第37話 最浅層が認識された日
火曜日、B2の入口ゲートで採取カードをかざした。
「最浅層ごはん」の次の動画はまだ決まっていない。
今日は素材を探しながら、考える。
ゲートを抜けた瞬間、B2の空気が肌に当たった。
湿った岩と苔の青い匂い。
いつもの最浅層の匂い。
でも今日は、その匂いの奥にいつもと違う薄い熱がある気がした。
* * *
B2、「苔の間」。
入ってすぐ、反対方向から来た、若い冒険者とすれ違った。
十六歳か、十七歳くらいの小柄な女の子。
F〜D級装備。採取袋は小さくて、まだ半分ほどしか膨らんでいなかった。
新人だ。
彼女は俺を見て、足を止めた。
「……あの」
「はい」
「最浅層ごはんの人ですか?」
俺は少し間を置いた。
胸の奥が一拍、温かくなった。
「……そうです」
「やっぱり!」
彼女はぱっと顔を明るくした。
「いつも見てます! 二色苔のサラダ、作ってみたくて来ました」
「今日は採取だけですか」
「はい。グリーンモスだけは入口側で少し採れました。でも、パープルモスが見つからなくて……」
彼女は止まらなくなった。
岩の割れ目のどこを覗けばいいか、最初は全然わからなかったこと。
でも、動画の中で俺が「苔の色が濃くなっている岩の隙間」と言っていたのを覚えていたこと。
それで見つけられたこと。
まだ食べずに、JAGL資料を見ながら加熱時間を確認していたこと。
俺はゲートの脇で話を聞いた。
採取適性Fで採取の仕方がわからなかった。
でも、最浅層ごはんの動画で「こんな風に採るんだ」とわかった。
今日、初めて、B2の岩場まで来た。
動画を出した時、俺は台所の画面の向こうに向けて話していた。
でも、目の前に立っているこの子は、画面の向こうではなく、同じ湿った空気の中にいる。
そのことに少しだけ背筋が伸びた。
「どのくらい、採れましたか」
俺は聞いた。
「えっと……ジップ袋に半分くらい。足りましたかね」
「十分です。グリーンモスを多めにして、パープルモスは少し。パープルモスはJAGL資料だと加熱推奨なので、生では食べないでください」
「そうなんですか!」彼女はスマホにそれを書き留めた。「今日、うまく採れるか心配で……」
「B2の入口側なら、岩の割れ目の光が細く入る場所を探す感じで」
「光の細いところ、か……」彼女は繰り返した。「じゃあ、今日もう一回、行ってみます」
「無理に奥へ行かず、通路が暗く感じたら戻ってください。加熱時間もJAGL資料で確認して」
「最浅層なんで、急がずに」
「採取Fでも、最浅層は充分楽しめますよ」
俺は言った。
「ありがとうございます」
彼女はちゃんとした礼の仕方で頭を下げた。
そして歩き出した。
小さな採取袋が胸の前で揺れている。
さっきより少し足が速かった。
俺はその背中に、もう一度だけ声をかけた。
「食べるのは、帰ってからで。違和感があったら、無理に食べないでください」
「はい!」
返事は明るかった。
明るすぎて、少し心配にもなった。
だからこそ、俺は手順を言葉にした。
楽しい、だけで終わらせないために。
* * *
B2の岩場で採取をしながら、考えた。
ダンジョンの中で認識された。
「最浅層ごはん」を見て、動いた人が目の前に来た。
再生数が伸びる、伸びない、登録者が増える、減る——そういう話の外側で誰かの足が動いた。
採取の仕方がわからなかった彼女が今日、B2の岩場まで来た。
画面の外で最浅層が広がっていた。
採取Sが静かに働いている。
指先が湿った岩肌に向く。
パープルモスの甘くて青い匂いがうっすら漂っていた。
いつもの場所にいつもの素材がある。
いつもの手順で採る。
ジップ袋に入れる。
でも——この同じ素材が誰かの足を今日、ここまで運んだのだと思うと手の感触が少しだけ変わる気がした。
* * *
そのあとB1に戻り、「浅瀬の間」の西側、水たまりの縁まで歩いた。
ブルースライムが三匹、並んでいた。
いつも通り、折り畳みナイフで仕留める。
