第36話 一万人の前夜
月曜日。DungeonTubeの管理画面を開いた。
登録者:九千九百八十九。
あと十一人だ。
ピコがスマホの画面を覗き込んで羽を一度たたんだ。
声は出さなかった。
でも、俺の手の甲の上で足の位置を少しずらした。
——分かってるよという感じだった。
* * *
葉山食品との最初の「分析協力」は思ったより地味だった。
北条さんからのメールにデータシートが添付されている。
「濃縮核の分析には、比較対象として通常ゼリーの経時変化の基準値が必要です」
「粘度表示を小数第二位まで記録していただけますか。採取後の経過時間ごとに三回計測をお願いします」
携帯用の粘度計は、朝、JAGL窓口で受け取った。
北条さんが手配してくれた貸与品だ。
受領書にサインして、ケースごと鞄に入れた。
俺はB1でゼリーを採取し、源田屋の容器に入れる。
スマホのタイマーを起動する。
採取後十分は、B1入口前の測定台で計った。
採取後三十分は、帰宅してすぐ台所で。
採取後六十分は、同じ容器をもう一度。
採取前後で状態が変わるのは知っていた。
でも、数字で見ると違った。
ゼリーは時間とともに着実に緩んでいく。
甘みを保ったまま、やわらかくなっていく。
採取した直後の弾力が指先にまだ残っているのに、表示の上ではもう、別の状態になっている。
採取Sが強く痺れた個体は、粘度の低下が緩やかだった。
感覚と数字が一致していた。
それだけ。
動画に映えない作業だった。
数字を表に打ち込んでいるだけに見える。
採取後10分、採取後30分、採取後60分。
三つの数字が毎日少しずつ、違う値を示す。
最初は、こんなものを誰が読むんだろうと思った。
でも、北条さんは「数字は味の後ろ側を残すものです」と書いていた。
食べた時の驚きは動画に残る。
けれど、採取した瞬間の状態や、時間が経った後の変化は、数字にしておかないと消えていく。
俺はその説明を読んで、少しだけ納得した。
データシートの備考欄には、匂い、色、口当たりを一行ずつ書く欄もあった。
数値だけでは味にならない。
でも、味だけでは次に同じ状態を探せない。
北条さんはたぶん、その間を埋めようとしている。
俺も同じことを、ずっと動画でやってきたのかもしれない。
でも——採取Sがこの計測に妙に反応していた。
容器を持ち上げて表示値を待つたびに、指先がかすかに「ぴりぴり」と鳴る。
数字そのものじゃない。
ゼリーが変わっていく途中を逃すな、と告げているみたいだった。
俺にはまだ理由がわからなかった。
* * *
B1から帰る途中、源田屋に立ち寄った。
引き戸を開けると古い木の匂い。
ゲン爺は棚の整理をしながら、振り返らずに言った。
「また来たか」
「容器の補充です」
「そうか」
俺は棚の前で必要な数を数えた。
Sサイズが三つ、予備が二つ。
ゲン爺がふとつぶやいた。
「最近、よく来るようになったな」
「必要になるんで」
「使い込んでるということか」
「……はい」
ゲン爺は新しい容器をいくつか、棚から取り出した。
「今日はSサイズじゃなく、Mも持っていけ。ゼリーの量が増えてきたら、Mの方が効率がいい」
「……どうして分かるんですか」
「見てればわかる。坊主の採取の仕方が変わってきている」
「変わった」と言われても自覚がなかった。
でも——ゲン爺がそう見ているなら、何かが変わっているのかもしれない。
「どのあたりが変わってますか」
聞いてみた。
ゲン爺は少し間を置いた。
「立ち止まる場所が変わった。前は素材があるかどうか確かめてから足を止めていた。今は足が先に止まる」
俺は言葉の意味を考えた。
足が先に止まる。
採取Sが体に染み込んで意識より先に動くようになったということか。
「……自覚、なかったです」
「そうだろうな。自覚がある頃はまだ手前だ」
ゲン爺はそれ以上、何も言わなかった。
