第32話 苔サラダとドレッシングの謎
火曜日、B2の苔を三種類採ってきた。
グリーンモス。パープルモス。ゴールドモス。
ただし、今日の皿に乗せるのは二種類だけだ。
金色の苔は、食べない。
それを決めてから、台所に立った。
* * *
B2、「苔の間」。
濡れた黒い岩棚の上に、いつものグリーンモスが薄く広がっている。
ニンニクと炒めるとシャキシャキになる、定番の素材だ。
でも今日は、動画コメントのひとつが頭に残っていた。
生でも食べられるんですね、試してみます。
あの一文を見てから、ずっと引っかかっている。
俺の料理が誰かの手を動かすなら、俺の安全確認も同じくらい見せないといけない。
肩掛けの通気ケースの中で、ピコが小さく羽を動かした。
『ぴこ……』
「今日は出ない。匂いだけな」
ケースの壁越しに指を近づけると、ピコは鼻先を押し当ててきた。
グリーンモスを採取ケースへ入れる。
次に、岩壁の高い位置。
紫がかった苔が薄く張り付いている。
パープルモス。
JAGLの配布資料を開く。
パープルモス:食用可能。加熱推奨。苦み成分は熱処理で分解。
生の欠片を口に入れかけて、やめた。
推奨が「加熱」なら、動画で見せるべきなのも加熱だ。
鑑定Bで匂いと表面の状態だけを見る。
刺すような反応はない。
青い苦みが、指先に薄く残る。
その奥に、熱でほどけそうな甘みがある。
採取Sは答えを言わない。
ただ、紫の苔を触った指先だけが、湯気を待つみたいに温かかった。
* * *
さらに奥の岩の割れ目に、光柱が細く落ちていた。
その中で、金色の苔がほんの少し揺れている。
ゴールドモス。
ひと掴みには足りない。でも、岩の割れ目に沿って集めれば、分析に回せるくらいは取れそうだった。
JAGLの配布資料には記載がない。
データベースにも、食用可能の表示は出ない。
危険の警告がないことと、食べていいことは違う。
俺は採取ケースをひとつ空けて、ラベルを貼った。
未記載。食用不可。分析用。
黒い油性ペンで、二重線を引く。
食べるケースと間違えないように、蓋にも同じ文字を書いた。動画に映すなら、ここから映すべきだと思った。
綺麗な素材を見せる前に、食べない理由を見せる。
鑑定Bで触れる。
甘い匂いがする。
グリーンモスより柔らかそうで、パープルモスより水分が多い。
指先に、ひやりとした感覚が残った。
それだけだ。
「……あ、これ」
思わず声が出た。
美味そうだ、とは思った。
でも、今はそこまでだ。
指先に反応があっても、JAGL未記載の素材をその場で口に入れる理由にはならない。
ピコが通気ケースの中で低く鳴いた。
『ぴ……』
「分かってる。持ち帰るだけ」
金色の採取ケースを、他の二つとは別のポーチに入れた。
* * *
帰宅後、台所。
三つの採取ケースをまな板の横に並べる。
緑、紫、金。
色だけなら三色サラダにしたくなる。
でも、金色のケースには触れない。
念のため、金色のケースだけまな板から離し、紙皿の上に置いた。
包丁も箸も分ける。
食べないと決めた素材を、食べる皿の近くで扱わない。
今日の皿は、グリーンモスとパープルモスの加熱サラダ。
謎は、ドレッシングのほうにある。
小鍋に湯を沸かす。
グリーンモスは十秒だけ湯通し。
ざるに上げた瞬間、青い香りがふっと立った。
水気を絞ると、指の間でしゃきりと跳ねる。
パープルモスは蒸す。
白い蒸気の中で、紫が少しだけ鮮やかになる。
ピコが通気ケースの中で鼻を上げた。
『ぴ……ぴこ』
低い音から、少しだけ高い音へ。
安全判定じゃない。
湯気の匂いが変わった合図として、俺はメモした。
* * *
一本目。
オリーブオイル、レモン汁、塩。
グリーンモスには合う。
青さがレモンでほどけて、後味が軽くなる。
でもパープルモスにかけると、苦みが戻った。
舌の端に金属みたいな渋さが残る。
「違うな」
二本目。
米酢、はちみつ、塩。
