第11話 最初のコメント
火曜日の朝、五時半。
起きてすぐ、スマホを開いた。枕元の明かりの下、親指が、いつもの癖で、DungeonTubeのアプリアイコンに落ちた。
九本目——『スライムゼリーパフェ。父の図、十二年後の完成』——の再生数が、画面の真ん中で、ひとつ、動いた。
再生数:九十二。
まだ、俺の目は、数字の意味を処理していなかった。
昨夜、寝る直前は、十。そこから、七時間で、八十以上、増えた。
指が、一度、画面の上で、止まった。
* * *
登録者のタブを、押した。
四。
昨夜まで、ずっと一人だった。一人は、mi_kana。今朝、三人、新しく増えていた。
コメント欄を、下へスクロールした。
mi_kanaのコメントの下に、別のハンドル名が、三つ、並んでいた。投稿時刻は、どれも、深夜一時から五時のあいだ。
> cook_umi3 —— `ダンジョン素材でパフェって、こういう選択肢があるんだ。美味しそう`
> yakiname22 —— `お父さんの図、って表現でじんわりきた。続き、追います`
> glow_moss —— `ブルーの発光、編集でやったんじゃなく、現地光? 凄い`
俺は、スマホを持ったまま、台所に下りた。コンロにやかんを載せて、火をつける前に、もう一度、画面を、開いた。
消えていなかった。本当に、三人、知らない人が、書いていた。
* * *
『美味しそう』という、たった五文字の一行を、俺は、ずいぶん長く、見ていた。
最浅層のゼリーを、誰かが、画面越しに、『美味しそう』と思った。——その「誰か」は、俺の知らない人で、たぶん、カナメの知り合いでもなく、ゲンさんでもない。ただ、インターネットの広いどこかから、俺の動画を見つけて、最後まで観て、コメント欄に文字を打ち込んだ。
それだけの出来事が、俺の中で、どういう形を取るのか、まだ、分からなかった。
嬉しい、という言葉は、正確じゃない気がした。ほっとした、でもない。——たぶん、届いた、という、一語がいちばん近い。
昨夜のmi_kanaのコメントを、もう一度、見返した。
> mi_kana —— `これは、届く。たぶん、明日、起きたら、世界が変わってるよ`
カナメは、正しかった。世界は、変わってない。でも、俺のコメント欄は、変わった。
* * *
七時に、母が起きてきた。
今朝は、月曜より少しだけ、早い。パフェの試食分は、昨日、母が全部食べた。冷蔵庫には、ブルーゼリーの切れ端が、ほんの少しだけ、残っていた。
「おはよう」
「おはよう」
俺は、いつも通りに、トーストを焼いた。母は、いつも通りに、ペットボトルの麦茶を、一口飲んだ。
でも、食卓につく前に、母が、一度、言った。
「ユウ、昨日の動画、再生、何人?」
「……九十二」
母の手が、麦茶のボトルを持ったまま、半秒、止まった。
「一晩で?」
「うん」
「コメントは?」
「四件。三件、知らない人」
母は、笑わなかった。でも、麦茶を置いて、食卓の椅子に座る動作が、いつもよりほんの少し、丁寧だった。
「父さんのことも、書いた?」
「タイトルに入れた。本編でも、父のレシピ帳の話、した」
母は、しばらく、黙って、トーストにバターを塗った。
「……父さん、喜んでる」
断言だった。気のせいかもしれない、の修飾が、今朝はなかった。母自身が、先に、断言する側に、回っていた。
* * *
朝食のあと、カナメに、LINEを打ちかけた。
『再生九十二』
打って、消した。A級ルートの実戦練習中のカナメに、数字だけ送るのは、違う気がした。代わりに、一行、別の文を打った。
『カナメのコメント、当たった』
既読は、三十秒で付いた。返信は、半日経ってから、夜に来ると、たぶん、分かっている。練習の休憩時間の三十秒で、既読だけ付けて、画面を閉じたのだ。
それだけで、充分だった。
* * *
父の書斎に、上がった。
