第29話 源田屋との出会い
木曜日。試食会まであと二日。
JAGLビルのロビーで受付を済ませ、地下ゲートへ向かう前に正面口の外へ出たところで——足が止まった。
ピコの通気ケースは肩掛けにしてある。支部窓口で一時保護メモを見せ、B1短時間同行、ケース外には出さない条件で観察継続扱いになることを確認しておいた。
建物の横、搬入口へ続く路地を一本入ったところに見慣れない看板があった。
「源田屋」。
手書きの木の板。文字は少し歪んでいるが滲みはない。長い年月をくぐり抜けた看板だった。
いつからここにあったんだろう。
……いや、違う。俺がただ、気づかなかっただけだ。
ピコが肩掛けの通気ケースの中で首を傾げた。
引き戸を引いた。木材と皮油の混じった独特の匂いが溢れ出た。
* * *
三畳ほどの床。壁の棚には採取ナイフ、圧縮袋、ランタン——道具がびっしりと並んでいる。どれも量販店の薄いプラスチック品じゃない。使い込まれた実物の道具たちだった。
「なんか、用か」
奥で声がした。白髪の老人が棚を整理しながら、振り返らずに言った。小柄だが、肩の厚みが違った。引退後も鍛え続けた人間の体だと——積み上げてきたものが立ち姿に出ている。
「……採取用の保存容器が欲しいんですが」
「何の素材だ」
「B1のブルースライムゼリーを主に」
老人はゆっくりと振り返った。青灰色の鋭い目が俺を頭から足元まで一度流れた。少し間を置いて。
「採取屋だな。それも、相当上だ」
断定だった。
「……なんでわかるんですか」
「見ればわかる。目の使い方が違う。採取屋は空間全体を周辺視野で覆う。戦闘屋は俯瞰しない」
* * *
老人は棚の奥から白い容器を取り出した。地味な見た目だが、蓋の密閉性が高く、内側にうっすら光る薄膜が施してあった。
手に取ると、見た目より重い。蓋を回すと、最後の半回転だけ抵抗が増えた。空気が抜ける時の、細い吸い込み音がした。
ただ閉める容器ではない。中の空気まで少なくして、素材を眠らせるための道具だ。
「ゼリー系の素材にはこれを使え。市販の袋は微細な気孔から酸化する。一時間で風味が飛ぶ」
「……一時間で」
思わず声が出た。
今まで「採れたてをすぐ調理」していたのは——正解だったんじゃなく、酸化する前に偶然使っていたからだった。
「ゼリー系は採取した瞬間から劣化が始まる。密封した時間がそのまま、素材の力になる」
「……知りませんでした」
「そうだろうな。誰も最浅層のゼリーを本気で扱わんから」
老人は容器をカウンターに置いた。
「千二百円だ」
俺は財布を出した。量販店の市販袋より六倍近く高い。でも——素材の「力」を守るための六倍だ。その差を北条さんが認めるなら、安い。
値札ではなく、時間を買っているのだと思った。採れたての数時間を、この白い容器に閉じ込める。
ピコが肩掛けの通気ケースの中で、不思議そうに容器をのぞき込んでいる。老人の目が一瞬だけピコに向いた。何かを言いかけて——止まった。
その一瞬、指先がかすかに温かくなった。容器ではない。棚の奥でもない。老人の目とピコの間に、何か細い糸のようなものが触れかけて、すぐに引いた気がした。
「……坊主」
「はい」
「最浅層を侮るな。浅いからといって、見飽きたものは何もない」
俺は頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「また来い」
引き戸を閉める。ピコが通気ケースの中から、しばらく源田屋の看板を振り返っていた。
* * *
B1、「浅瀬の間」。今日はいつもの入口側ではなく、水音の濃い奥へ入る。
B1の奥——通常俺が採取するエリアより十分ほど奥。水面の反射が少し暗く、苔の青が薄く揺れている。ゼリー層の透明度が高い個体は、この水際に出やすい。今まで安全な画角を優先して、あまり奥まで狙ってこなかった。