ゼリーをジップ袋に入れる。指先がぴりっと鳴る。
今日も変わらない。
でも——今日の指先の「ぴりぴり」はいつもより少し長く続いた気がした。
俺の採取Sはいつ、この感覚を「正しい」と判断しているのか、自分でも、まだよくわからない。
ただ、採れた素材はちゃんと採れている。
それだけで今日は充分だった。
* * *
帰り際、天井の苔が一度だけ、ふわりと揺れた。
いつもの「内側からの揺れ方」。
今日も何かがここで息をしている。
父が探していたもの。
俺がまだ全部は知らないもの。
最浅層は初心者の階層だと、俺もずっと思っていた。
でも、初心者が最初に触れる場所だからこそ、雑に扱うと一番遠くまで間違いが広がる。
今日会った彼女が、俺の動画を見てここへ来た。
その事実は、登録者数よりも先に胸に残った。
急がなくていい。
最浅層なんで、急がずに。
彼女に言った言葉を、今度は自分にも言い直した。
* * *
夜、帰宅。
スマホを開いた。
DMが一件、来ていた。
送り主のアカウント:cave_gourmand
初めまして。「洞窟グルメ旅」という料理系配信をしているモリヤと申します。
先日の七変化動画を拝見し、ぜひ一度コラボさせていただきたいと思い、ご連絡しました。
主なフィールドはB6-B10の食材ですが最浅層の素材の扱い方に学ぶことが多く。
ご検討いただけますと幸いです。
登録者:四万二千人。
俺より四倍、多い。
投稿一覧を見ると、B6の岩塩肉、B8の黒茸スープ、B10の洞窟魚串焼きが並んでいた。
どのサムネもきれいで、火の入れ方も安定している。
ただ、説明欄の手順は俺よりずっと短い。
安全線を省いているわけではない。
相手はたぶん、視聴者が中級以上だと知っている。
俺の動画とは、見ている人の足場が違う。
俺はDMをもう一度読んだ。
「……食材の扱い方に学ぶことが多く、か」
胸の奥がかすかに温かくなった気がした。
採取Sではない。
これはたぶん、怖さと嬉しさが同時に来た時の反応だった。
ピコがスマホをのぞき込んだ。
羽を一度広げて、畳む。
『ぴこ、ぴ』
興味がある時の鳴き声に聞こえた。
答えを出しているわけじゃない。
でも、ピコも画面を見ている。
今日の「ぴこ、ぴ」は半音高かった。
* * *
台所でグリーンモスのバター炒めを作った。
フライパンを強火で熱し、バターをひとかけ落とす。
じゅっと音がして、バターが溶けていく甘い香りが台所に広がった。
グリーンモスを投げ入れた。
ジューッと音が立った。
強火で短く。
青みがかった緑が鮮やかなまま、熱を受けて少し縮む。
バターが苔の葉脈に絡まりながら、表面がほんのり焦げ目をつける手前で火を止める。
塩をひとつまみ。
パープルモスを後から入れた。
短く火を通す。
甘みが立つところで、加熱しすぎないように火を止める。
俺はそれを皿に盛った。
一人で食べた。
口に入れると——草の青さとバターのコクが最初に来た。
バターの香ばしさが後を引く。
後からパープルモスの甘みがゆっくりと広がった。
苔の清涼感と甘みが口の中で交差する。
「……うまい」
窓の外は暗い。
スマホの画面が光っている。
登録者の数字が映った。
九千九百九十九人。
あと一人。
コラボDM。
今日のB2の小さな採取袋の女の子。
まだ届いていない一人。
三つのことが今夜、同じ場所に並んでいた。
コラボDMを明日の朝もう一度読んでから返信を考える。
今日B2で会った女の子は小さな採取袋を持って、岩場まで歩いてきた。
それは確かなことだった。
ピコが俺の肩に体をもたせた。
羽の光が弱くなる。
眠くなってきた合図だ。
俺は皿を洗って、電気を消した。
今日の最浅層はいつもと違う何かがあった。
その「何か」の名前はまだわからない。
でも、悪いものじゃなかった。
明日、返信する。
急がずに。
でも、止まらずに。
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