パープルモスの甘みは出る。
けれどグリーンモスがぼやけた。
苔の清涼感が、甘さの下で眠ってしまう。
「これも違う」
三本目。
すりごま、醤油、少しのレモン皮。
油はほんの数滴。
混ぜると、すりごまが湯気を吸って、ふわっと香りを返した。
箸で和えるたび、濡れた苔の表面に薄い艶が走る。
グリーンモスのしゃきりとした青さが残る。
パープルモスの丸い甘みも消えない。
噛むと、葉の水分がぷつんと弾けて、ごまの香りが後から追いかけてきた。
噛むたび、青さと甘みの順番が入れ替わる。
同じ苔なのに、ドレッシングひとつで別の素材みたいになる。
「……あ、これ」
胸の奥が一拍、温かくなった。
「ちゃんと、サラダだ」
皿の横で、金色の採取ケースが光を返した。
乗せれば、絶対にきれいになる。
それは分かる。
でも、今日は乗せない。
きれいに見えることと、食べていいことは別だ。
俺は金色のケースを皿から少し離して、カメラの端にだけ置いた。
カメラへ向けて、短く言った。
「これはまだ食べません。綺麗だから食べる、はやらないです」
言葉にした瞬間、胸の奥が静かに落ち着いた。
食べないことも、料理の工程に入れていい。
* * *
「【加熱推奨】B2苔サラダ、ドレッシング三本勝負」を投稿した。
概要欄の最初に追記する。
グリーンモス、パープルモスはJAGL資料を確認し、加熱して調理しています。
ゴールドモスはJAGL未記載のため食べていません。採取・試食を真似しないでください。
B2は足場が濡れています。無理に奥へ進まず、JAGLの入場条件と撤退基準を守ってください。
コメントが来る。
tanuki_yama:生でいけるのかと思ってました。加熱します
俺はすぐ返信した。
「生ではやらないでください。JAGL資料を確認して、火を通して、少しでも迷ったら食べないでください」
dungeon_fan_7:金色のやつ、食べないの逆に信頼できる
moss_tokyo:未記載ってラベルを貼るところから見せてくれるの助かる。綺麗な素材ほど怖い
aokusa_eater:金色、絶対映えるのに皿に乗せないの好きです
tenmusu_k:三本目のごま醤油レモン、家の野菜でもやってみたい
mi_kana:色の見せ方、前よりいい
カナメのコメントは短かった。
でも、胸の奥に残った。
食べた感想より、食べなかった判断に反応が集まっている。
それが少し、不思議だった。
料理動画なのに、皿に乗せないものを見てくれている人がいる。
それも、最浅層ごはんの一部なのかもしれない。
少なくとも、今日はそう思えた。
見た目を整えたことが、ちゃんと伝わっている。
父のレシピ帳には、皿の色のことは書いていない。
父は素材と比率だけを書いていた。
今日の俺は、その余白に少しだけ線を引いた気がした。
登録者:九千二百。
大きなバズではない。
でも、コメント欄には「食べない判断」を見てくれた人がいた。
それが、今日の一番大事な結果だった。
* * *
夜、北条さんからメッセージが来た。
「佐々木さん、動画内のゴールドモスについて、食用判断ではなく素材分析として確認したいと思っています。明日、JAGL窓口経由で百グラム程度のサンプルを預けていただけますか。結果が出るまでは、食用不可として扱ってください」
俺は返信した。
「わかりました。明日、JAGL窓口に預けます。料理には使いません」
送信してから、台所の灯りを少し落とした。
金色の採取ケースが、冷蔵庫の中で小さく光っている。
ピコは通気ケースの中で丸くなっていた。
羽の光が、ケースの壁に淡く映る。
ゴールドモスの金色と、少しだけ似ている。
気のせいかもしれない。
だから今は、気のせいのままにしておく。
明日、百グラム。
食べる前に、確かめる。
最浅層なんで、急がずに。
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