第30話 初のファン交流
土曜日、午後二時。葉山食品の会議室。
白い机の上に、同じ朝にB1で採ったゼリーを三種類並べた。
一つ目:源田屋の容器で朝から密封したゼリー。断面は透明な白にかすかな青み。スプーンで切った瞬間、甘い香りが鼻先を抜けた。採取直後と変わらない、あの緑を思わせる清涼感だった。触れると弾力が指に伝わる。表面がわずかにひんやりしている。
二つ目:市販の袋に入れた同じ時間帯のゼリー。見た目はほぼ同じ。でも、スプーンを入れた時の手応えが少し違う。採取Sが感じ取る「重さ」が薄い。口に含んでみると——甘みの角が少し丸くなっている。青みがかった後味が短い。
三つ目:採取直後にすぐ冷やしたゼリー。甘みが一番ストレートで角がある。香りも鮮烈だが、切った断面に霞みがかった部分がある。スプーンを入れるとじゅわっと水分が少し滲んだ。採れたてゆえの過剰な水分だった。
比較できる形で見せると、俺が決めた。
北条さんはまず三つ目を口に含んだ。目の前で静かに咀嚼した。眉の位置が少しだけ上がる。
「……採れたての状態、確かに。香りは一番鮮烈ですね」
次に二つ目。少し間があって、眉がわずかに動いた。「ふむ」という声が漏れた。採取Sが感じ取っていた「重さの薄さ」を北条さんの舌もちゃんと読んでいた。
そして一つ目——源田屋の専用容器のものをスプーンに乗せた。口に入れた。スプーンを置いた。しばらく黙っていた。
「これは再現できません」
静かな、断定だった。胸の奥が一拍、温かくなった。——認められたという感触。言葉にすると陳腐になるが指先が微かに震えた。
「素材が違いますではなく——処理の質が違う。採取Sの感覚が保存段階から機能しているんですね」
「……よくわかりましたね」
「私は十五年、ダンジョン食材の研究をしています。この差はわかります」
山田さんが隣で小さく笑っていた。
俺は三種類のゼリーが並んだ机を見た。一つ目から順に、専用容器、市販袋、採取直後。自分では当然のことだと思ってやっていた。でも、それが十五年のプロフェッショナルに「再現できない」と言わせた。
* * *
監修者、という言葉が書類の上に置かれるたびにくすぐったい気持ちになった。
俺はまだ、その言葉を受け取り慣れていない。でも——北条さんの「再現できません」という一言は本物だと思った。研究者が実験結果を読み上げる時のあの乾いた声の断定だった。
「来週、契約書案と社内確認の流れをお送りします」
北条さんは容器をもう一度見た。
「ユウトさん。あなたは最浅層をまだ掘り尽くしていない」
* * *
日曜日、夜八時。新しい動画を上げた。
タイトルは「保存容器を変えたら、ゼリーが別物になった話」。
撮影はシンプルだった。源田屋の容器を開ける。竹べらで盛り付ける。
透明な白が光の角度によって淡い青になる瞬間。その色をカメラに収めた。
甘い香りは映らない。でも湯気が立つ鍋とは違う、この素材の美しさは画面でも伝わると思った。
加工なし。BGMなし。ピコが通気ケース越しに隣でのぞき込んでいる映像だけがおまけだった。
公開から四時間。コメントが止まらない。再生数:三千二百。コメント数:四十一件。俺はスクロールを止めた。
* * *
コメントの中に見知った名前が並んでいた。
tanuki_yamaさん。aokusa_eaterさん。tenmusu_kさん。mi_kana——カナメがいた。
この人たちは毎回来ている。十万再生の動画にも視聴者ゼロの頃の動画にも。ずっといた。
コメント欄で、こんなふうに会話を続けたことはなかった。
* * *
tanuki_yamaさんのコメントを開いた。
先週、B2で苔を初めて採ってみました。ユウトさんの動画を参考にして、シンプルに塩とオリーブオイルで炒めたら、思ったより全然美味しかったです。苔の青い色が残って綺麗でなんか嬉しかったです。
俺は画面を止めた。
実際に試した人がいる。最浅層の苔を自分で採って、料理した人がいる。俺の動画を見て。俺の手順を参考に。
ピコが通気ケースの中からのぞき込んでくる。俺は返信欄を開いた。
「試してくれてありがとうございます。どんな素材と合わせましたか? 火加減はどうしましたか?」
送信。一分後、返信が来た。
塩とオリーブオイルだけです!苔の青が綺麗で。あとで動画に上げたいけど、機材がないので……
「最低限の撮影なら、スマホで十分ですよ。最初の俺もスマホでした。三脚は百円ショップのでもいけます」
え、そうなんですか! 知らなかった。やってみます。
「最浅層なんで。お互い、急がずに」
会話が続いた。気づいたら別のコメントへ返信が飛んでいた。
tenmusu_kさんのコメントも開いた。最初からいた、名前も知らない人たちへ。ひとつ、また、ひとつ。
源田屋の容器、高そう。普通の密封容器でも変わりますか?
