第53話 守りたいもの
金曜日。B2の「苔の間」に降りた。
東和への契約可否は、来月末までに返せばいいと言われている。
まだ一か月近くある。
その時間を、ただ迷うためには使いたくなかった。
* * *
「苔の間」の空気は、いつも少し青い匂いがする。
岩肌に近いところほど湿っていて、グリーンモスの葉先が細かく揺れていた。
俺はJAGLの食用登録と加熱推奨を確認済みの範囲で、状態のいい株だけを選んだ。
動画にするなら、ここで「誰でも採れます」とは言わない。
B2はB1より湿度も足場も違う。
食用登録済みでも、採る場所と状態を間違えれば、料理ではなく事故になる。
指先で根元を押さえる。
柔らかすぎるものは避ける。
色が濃く、葉の内側に張りがあるものだけを、ナイフで浅く切る。
指先に、細い熱が返ってきた。
これは、契約書の文字ではない。
素材に触れた時だけ来る、いつもの感覚だった。
守りたいのは、これなのかもしれない。
指先で選び、手順を決め、台所で確かめて、記録する。
東和を断りたいのかと聞かれたら、まだ分からない。
月三十万円も、機材も、B15以深の素材サンプルも、正直に言えば魅力的だ。
でも、それを受け取った後に、この手順が他人の「原則」で変わるなら。
その時、俺は何を失うのか。
答えではなく、輪郭だけが見えた。
* * *
苔の間の奥へ進んだ。
ピコがバッグから顔を出す。
『ぴ……』
短い声だった。
前に、ピコが羽を広げて止まった岩盤がある。
今日は昼間で、前に見えた夕方の光柱の反射はなかった。
それでもピコは同じ場所で止まった。
羽の端が、青緑ではなく、ほんの一瞬だけ白く揺れた。
「ここか」
『ぴこ』
答えるというより、そこから目を離さない声だった。
俺は岩盤に指先を当てた。
冷たい。
ただの石の冷たさに似ている。
けれど、奥の方で、水面を叩くような低い震えがあった。
グリーンモスの手触りとは違う。
ゼリーの通電とも違う。
何かが分かったわけではない。
でも、忘れない方がいい場所だ。
俺はスマホのメモに、場所と時間だけを残した。
正確な位置は、公開用メモには入れない。
JAGL地図の区画番号も、動画に映さない。
知っていることを全部出すのは、記録ではない。
今の俺には、まだ守るために出さない情報がある。
動画にはしない。
まだ、見せられるものではなかった。
* * *
一度、地上へ戻った。
JAGLのロビーで今日の採取量を記録し、源田屋へ向かう。
容器の補充も必要だった。
「また来たか、坊主」
「容器の補充です。あと、聞きたいことがあります」
ゲン爺は棚の奥から顔だけを向けた。
「何だ」
「山田有希さんをご存じですか。葉山食品で、ダンジョン食材研究にも関わっている方です」
ゲン爺の手が止まった。
「……山田の孫か」
その一言で、喉の奥が細くなった。
「有希さんのお祖父さんを知っているんですか」
「山田善三」
ゲン爺は名前だけを先に置いた。
それから、少し間を空けた。
「ワシと同じ第1世代だ。十年ほど前に亡くなった」
有希さんのノートにあった名前が、目の前のゲン爺の記憶につながった。
「有希さんが、祖父のノートを持って話を聞きたいと言っていました」
「……そうか」
ゲン爺は、棚に置いていた容器を一つ取り出した。
「会社の話か」
「いえ。有希さんは、お祖父さんの孫として聞きたいと言っていました。もちろん、本人にももう一度確認します」
「なら、来る前にそれを言え」
「はい」
「来たければ、来い。ワシはここにいる」
「週明けでもいいですか」
「構わん」
それだけだった。
でも、「山田善三」という名前を聞いた時のゲン爺の手は、確かに一度止まっていた。
俺はそれ以上、聞かなかった。
* * *
店を出てから、有希さんにメッセージを送った。
「ゲン爺に確認しました。山田善三さんを知っていました。週明けなら話を聞けるそうです」
