第33話 銀髪のB級配信者
水曜日の午前中、JAGL晴海支部の窓口にゴールドモスを百グラム預けた。
北条さん宛ての分析サンプル。
食用不可、分析用。
ラベルをもう一度確認して、受領メモをもらった。
受領番号を北条さんへ送ってから、その足でB4へ向かった。
今日の午後は、JAGLに申請したB4入口付近の調理スペースでカセットコンロを組み立てている。
窓口で渡された利用札は、折り畳みテーブルの脚に結んである。
使用時間は三十分。火気は小型カセットコンロ一台だけ。消火シートと携帯消火スプレーを手元に置くこと。通路を塞がないこと。
B4を自由に歩き回る許可ではない。
入口寄りの岩盤に留まって、申請した調理だけをする許可だ。
三十分後の撤収時刻も、スマホのタイマーで鳴るようにしてある。
今日のテーマは「ホタルトンボの出汁」。
天ぷらで使いきれなかった胴体部分を捨てずに活かせないか、月曜の夜から考えていた。
昆布を一枚、バッグから取り出した。
ピコは肩掛けの通気ケースの中から鍋の方を見ている。
* * *
B4、「蛍火の間」。
入口寄りの岩盤に平らなスペースがあった。
JAGLに短時間単独使用を申請し、緊急呼び出しボタンも手元に置いてある。
折り畳みテーブルを広げた。
カセットコンロ。小鍋。昆布の端切れ。
テーブルの右端には、JAGLから借りた黄色い境界テープを貼った。ここから先へ鍋を出さない。足元には滑り止めマット。
手順だけ見ると、料理というより実験台の設営に近い。
そして——保存しておいた、ホタルトンボを三匹。
天ぷら動画では使わなかった、発光器官以外の胴体部分。
食用可のリストを確認してある。
B4入口付近の通常個体なら、発光器官以外の胴体部分も加熱後食用可。
腹側の黒い筋は外し、一分半以上加熱する。
冷蔵保存は二日以内。
この三匹は月曜の夜に下処理して、密封容器で冷蔵していた。
JAGLの規定ではB4以深での火気使用はC級以上の立ち会いが推奨だが、入口付近の短時間調理と小型カセットコンロは申請済みの附帯器材リストに含まれる。
今回は短時間単独使用として承認済みだ。
鍋に水と昆布を入れ、弱火にかける。
ぽこ、ぽこと小さな気泡が上がり始める。
昆布の海の匂いがB4の石の乾いた空気と混じった。
この組み合わせの匂いは地上ではたぶん再現できない。
ピコが鳴いた。
『ぴ……ぴこ……ぴ』
出汁が立つ気配を感じ取った時の鳴き方だった。
三声のうち、真ん中が半音高い。
* * *
足音が聞こえたのは火加減を整えていた、その時だった。
複数。
速い。
奥から戻ってくる、足音。
深い階層から戻ってきた配信クルーだと——すぐにわかった。
胸元の許可タグに、B10の文字が見えた。
後ろの一人がカメラを胸の高さまで上げかけて、黒葉レンが片手だけで止めた。
その仕草だけで、周りが黙る。
俺のカメラは固定したまま、鍋の手元だけを映している。
角度的に、黒葉レンの顔は入らない。
それでも、録画中だという事実だけが急に重くなった。
先頭の男が立ち止まった。
身長が高い。
脱色した、銀髪。
青いカラコン。
装備は深層仕様のフル装備。
俺の顔を一瞥した。
「……何やってんのここで」
声は低かった。
嘲笑するような、抑揚。
22歳くらい。
どこかで見たことがある顔だった。
黒葉レン。
DungeonTube登録者、五十万人。
東和プロモーション所属のB級冒険者兼配信者。
「出汁を取っています」
俺は鍋から目を離さずに答えた。
「は?」
「B4の素材を使って、料理してます」
黒葉レンは少し間を置いた。
「B4で料理」
繰り返した。
声に馬鹿にしたような色がある。
「最浅層の食材なんて、市場価値ゼロだろ。そんなの動画にして、視聴者が来るの?」
後ろのクルーが笑い声を漏らした。
胸の奥が少しだけ細くなった。
戦闘F。
最浅層。
市場価値ゼロ。
