうかもな」
* * *
一時間後。三皿、並んだ。
グリーンモスの温サラダ。
ホタルトンボの小さな天ぷら。
濃縮核の温蜜パフェ。
温サラダは、刻んだグリーンモスに塩と少しの酢を合わせた。
湯気の中に青い香りが立つ。
ホタルトンボの天ぷらは、食用処理済みの発光器官を薄衣で包んだものだ。
今日は動画にはしない。
カナメに食べてもらうための食卓だった。
明かりを消した瞬間、テーブルの上でホタルトンボの天ぷらが青緑に光った。
ピコの羽の色と混ざって、食卓が淡く輝いた。
青の光が揺れるたびに、皿の縁が薄く染まる。
天ぷらの衣の焦げ目がその光を受けて、夜のB4の天井みたいに見えた。
「これ、毎回見てもすごい」
カナメの声が暗がりの中で静かだった。
「うん」
光が落ち着いてからまた明かりをつけた。
カナメは温蜜パフェを小さじですくった。
冷たい濃縮核の上に、温めたB1ゼリーの蜜をかけてある。
透明な蜜が、半固体の濃縮核の凹みにゆっくり沈んでいた。
口に入れる。
しばらく黙っていた。
カナメの表情が少し遠くを見るような顔になった。
「……また、懐かしい感じがする」
「また、か」
「前も言ったよね」
「フルコース出した時だろ」
「そう。あの時からずっと気になってた」
カナメはもう一口食べた。
温かい蜜と、冷たい濃縮核。
口の中で温度が二つに分かれて、それからゆっくり一つになる。
甘みは淡い。
でも後味に何か、深いものが残る。
「……なんだろう。場所じゃなくて、温度の感じなんだよね」
「温度?」
「手が冷えてる時に、温かいものを渡してもらったみたいな」
俺は何も言わなかった。
胸の奥が、一拍、詰まった。
懐かしい味の正体は、味そのものじゃない。
温度だ。
冷えた手に、温かいものが渡された記憶。
そこまでは、カナメの中で形になっていた。
「カナメ、子供の頃のこと覚えてるか」
「何を」
「父が死んだ前後の頃」
カナメは少し表情を変えた。
「……六歳の頃でしょ。私もまだ幼くて」
「うん」
「なんで急に」
「嫌なら答えなくていい。父さんの話にも近いから」
カナメは小さく首を横に振った。
「大丈夫。六歳だったし、断片しかないけど」
「そうか」
俺はゼリーの残りをすくった。
指先が、スプーンの柄を強く握っていた。
これ以上聞くと、カナメに答えを作らせてしまう気がした。
今日は、ここまででいい。
* * *
食事が終わった後。
「東和、どうするの」
カナメが聞いた。
「……まだ決めていない」
「そうか」
「でも——何を守りたいかはわかってきた」
「何?」
「……続けること。この料理をこの感覚で続けること」
カナメはしばらく黙っていた。
「それが守れる選択をすれば、いい。でも、危ない選択なら止める」
「うん」
「ユウが自分で見て、自分で選ぶなら、私は味方する」
「ありがとう」
カナメは少し視線を落とした。
「……あのさ。さっきの懐かしい感じの話」
「うん」
「……本当にうっすら覚えてる気がするんだよね。寒い日に外で何か温かいものを食べさせてもらった記憶。誰かが一緒にいた記憶」
「そうか」
「……でも、誰だったか、思い出せなくて」
俺は何も言わなかった。
胸の奥が一拍、詰まった。
カナメの言う「懐かしい味」。
手が冷えている時に温かいものを渡してもらった感覚。
それがいつのことなのか。
どこのことなのか。
まだ分からなかった。
父が死んだ頃。
カナメの言う、うっすらとした記憶。
喉の奥が、少し熱くなった。
答えは出ない。
でも、温かいものを渡されたという感覚だけは、カナメの中に残っている。
ピコが二人の間で静かに丸くなっていた。
『ぴこ……』
柔らかい一声。
ピコの青緑の光が小さく揺れた。
* * *
俺は台所を片付け始めた。
カナメが手伝ってくれた。
二人で黙って、食器を洗った。
水の音だけが台所に続いた。
グリーンモスの葉が排水口に引っかかった。
それを摘まんで捨てた。
カナメが横にいて、グラスを拭いていた。
ずっと一緒に育ってきた。
隣の家で、同じ街で。
でも——カナメの記憶の中に「誰かから温かいものを渡された」という断片がある。
俺の料理でそれが呼び起こされた。
なぜ、なのか。
カナメが食器を棚に戻した。
「ごちそうさまでした」
「うん」
「——また食べさせてよ」
「いつでも」
カナメが出て行った。
扉が閉まる音。
ピコが台所のカウンターで丸くなっていた。
『ぴこ……』
静かな、眠そうな声。
俺は残ったパフェを一口食べた。
……懐かしい感じはしなかった。
ただ、美味い。
それだけだった。
でも——カナメには何かが届いていた。
* * *
カナメが帰った後、ふとDungeonTubeのコメント欄を開いた。
以前のホタルトンボ天ぷら動画に、まだ新しいコメントが来ていた。
「正規販売の食用処理済み発光器官で再現してみた。暗くしたら本当に光った」
「この素材、見た目だけじゃなくて味もちゃんとある。凄くない?」
「概要欄の注意書き助かった。B4素材は無理せず店売りだけにする」
「ピコが光の色に反応してるのかわいすぎる」
俺は一つ一つ、読んだ。
誰かが家で光を見た。
最浅層の食材が誰かの台所で光った。
それだけのことなのに——なぜか、胸の中が少し温かくなった。
まあ、いいかと思った。
答えはまだ出ない。
でも、こうやって動画が誰かの場所に届いているなら。
最浅層なんで。
急がない。
ピコが俺の膝の上で目を細めた。
* * *
ピコが眠りについた後、俺は残りの片付けをしながら、カナメの言葉を考えた。
「寒い日に外で温かいものを渡してもらった記憶」。
父が死んだのは、俺が六歳の時だ。
カナメも同じ頃の記憶を話していた。
最浅層の素材を使った料理がその記憶に触れた。
もし、あの頃に誰かがカナメに最浅層の食材を渡していたとしたら——。
俺は皿を棚に戻しながら、ゆっくり考えた。
答えはまだ出ない。
ただ、父の頃の最浅層と、カナメの温度の記憶は、どこかで触れている。
そんな気がした。
台所の灯りを消した。
週明け、有希さんと源田屋へ行く。
山田善三のノートと、ゲン爺の記憶。
そこに、父の名前が出てくるかどうかは、まだ分からない。
でも、聞く準備だけはしておく。
登録者:三万四千百二十一人。
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