第41話 葉山食品との契約
月曜日、机の端には、昨夜残した座標メモが置いてあった。
B2・苔の間・奥三番岩盤前。
ピコは朝からいつもの青緑の光に戻っている。
今すぐ調べる手段はない。
だから、そのメモは閉じたノートに挟んだ。
記録した。
ピコの体温は朝には戻っていた。
餌もいつも通り食べた。
それでも、昨日の白い光だけは、ノートを閉じても指先の奥に残っている。
今日は、目の前に届くものを読む。
昼前、封筒が届いた。
葉山食品のロゴ入りの厚い封筒。
中に最浅層食材の監修契約書が入っていた。
三十ページ以上ある。
俺は封筒を机の上に置いて、B1に採取に行った。
急がないと決めていた。
大事な紙ほど、いつもの仕事を一度してから読む。
その方が、自分の速度で読める気がした。
契約書を怖がっているのかもしれない。
でも、怖いから採取へ逃げるのではなく、採取をしてから戻る。
順番を決めるだけで、少し呼吸が楽になった。
* * *
B1、「浅瀬の間」。
今日はブルースライムを三匹。
ゼリーをジップ袋に入れながら、頭の中はずっと封筒のことだった。
先週の試食会で北条さんが言った言葉がまだ残っている。
「これは再現できません」
北条さんの声の確かさ。
その言葉が契約書にどんな形で入っているか。
採取Sが指先で静かに鳴った。
今日のゼリーはいつもよりわずかに通電の感覚が強い。
帰り際、天井の苔が一度揺れた。
内側からのあの揺れ方。
* * *
帰宅して、シャワーを浴びて、机に座って。
封筒を開いた。
ゆっくり読んだ。
ページをめくるたびに法律の言葉と表の数字と甲と乙の話が続く。
「急がない」と決めていたのに、手が少し速くなっていた。
そして——十五ページで大事なことが書いてあった。
「乙(佐々木ユウト)は本契約期間中、DungeonTubeチャンネル『最浅層ごはん』の配信スタイル・演出方針について、甲(葉山食品株式会社)の指示を受けない」。
俺はその文を二度読んだ。
三度目も読んだ。
北条さんが口約束ではなく、契約書に入れてくれていた。
これは俺が最も気にしていた一点だった。
試食会のあと北条さんに一度だけ聞いた。「配信のスタイルは変えなくていいですか」。
北条さんは少し間を置いて、答えた。「それは書面に入れます」と。
その一言を俺は信じて待っていた。
ちゃんと入っていた。
残りのページを丁寧に読み終えた。
分からない単語には、付箋を貼った。
独占、二次利用、監修範囲、成果物。
どれも料理動画ではあまり使わない言葉だ。
分かったふりをして署名する紙ではない。
だから、分かる言葉と分からない言葉を分けた。
* * *
契約期間は一年。
月五万円の監修料。
主な業務は採取データの提供とレシピ草稿の提出。
配信内容への干渉はなし。
食材の採取場所と使用判断は、俺が決める。
未記載素材を扱う時は、葉山食品側の毒性・刺激性の一次確認と、少量試作の同意を前提にする。
動画で会社名を出す時は、事前に確認する。
読めば読むほど、丁寧に作られた契約書だったと俺は思った。
北条さんの仕事の丁寧さがここにも出ている。
試食会の時の「これは再現できません」という言葉とこの契約書の一文は同じ種類のものだった。
証明できないものを言葉にしようとする、誠実さ。
ただ、契約書は優しいだけの紙ではなかった。
提出期限、権利の範囲、動画内で会社名を出す時の確認手順。
小さな文字で書かれた項目を読むたびに、これは遊びではないのだと分かった。
最浅層で採ったものを、俺の台所だけで終わらせない。
誰かの研究室へ渡し、数字になり、レシピになり、商品になるかもしれない。
少し怖かった。
でも、怖さの中に、ちゃんと手触りがあった。
逃げたい怖さではない。
続けるために、名前を書いていい怖さだった。
* * *
二十時。
ペンを取った。
署名欄。
佐々木ユウトと書いた。