言われ慣れた言葉に近いはずなのに、有名なB級配信者の口から出ると重さが違った。
それでも、鍋の中の小さな気泡は変わらず上がっている。
火を弱める指先だけは、震えなかった。
* * *
鍋の中に集中する。
ホタルトンボの胴体がかすかに色を変え始めている。
出汁の色が透明から薄い琥珀になりかけていた。
市場価値ゼロ。
黒葉レンの言葉が空気を軽く、揺らした。
声の端が硬い。
軽口ではなく、本気で言っている声だった。
彼は本当に最浅層食材に価値がないと思っている。
あるいは——思い込まされている。
どちらかはまだわからない。
「来てます」
俺は言った。鍋から目を離さなかった。
「登録者、九千二百人います」
黒葉レンは眉を動かした。
九千二百という数字は、五十万の前では小さい。
でも、ゼロではない。
俺の動画を待っている人がいる数だ。
そして、俺のカメラを一秒、見た。
一秒だけ、嘲笑の形が崩れた。
カメラを見て、鍋を見て、肩掛けの通気ケースを見た。
それから、もう一度俺を見た。
「……最浅層ごはん、か」
小声で呟いた。
まるで——自分に言い聞かせるような、声だった。
「一度見たことがある」
それだけ言って、黒葉レンは歩き出した。
クルーが後を追う。
足音が遠ざかった。
俺は鍋の前で一拍、息をついた。
心臓が普通に動いていることに気づいた。
喉は少し乾いていた。
それでも、鍋の火加減は乱れなかった。
* * *
出汁が完成した。
澄んだ、琥珀色。
スプーンですくって、口に運ぶ。
——旨みが深い。
甘みとかすかな苦み。
ホタルトンボ特有の後味が、舌の奥に静かに残る。
澄んだ琥珀色の液体が、口の中でゆっくり広がった。
B4の石の乾いた空気と、昆布の海の匂い。
あの場で立てた出汁が今、俺の口の中にある。
昆布の旨みとホタルトンボの旨みが別の声で交互に届いてくる感じがした。
喉の奥が細くなった。手がスプーンを持ったまま、一拍、止まった。——「市場価値ゼロ」の素材がこれだけの味を出す。
「……あ」
口から出た。
「これ、意外とちゃんと美味い」
ピコが通気ケース越しに出汁の香りへ鼻先を向けた。
『ぴーこ……』
長い音。
料理が完成した時だけの鳴き方。
俺はカメラに出汁の色を映した。
* * *
帰宅後、編集した。
黒葉レンが映った部分は使わない。
相手の許可もないし、今日見せたいのは出汁だ。
音声にも、彼の声は薄く入っていた。
そこも切った。
有名配信者と遭遇したことを使えば、数字は伸びるかもしれない。
でも、その動画になった瞬間、鍋の琥珀色が脇役になる。
B4の出汁が立つ瞬間の映像。
鍋の色が変わる、四十秒のカット。
ピコがケース越しに鼻先を向けて、半音上がる声で鳴いた、場面。
「【発光素材の出汁】B4ホタルトンボ、捨てるとこなかった【最浅層ごはん】」を深夜一時に投稿した。
コメントが来る。
幽玄な琥珀色すぎる
胴体部分も使うとは思わなかった
ピコのケース越しの声が好き
出汁が出てる瞬間ずっと見てられる
登録者:九千五百。
月曜の夜から六百人増えた。
* * *
コメントの一番下に見知らぬアカウントがいた。
名前はblack_blade_r。
最浅層の食材でこれだけ出汁が出るとは。少し認識が違った
俺はそのコメントを一度止まって、読んだ。
「少し認識が違った」。
違ったは過去形だ。
今は違わないという意味になる。
誰かはわからなかった。
でも——B4で出会った銀髪の目の一秒が脳裏に引っかかった。
「最浅層ごはん、か」と小声で呟いた、あの声。
カメラと鍋を見た時、一瞬だけ崩れた嘲笑。
俺はそのコメントに返信しなかった。
急いで確かめない。
最浅層なんで急がずに。
でも——ゼロではない何かがあの銀髪の目の奥にあった気がした。
それだけは確かだった。
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