第42話 研究室のレシピ
翌週木曜日。葉山食品の研究棟でスライムゼリーと向き合っていた。
白いコート。無菌室並みの清潔さ。
プロ仕様のキッチンと分析機器が隣り合う、不思議な空間だった。
ピコは事前に申請した生体同伴用の衛生キャリーに入って、調理室の外の待機スペースにいた。
ガラス越しにこちらを見ている。
羽の光は、いつもより少しだけ抑えめだった。
* * *
「佐々木さん。今日お願いしたいのはひとつだけです」
北条さんは白板の前に立った。
「採取Sの感覚を言語化してください」
俺は少し固まった。
「言語化ですか」
「そうです。あなたが採取の際に感じる『通電』『揺らぎ』といった感覚を数値や言葉に落とせないか。それが我々の研究の核心です」
俺は源田屋の容器に入ったゼリーを机の上で開けた。
指先をゼリーの表面にそっと当てた。
通電の感覚。
いつも感じているもの。
でも——今まで誰かに説明したことがなかった。
「……電気というより重さがあります。素材が元気かどうかみたいな。良い個体のゼリーは押し返してくる感じがある。傷んだ個体は抵抗がない」
北条さんは手帳にメモをした。
「他には?」
「匂いが変わります。良い個体は甘い。悪い個体は酸っぱいというか……金属っぽい感じがします」
「金属様臭。了解です。温度感は?」
「……温かいです。良い個体は少し手のひらより温かい感じがある。採取Sが発動している時はその差がはっきりわかります」
「周囲の空間に対して、素材がなんというか——前に出てきている感じがします。良い個体は存在感がある」
北条さんはペンを止めた。
「存在感」
「……うまく言えないですけど、視界の中でその素材だけがピントが合って見える感じに近いかもしれないです」
分析担当の研究員が「すごい表現ですね」と小声で言った。
「他には?」
「あと……採取した後、素材を入れた容器が手の中で軽くなる感じがします」
「良い状態で保存できていると重さが消えるというか。源田屋の容器はこれがはっきり感じられます」
「五感全部使ってますね」
「使ってるつもりはなかったんですけど……言われるとそうかもしれないです」
北条さんは次のページをめくった。
「では実際に料理を作りながら、感覚を教えてもらえますか」
* * *
二時間後。
キッチンに包丁の音とボウルの音と冷蔵庫の起動音が混じっていた。
エアコンが一定の温度と湿度を保っている。
無菌室に近い空気。
最初の一鍋は、思ったより早く粘度が上がった。
竹べらを持ち上げると、細い糸がすぐに切れる。
「今のは少し早いです」
俺が言うと、北条さんが温度計を見た。
「六十八度」
次の鍋は、少し遅かった。
表面の光はきれいなのに、香りが弱い。
「これは下がりすぎです。甘みが前に出てこない」
「六十五度」
北条さんは数字を白板に書いていく。
六十五度、香り弱い。
六十八度、糸が切れる。
七十二度、粘度上限。
数字だけを見ると簡単そうなのに、鍋の中では全然違った。
でも——濃縮核を小鍋で溶かした瞬間、甘い重みのある蒸気がキッチンを薄く覆った。
エアコンの冷気がそれを一度吸い込んで薄めた。
「最浅層の匂いが研究室の中に来た」と俺は思った。
調理台の横に北条さんが立って、俺が素材を扱うたびに「今の感覚は?」と聞いてきた。
とろとろと糸を引く。
「少し粘性が上がってきた。この温度が上限だと思います」
「何度ですか?」
「湯気と鍋肌の感じだと……七十度は超えてると思います」
スタッフが温度計を持ってきた。
七十二度だった。
「……」
北条さんが何かを書いた。
冷製パフェの仕上げはそこからが本番だった。
濃縮核を小さじで最上部に乗せる。
青みがかった半透明が白い器の中で静かに光を反射する。
ゼリー層の甘い匂いが、研究室のエアコンの冷気に乗って薄く漂う。
苔の青みと濃縮核の甘みが混じった匂いは、研究棟の白い壁に吸い込まれていくようだった。
スプーンで表面をすくうと、青みがかった半透明が、とろりと光を揺らした。
ゼリーの冷製パフェが三種類、白い皿に並んだ。
一つ目:標準個体。
二つ目:大型個体。
三つ目:大型個体の濃縮核使用。
北条さんのチームがそれぞれを記録した。
今日の濃縮核は、北条さんのチームが毒性・刺激性の一次確認を終えたロットだけを使っている。