生まれて初めての業務契約書への署名。
同封の案内に従って、署名済みページの写しを専用フォームに送った。
原本は、明日の朝に返送用封筒で出す。
手が少し震えた。
でも——ためらいはなかった。
ためらいの代わりに別の何かが胸の中にあった。
胸の奥が一拍、温かくなった。
父の書斎のレシピ帳の最後のページ。
二色のグラスの図。父が完成させる前に逝ってしまったもの。
俺が今、別の図の続きを書き始めている。
ペン先の黒い線は、料理のメモよりずっと硬かった。
でも、その硬さが少しだけ頼もしくもあった。
今まで台所でやってきたことが、初めて外の紙に残った。
* * *
台所へ行って、ゼリーを小鍋で温めた。
弱火にして、蓋をする。
じわじわと透明が白みがかって、甘い蒸気が立ち上がる。
B1の地下の湿った空気に似た、ほのかな甘みの匂いが台所に広がった。
指先で触れると——採取Sが静かに通電した。
今日のゼリーは良い状態のまま保存できている。
プルリとした弾力がスプーン越しに伝わってくる。
一口、飲んだ。
甘みがゆっくりと広がった。
温かくて、しんとした。
まだ少し手が震えていた。
* * *
母に報告した。
「サインした」
「……そうか」
母は台所のシンクに手をついたまま、しばらく動かなかった。
「月五万円だろ。これで少し楽になる」
「……そんなことは」
「楽になってほしい」
俺は言った。
その金額で全部が変わるわけじゃない。
でも、電気代や食材費を気にして小さくなる夜が、少し減るかもしれない。
母が値札の前で少し止まる回数も、減るかもしれない。
そう思ったら、契約書の数字が急に生活の匂いを持った。
母は振り返らなかった。
でも——肩が少し震えていた。
「ありがとう、ユウ。……お父さんが聞いたら、きっと」
続きは来なかった。
母はゆっくりと俺の方を向いた。
泣いていなかった。
でも、目の端が少しだけ赤かった。
それだけ見て、また台所の方を向いた。
「……夕ご飯、作る。好きなものなんかあるか」
「……なんでもいい」
「そうか」
ピコが俺の膝から立ち上がって、母の足元に飛んでいった。
母の靴下の上で一度足踏みをして、また、戻ってきた。
『ぴーこ』
長い柔らかい鳴き声。
俺たちはしばらくそのままでいた。
母もピコも何も言わなかった。
胸の奥がじんわりと温かくなった。
でも——この台所が今まで一番、静かであたたかい場所になった気がした。
父の写真が置いてある棚の方を見た。
写真の中の父は、いつもの少し困ったような笑い方をしている。
契約書に署名したことを、父なら何と言っただろう。
たぶん、「急がなくていい」と言った気がした。
それで、最後に「でも、ちゃんと読めよ」と付け足したと思う。
俺は少し笑って、契約書の封筒をもう一度見た。
* * *
夜、北条さんからメールが来た。
「署名済み写しのご共有ありがとうございます。原本はご返送確認後に当社で保管いたします」
「早速ですが、翌週木曜日より第一フェーズの監修業務をお願いしたく」
「詳細は別途お送りします。スライムゼリーの粘度データの追加取得と、初のレシピ草稿をぜひお願いしたい」
俺は返信した。
「わかりました。よろしくお願いします」
送信して、スマホを置いた。
ピコが机の縁から俺の手の甲に飛んできた。
「……あ」
俺は言った。
「これ、本物の仕事だ」
ピコは俺の手の甲に頭を乗せた。
羽が一度だけ、青緑に光った。
『ぴこ』
短い、柔らかい声だった。
試食会のあとの日々がまた、一段動いた。
机の引き出しには、B2の座標メモを挟んだノートがある。
封筒の上には、明日返送する契約書がある。
どちらも、まだ終わっていない。
でも、どちらも閉じたまま逃げるものではなくなっていた。
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