「まずは市販の密封容器で十分だと思います。香りが落ちるなら、専門のものを試す価値があります」
ありがとうございます。あと、ピコは今日もゼリー食べました?
「食べました。通気ケースの中で、いい声でした」
aokusa_eaterさんのコメントも開いた。
苔って生でもいけますか? 青いの綺麗だけど、ちょっと怖いです。
「生はおすすめしません。JAGL資料だと加熱推奨です。俺も火を通してから味を見ています」
すぐに、ありがとうございます、火を通します、と返ってきた。
* * *
mi_kana——カナメのコメントを最後に開いた。
ゼリーの光、いいね。
公開欄では、それだけだった。短く返信した。
「ありがとう。次はもっと光る素材を探してみる」
その直後、カナメから個別メッセージが来た。
試食会の結果、聞いてもいい? あと源田屋ってどこにあるの。
カナメらしかった。気になったら、すぐ動く。
「うまくいった。場所は今度直接。人に広める店じゃなさそうだから」
既読がついた。返信はすぐには来なかった。きっと研修か深層の仕事が入っているんだろう。
* * *
深夜零時。コメント欄はまだ動いている。
俺の返信に返信が来て、別の視聴者が反応して、新しいやりとりが生まれている。
登録者:八千四百。
指先が画面の上で一度止まった。
その「数字」の重さが今夜、変わった。八千四百の「人」がいる。毎回来ている人がいる。最浅層の苔を自分で炒めた人がいる。来週スマホで動画を撮ろうとしている人がいる。
「……あ、これ、なんか」
口から出た。喉の奥が細くなった。——良い方向に細く。
「……じわじわ、広がってる」
胸の奥がもう一拍、温かくなった。指先がスマホを持ったまま、微かに震えた。——画面の向こうに本当に人がいる。
俺はスマホを置かずにもう一件返信した。
DungeonTubeのコメント欄が今夜、俺の台所みたいな気がした。知らない人と短い言葉を交わすだけで最浅層が少し広くなる気がした。
来週もこの動画を撮る。また、この人たちに届ける。——次はもっと光るものを持っていく。
* * *
tanuki_yamaさんからもう一件返信が来ていた。
スマホ、挑戦してみます。三脚も百円ショップ探してみます。ありがとう!
俺はそれを読んでスマホを持ったまましばらく動かなかった。
誰かが明日、B2に行くかもしれない。最浅層の苔を採って、炒めて——それを動画に撮るかもしれない。俺の最初の動画と同じ場所から始まる人がいるかもしれない。
胸の奥が一拍、温かくなった。数字じゃない、この感触。
コメント欄を閉じた。スマホの画面が暗くなった。台所は静かだ。
ピコが通気ケースの中で低く一声鳴いた。
『ぴこ……』
眠いという声だった。俺も眠かった。でももう少しだけこの台所で座っていたかった。
今夜、ここで何かが始まった気がしていた。
来週は、カナメに相談して、もっと光る素材を探す。B4に行くなら、必ず誰かと一緒に行く。最浅層はまだやることが山ほどある。
ピコがケースの壁越しに俺の手の甲へ鼻先を寄せた。小さな温度が、透明な壁の向こうにある。
「……うん。来週も行くか」
『ぴこ』
短い一声。それで充分だった。
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