北条さんの声が頭の中で蘇る。「欲しいのは現場の採取Sの感覚です」。
あの言葉の重さに——今日、ここでちゃんと応えたい。
採取Sが発動する。水面の湿気。苔の青みがかった発光。微細な甘い香り——いつもより一段澄んでいた。
前方、十二メートル。岩の陰。密度の違う個体。ゼリーの層が透き通っている。
一撃。
すぐに容器の蓋を開ける。ゼリーをすくい上げる指先。「通電」の感覚が——いつもより鮮明だった。
容器の中に入れる。蓋を密封する。
素材の「揺らぎ」が静まった気がした。
今まで俺はずっと素材を損なっていたのかもしれない。指先がその事実の重さに一拍、固まった。この一か月弱、毎回、ゼリーを仕込んで少し落ちた味を本物だと思っていた。
ピコが通気ケースの中で低く鳴いた。
『ぴ……ぴこ……』
料理の予感を嗅ぎ取った時の鳴き方だった。
* * *
夜、帰宅。台所のテーブルに容器を置く。
蓋を開けた。朝から七時間。甘い香りが、蓋の裏から遅れて立ち上がった。透明度が保たれている。色は採れたての青みに近い、鮮やかな白だった。いつもなら、この時間で僅かに黄色みがかってくる——その変化が今夜はない。
まず、小さじで一口だけ、素材のまま口に含んでみる。ブルースライムゼリーはJAGLの食用可リストに登録済み。問題ない。
——甘みが澄んでいた。舌に乗せた瞬間、冷たい膜が薄くほどけて、奥から青い香りが伸びる。市販袋の時にあった丸い鈍さがない。採れたての青みに近い、透明な輝きが舌の上に残る。後引く余韻が深い。
手が一度止まった。
「……あ、これ」
思わず口から出た。
「……意外と全然、違う」
今まで作ってきた俺の料理がずっと二割落ちだったと——今になって、初めて気づいた。
ピコが通気ケースの中で、容器の方へ前足を伸ばした。透明な壁をこつんと叩く。
すん、すん。
そして——半音、上がった。
『ぴーこ』
昨日の『ぴこぉ』より、半音高い。手が一度止まった。嬉しいと言っているのか。それともこの素材を——知っているのか。
胸の奥に一拍、空白が生まれた。
あの老人はピコを見て、何を言いかけたんだろう。あの一瞬、指先が源田屋の奥ではなく、ピコの光に細く反応していた。理由はまだ分からない。
週末の試食会。渡すのはこれだ。ピコの声が台所に静かに響いた。
* * *
スマホのメモを開いた。試食会の準備リスト。
「源田屋の専用容器:七時間保存で一次確認」の横にチェックを入れた。
次の行。「試食会当日、同一ロットで三種比較」。
北条さんに見せるなら、比較できる形がいい。同じ朝に採ったゼリーを、採れたて、いつもの市販袋、源田屋の容器で分ける。その差が北条さんの十五年の目にどう映るか。
指先の感覚では、今日のゼリーが一番輪郭を保っている。でも、研究者の言葉で証明するには比較が必要だ。自分の感覚だけでなく、他者が再現できる形で示す。
それが監修というものの意味なんだろうと——今日、初めて、思った。
ピコがケースの壁越しに、俺の指先へ鼻先を寄せた。
『ぴ……ぴこ』
眠い声だった。けれど、声の端が少しだけ明るかった。
* * *
台所の灯りを消した。
寝る前にもう一度だけ、源田屋の容器を手に取った。地味な白い外側。内側の薄い保護膜。これが素材の「力」を守る。
老人の言葉が頭の中で反響していた。「密封した時間が素材の力になる」。
最浅層の採取物を本気で扱う道具があった。俺が知らなかっただけで——ずっとそこにあった。
容器をそっとテーブルに置いた。窓の外。夜の晴海の灯りが静かに並んでいる。
明後日は北条さんに、この差をそのまま届ける。源田屋の白い容器を見下ろすと、指先が細く温かくなった。それだけが今夜の俺にできる、全部だった。
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