俺も聞かなかった。
店の外から夕暮れの光が引き戸の隙間から薄く差し込んでいた。
ゲン爺の横顔がその光の中で一度だけ、遠くを見るような目をした。
「最浅層を侮るな、坊主」
俺は胸のどこかが静かにきつくなるのを感じた。
返事をしなかった。
ゲン爺は黙って値札を棚に戻した。
Mサイズの容器を手に取る。両手で少し感触を確かめた。
Sサイズより少し大きい、この容器が——今の俺の採取量を正確に反映している。
ゲン爺にはそれが見えていた。
支払いを済ませて、引き戸を閉める。
夕暮れの路地。
Mサイズの容器がバッグの中でひとつ、新しい重さを持って、揺れた。
* * *
夜。
最初に投稿した動画を見返した。
B1の狭い通路でスマホを立て掛けて撮った、一本目。
画質が荒い。
手ブレがひどい。
俺は緊張した声で「スライムゼリーを採ってきたので、食べてみます」と言っている。
再生数は今でも、三十七。
コメントはゼロ。
画面の中の俺はゼリーを小皿に乗せて、少し間を置いてから口に入れた。
「……あ」
と言った。
「意外と美味いかも」
その一言の後、少し照れくさそうに視線がカメラの外に向いた。
今の俺はあの時の俺が恥ずかしかった。
でも、画面を見ているうちに喉が少し詰まった。
やめなかった自分が今の俺に繋がっている。
採取の芯は変わっていない。
ゼリーをすくい上げる指先。
通電の感覚を探すように静かに動く。
変わったのは、手つきではなく、その前に足が止まる瞬間なのかもしれない。
「この感覚はずっとあったんだな」と気づいた。
胸の奥が一拍、温かくなった。
今、俺はこの感覚をもっと精確に使えている。
それだけだった。
それだけが続いた。
スマホを置く。
数字は朝から動いていない。
あと十一人。
この十一人がどこの誰なのか、俺には分からない。
それでも、誰かが画面の向こうで登録ボタンを押すかもしれない。
その想像だけで、台所の静けさが少し違って聞こえた。
一本目のコメント欄は、今も空っぽだ。
けれど、今の動画には「昨日作りました」「家族に出しました」「JAGL資料を見てからやりました」という言葉が並ぶ。
俺の小さな台所で止まっていたものが、知らない誰かの台所まで届いている。
真似だけじゃなく、手順ごと届いている。
それがほんの少しだけ、嬉しかった。
胸の奥がかすかに温かくなった。
この数字が明日、どこまで動くのか。
それだけが今夜の台所で静かにうずいていた。
ピコが膝の上で羽を半分広げて、また畳んだ。
台所で今夜作ったグリーンモスのスープの残りが、鍋にまだ温かい。
今日は少し火を長めにした。
青みがかった緑が一段濃く出た。
最初の一口は草の香りが鼻を抜けて——その後からかすかな甘みが来た。
一杯目は夕食に。
二杯目はさっき飲んだ。
三杯目は明日の朝にする。
「急がない、か」
俺は呟いた。
「でも——来てくれてる人たちがいるんだよな」
ピコはしばらく何も言わなかった。
それから短く一声だけ鳴いた。
『ぴこ』
うんという感じだった。
* * *
明日も最浅層に行く。
ゼリーの粘度をまた、記録する。
それが今の俺の一番大事な仕事のひとつだ。
数字は地味だ。
でも——容器の中でゼリーが変わるたび、指先が毎回、かすかに鳴る。
なぜ大事なのか、俺にはまだわからない。
でも、この感覚を無視してよかったことはない。
動画を撮る。記録する。届ける。
そのどれも地味でいい。
ゆっくり続くことが——俺には合っている気がした。
ピコが俺の太ももに頭をこすりつけた。
羽がうっすら、青緑に光る。
スマホの画面には、九千九百八十九という数字がまだ光っている。
あと十一人。
台所の電灯の下で、その数字と小さな光が静かに揺れていた。
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