それは食用評価が完了した、という意味ではない。
試食する官能評価担当の三人も、未記載素材を含む少量試作だと説明を受け、同意していた。
「一口食べてみてください」と言われて、三人が小さなスプーンを取った。
自分の料理を他の人が真剣な顔で食べている。
落ち着かなかった。
「……あ、これ」
調理試作担当の人が言った。
「一番右のやつ、全然、違います」
「そうです。濃縮核ですね」
一つ目の標準個体は、舌の上でさらっと消える。
甘みは淡くて、冷たさだけがきれいに残る。
二つ目の大型個体は、少し重い。
舌に乗せた瞬間、甘みが一段長く残った。
三つ目の濃縮核使用は、違った。
最初は静かなのに、後から甘みが立ち上がる。
苔の青さとゼリーの匂いが別々ではなく、同じところにまとまっていた。
分析担当の研究員がスプーンを置いてもう一度だけ皿を見た。
「こんな色と匂いがB1の素材から出るとは」
白い器の中で半透明の青みが研究室の白いライトを受けて、静かに輝いていた。
北条さんが俺を見た。
「このレシピを草稿として、記録させてください。これが我々の第一号レシピになります」
喉の奥がかすかに細くなった。
胸の奥が一拍、詰まった。
手が一度止まった。
* * *
「第一号レシピ」という言葉が頭に残った。
俺のダンジョンでの発見がこの研究室の白いファイルに記録される。
それは——不思議な感じだった。
動画に投稿するのとはまた、違う。
もっと形が固定される感じ。
コメント欄に「うまそう」と書かれるのと研究ファイルに「第一号」と記録されるのは——同じ俺の料理に対する反応だけど、全然違う場所に届いている。
どちらが正しいかじゃない。
両方が同時に存在するということが——少し不思議だった。
* * *
夕方、研究棟を出た。
ピコがバッグの中から顔を出して、俺を見た。
「今日、どうだった?」
俺は笑った。
「……意外と緊張した。でも、悪くなかった」
ピコが鳴いた。
『ぴこ』
短く、軽い声だった。
わからないまま、夕暮れの道を一緒に歩いた。
* * *
夜、帰宅して、DungeonTubeのコメントを確認した。
直近の動画ではなく、七変化の動画にまだ新しいコメントが来ていた。
「濃縮核の続報、楽しみ」
「濃縮核って商品化されないのかな」
「佐々木さんの研究、どうなってるの?って気になってる」
管理画面の数字も見た。
登録者:一万六千八百四。
「研究」という言葉を視聴者が使っている。
俺が自分でやっていることを視聴者はもう「研究」と呼んでいる。
俺はそう思っていなかった。
採取して、食べて、美味いと思って、それだけだった。
でも——北条さんに採取Sの感覚を言語化して、「第一号レシピ」に記録されて——今日は確かに何かが「研究」になった。
ピコが机の上に降りて、俺のメモ帳をのぞき込んだ。
北条さんから預かった記録用のフォーマット。
「採取時刻・天候・湿度・感覚メモ(自由記述)」の欄が並んでいる。
俺は今日のメモを埋め始めた。
「十時三十分・晴れ・普通・濃縮核溶かす際に粘度の上限を感じた。七十二度で確認(北条さん計測)」。
手書きが続く。
地味な、作業。
でも——これが仕事だ。
「これ、B1ごはんに比べると地味だな」
独り言が出た。
ピコが顔を上げた。
『ぴこ』
短く、いつもの声だった。
俺は少し笑った。
「そうだな。続ければいい」
* * *
メモ帳を閉じた。
北条さんが最後に言っていた言葉が頭の中に残っていた。
「来週、濃縮核の分析結果を共有します。もしかしたら、少し驚くかもしれません」
「驚く」という言葉を北条さんが使う時——それはただの驚きじゃない気がした。
研究者が「驚く」と言う時はデータが予想を超えた時だ。
濃縮核に何かがある。
初めて濃縮核に触れた時から、指先にはいつもと違う重さが残っていた。
ピコも、あの時だけ長く震える声を出した。
来週、それが数字と言葉になる。
机の上のピコが、羽をわずかに震わせた。
『ぴ……』
静かな、反応だった。
窓の外は暗い。
台所の電灯だけが俺とピコとメモ帳を照らしていた。
指先がかすかに温かくなった。
来週が少しだけ——いや、かなり、楽しみだった。
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