第12話 カナメの苦言
火曜日の夜、十一時半。
カナメからLINEが来た。
実戦練習の初日を終えた夜の最初の返信だった。
『再生百六十八。いいじゃん』
三秒後もう一通。
『でも、ユウ、ひとつだけ、いい?』
……来たと俺は思った。
カナメの『ひとつだけ、いい?』の前置きが付く時は、昔からいい話じゃない。
中学の時、俺がギターを半年やめた日の前夜もこれと同じ前置きだった。
『どうぞ』
返信を打つまでに三秒、待った。
* * *
『パフェ動画、よかった。父さんの図の話、たぶん泣いた人、いる』
『うん』
『でも、地味じゃない?』
指が止まった。
画面の上で文字を読み返した。
地味。
俺の中でたぶんいちばん最初から自覚している言葉だった。
でも、それをカナメから文字で突きつけられるのは別の種類の重さだった。
喉の奥が細くなった。
『つづき、ある?』
『ある』
三秒空けて、連投で来た。
『最浅層の素材を料理する、っていうのはユウにしか撮れない絵だと思う』
『でも、料理の組み立てが全部家庭料理の延長なの』
『寒天、炒め、おにぎり、パフェ。どれも母さんが笑って見てられる範囲』
『それが地味の正体』
俺は台所の床に座り込んだ。
先週の金曜の夜と同じ場所、同じ体勢で。
膝に額をつけて、息だけ、していた。
カナメはたぶん今も俺の沈黙の時間を向こう側で見ている。
* * *
『地味じゃ、だめ?』
五分後、俺はそう打った。
送信ボタンを押す前に二回、消した。
三回目で送った。
カナメの返信は早かった。
『だめじゃない』
『でも、地味なだけの配信者は最浅層で誰にも気づかれずに終わる』
『私、A級ルートの実戦練習、今日、二時間ぶっ通しで走った』
『休憩中、寮のソファでユウの動画、観た』
『朝の時点で九十二人、観た人いるんだって』
『九十二人しか観てないのに、寮の先輩に誰、この子、って訊かれた』
俺は文字を読みながら、胸の中で別のものが動き始めているのに、気づいた。
嬉しいではない。
ほっとしたでもない。
はじめての怖いに近かった。
見つかった、という感覚の別の形。
『……え』
『ユウの動画、寮で回ってる』
俺は画面を見ながら、息を止めた。
* * *
『なんで』
『分からない』
『でも、glow_mossっていうコメント主、たぶんウチの先輩』
『名前、出さない約束で観てる』
『つまり、業界の人間がユウの動画を観始めてる』
『地味の一言を褒め言葉に変えるか、埋もれる理由に変えるかはユウ次第』
glow_moss。
朝に見た、三人のうちの一人。
編集か現地光かを訊いた、あの人。
先輩。
業界の人間。
スマホの画面の白がいつもより少し眩しかった。
『ありがとう』
『いい』
『続けて。地味のままでももう一段踏み込んで』
『明日、何撮る?』
『B3、覗く。ゴブリン肉』
既読はついた。
返信は二分後。
『肉。いいね。地味じゃない肉を地味に調理して』
『それがユウの仕事』
それだけだった。
* * *
スマホを閉じた。
台所の床からゆっくり立ち上がった。
冷蔵庫の前でもう一度白い筋のゼリーの袋を見た。
十六本。
増えている。
でも、今夜は本当に数えない。
気のせいではなく、数えない。自分でそう、決めた。
冷蔵庫の扉をいつもより少し強く、押し閉めた。
* * *
水曜日の朝。
六時に目が覚めた。
いつもより三十分、早い。
父の書斎に上がった。
レシピ帳を開いて、最後のページの昨日の書き込みの下にもう一行、鉛筆で書いた。
『十本目:ゴブリン肉の燻製』
『B3の地熱だまりで地熱石を使う』
『想定』
書きながら、手が止まった。
想定という二文字を書いて、消してもう一度書いた。
想定のままにしておいた。
まだやってない。
やってから書き直す。
父のレシピ帳には肉の項は無い。
十二年前、父はB2より下の素材も、いくつか見ていたはずだ。
古地図には、まだ読めない赤い印が残っている。
でも、そこに何が書かれていたとしても、レシピ帳にはゴブリンの肉もケイブマウスの肉も書かれていない。