すぐには返事が来なかった。
支部の前まで戻ったところで、通知が鳴る。
「ありがとうございます。週明けに伺います。祖父のノートを持って行きます」
文字は短かった。
でも、画面の向こうで有希さんが息を整えている気がした。
俺はスマホをしまった。
明日ではない。
週明けだ。
その前に、俺は自分の手順をもう一度確かめる。
人を連れていく時も、素材を採る時と同じだ。
どこまで聞いていいのか。
何を記録してよくて、何を外に出してはいけないのか。
それを曖昧にしたまま進むと、後で誰かを傷つける。
俺は有希さんへの返信に、もう一文だけ足した。
「当日は、会社の確認ではなく、お祖父さんの話として聞く形で大丈夫ですか」
少し間があって、返事が来た。
「はい。会社としてではなく、孫として伺います」
その文字を見て、ようやく息を吐いた。
* * *
夜、帰宅して、昼に採ったグリーンモスを下処理した。
洗って、水気を切り、加熱用に小分けする。
青い香りが台所に立った。
今夜食べるのは、B1ゼリーの冷たいパフェにした。
使うのは、白い筋も濃縮核も避けた通常部位。
透明なゼリーを細かく切り、冷やした器に入れる。
上から、塩をほんの少しだけ溶かした蜜をかけた。
蜜は濃くしない。
ゼリーの淡い甘さを消さないように、スプーンの背で一度だけ混ぜる。
器の内側で、透明な角が小さく鳴った。
スプーンを入れると、ゼリーの角がぷるんと揺れた。
今日はカメラを回さない。
誰かに見せる前に、自分が何を守りたいのか確かめたかった。
ひと口食べる。
冷たい。
舌の上でほどけて、淡い甘みがすっと広がる。
蜜の塩気が、甘さを輪郭だけ強くする。
喉を通った後、最浅層の水みたいな冷たさが残った。
「……あ、これ」
いつもの味だ。
「……美味い」
派手な答えではない。
ただ、これを自分の速度で確かめられること。
それを失いたくないのだと、やっと言葉にできた。
東和を断ると決めたわけではない。
でも、何を守るために考えているのかは分かった。
* * *
ピコが皿の端に寄ってきた。
『ぴーこ』
皿の上を見て、声が少し高くなる。
「食べるか」
小皿に一口分だけ分ける。
ピコはゼリーを食べて、羽を小さく震わせた。
『ぴーこ』
満足そうな声だった。
俺は笑った。
コメント欄を開く。
今日は投稿していない。
それでも、最近の動画には新しいコメントがついていた。
再生数の通知は派手ではない。
でも、一本前の動画に、今日も誰かがたどり着いている。
俺が何も投稿しない日にも、最浅層ごはんは誰かの台所で再生されている。
「採取Sって料理にも使えるの、ずっと不思議だった」
「最浅層ごはん、感覚の説明がうまいから見てしまう」
「真似したいけど、安全条件もちゃんと見ないとだな」
最後のコメントで、指が止まった。
真似したい。
そう思う人が増えている。
だから、次に話すなら、能力の不思議さよりも先に、安全条件と手順を話すべきだ。
採取Sの話をするなら、言える範囲で、五感の話として。
俺はメモに書いた。
「次回候補。採取Sと料理。公開できる範囲。安全条件を先に」
* * *
皿を洗っていると、カナメからメッセージが来た。
「明日、行っていい?」
「いいけど、どうした」
「東和の件、少し顔を見て話したい。あと、何か作って」
カナメらしい。
心配と食欲が同じ行にある。
「分かった。最浅層の食材で作れるものを出す」
「無理はしない」
「しない」
「ちゃんと寝る」
「それもする」
そこで会話が終わった。
週明け、有希さんを連れて源田屋に行く。
その前に、明日、カナメに料理を食べてもらう。
守りたいものは、少しだけ見えた。
それを誰にどう説明するかは、まだこれからだ。
登録者:三万三千百九十二人。
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