父は書かなかった。
あるいは書く時間が無かった。
俺が書き加える。父の図ではなく、父の図の「続き」を。
レシピ帳を閉じた。
表紙の『調』の一字が朝の光の中で薄く、金色に見えた。
十二年、閉じていた革の黒と布の汚れの白の中でそこだけ、古いインクがまだ生きていた。
父の字の残り方がそういう種類の生き方だった。
書斎を出る前にもう一度古地図を見た。
赤い丸。
読めない短い書き込み。
いつか、意味を確かめに行く。
でも、今日じゃない。
今日はB3だ。
F級の最後の階段。
一段ずつ、しか、俺には降りられない。
* * *
七時、母が起きてきた。
「ユウ、今日、何撮るの」
「B3、覗く。ゴブリン肉」
母の手が麦茶のキャップを開ける直前で止まった。
指先がキャップの上で半拍、迷った。
「B3」
「うん」
「ゴブリン、戦うの?」
「戦うっていうより、JAGL資料で低危険個体だけ確認する。逃げられる距離で、無理なら帰る」
母はしばらく何も言わなかった。
麦茶のキャップを静かに開けた。
ゆっくり一口、飲んだ。
その一口がいつもより長かった。
「父さん、B3でも、何か、作ってたの?」
「書いてなかった。俺が書き加える」
母は麦茶を二口目、飲んでそれから笑った。
繁忙期のクマは今朝はほんの少しだけ薄い。
気のせい、じゃなかった。
「無理なら、撮らなくていいから」
母はそう前置きしてから、少しだけ声を低くした。
「父さんの分の肉、撮ってきて」
胸の奥に何かがひとつ落ちた。
重くて、でも軽い、そういう種類の落ちた音だった。
俺は頷いた。
父の分。
母がそう言った。
十二年経って、母の口からはじめて、『父さんの分』という言葉が出た。
パフェの時の涙の次の朝に、母は静かに言葉の方を一歩前に出した。
涙より言葉のほうが遠い場所で効く。
そういう気がした。
* * *
玄関でザックの前を通った。
今日は視線をザックの肩紐まで落とした。
触れなかった。
でも、視線の止め方が昨日より自然だった。
いくつものものが俺の身体の中で同時に動いている。
気づいていないふりはもうできなかった。
ドアを閉めた。
* * *
電車の中、スマホを開いた。
カナメとのLINEは、昨夜の二行で止まっている。
昨夜の最後のやり取りが画面の下に残っていた。
『肉。いいね。地味じゃない肉を地味に調理して』
『それがユウの仕事』
俺はこの二行をスクリーンショットに撮った。
父の書斎のレシピ帳の昨日の書き込みの上に重ねるように、頭の中で保存した。
これは紙に鉛筆で書き写す種類の言葉じゃない。
身体のどこかに直接、入れておく。
電車の窓の外、新緑の街路樹が通り過ぎていった。
桜はもう、すっかり散っていた。
四月の終わり、五月の連休を俺はB3の地熱の匂いの中で迎えることになる。
そういう予定は去年までの俺には一度も無かった。
DungeonTubeのアプリを開いた。
九本目のパフェ動画の再生数:二百四十。
登録者:九。
一晩でまた、増えていた。
コメントは三件、新しいのが付いていた。
どれも短い、知らない人の文字。
『次、楽しみ』
『どこかで話題って本当?』
『地味で渋い。もっと知りたい』
二番目のコメントは、カナメが言っていた寮の先輩か、その周辺の誰かが書いたのだろうか。
分からない。
確かめない。
確かめないと決めた。
カナメの苦言を自分で持ち続けるための距離の取り方だった。
JAGL晴海支部に着いた。
今日の目的地はB3「骨の洞窟」。
最浅層の最後の階段。
F級の俺が単独で正式に下りられる、最下の境目。
地味じゃない肉を地味に調理して。
それがユウの仕事。
カナメの二行をもう一度頭の中で読み直した。
ザックの鍵は今日も家に置いてきた。
父の書斎のノートも地図も机の上のまま。
俺は今日、自分の図を書き加えに行く。
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