日曜日に並べたままの、ザックの三つの中身は、机の上で、そのまま、朝の光を受けていた。革表紙のノート、古地図、レシピ帳——そして、レシピ帳の最後のページに、昨日、俺が完成させた図が、まだ、開いたままだった。
ピンク、ブルー、グラノーラ、ミント。父の走り書きの脇に、鉛筆で、小さく、昨日の俺が、書き足していた。
『九本目、撮影B1青の岸辺、再生——』
昨夜の時点では、ここは空欄だった。俺は、机の引き出しから鉛筆を取り出して、空欄に、数字を書き込んだ。
『九十二(火曜朝)』
父の図の下、十二年越しに、はじめての数字が、入った。
これは、後で、もっと増えるか、減るか、分からない。でも、今朝の数字を、書いた。記録は、続ける——それだけは、決めていた。
* * *
コメント欄に戻って、返信を、書こうとした。
cook_umi3 さんの「美味しそう」に、何と返すべきか、指が、しばらく、動かなかった。「ありがとうございます」は、硬い。「食べさせたいです」は、配信者としては、前のめりすぎる。「また撮ります」は、約束が重い。
結局、打ち込んだのは、短い一行だった。
> mucha_gohan(俺のアカウント名)—— `次の動画で、別の素材、持って帰ります`
返信を、送信した。
送信の直後、自分の言葉を読み返して、小さく、笑った。——撮ります、でも、やります、でもなく、『持って帰ります』。配信者の言葉ではなく、最浅層に通っている、採取者の言葉になっていた。
でも、これで、いい気がした。
* * *
昼近く、登録者が、六になった。
cook_umi3 も、yakiname22 も、glow_moss も、登録していた。もう一人、新しく誰かが、増えた。
ゲン_zero のコメントは、今日も、増えていない。七年前の一行は、あの場所で、光り続けている。『続けてみなさい』。
続けます。——返事は、まだ書かない。次の動画で、返す。
* * *
午後、台所で、次の素材の準備を始めた。
冷蔵庫のブルーゼリーの切れ端。B2グリーンモスの乾燥ストック。光柱の粉のガラス瓶。——そして、頭の中に、B3「骨の洞窟」のことが、あった。
F級の推奨活動階層は、B1からB3。B3は、単独で入れる、最後の階層だ。地熱の噴出孔、ゴブリン、ケイブマウス——素材の幅が、一気に広がる。肉、も、入ってくる。
でも、今日は、B3は、行かない。
今日の俺には、まだ、パフェの動画が、画面の向こうで、伸びていく仕事を、観察する時間が、必要だった。採取と、観察は、別の仕事だ。
代わりに、スマホのメモに、一行、打った。
『明日、B3を覗く。肉、を持って帰る。燻製、試す』
下に、もう一行。
『今日の九十二は、明日、何人になっているか』
* * *
夜、十一時、もう一度、DungeonTubeを開いた。
再生数:百六十八。
登録者:七。
コメント:七。
朝から、二倍近く、増えていた。三人、また、新しく登録していた。コメントも三件、増えていた。『参考になります』『うちの冷蔵庫に、ブルースライム買ってみる』『パフェだけじゃなく、他のレシピも観たい』。
どれも、短い。どれも、知らない人の文字。
最後の『他のレシピも観たい』の下で、指が止まった。——観たい、と、書かれていた。観てください、でも、上げてください、でもなく、自分が観たい。その一語の中に、俺の動画を待つ他人の時間が、はじめて、はっきりと、在った。
次は、何を、持って帰るか。
頭の中に、B3の地熱の噴出孔の写真があった。F級資料で、一度だけ見た。ゴブリン肉は、流通している安価な肉で、冒険者が自分で料理する話は、聞いたことがない。——誰もやらない、からやる。不味い、か、安い、か、粗い、か。理由は、たぶん、何でも良い。誰もやらない場所こそが、俺の居場所だ。
左手で前髪を掻き上げた。冷蔵庫の白い筋のゼリーは、今夜、十六本。増え続けている。気のせい、では、もう、ない。でも、今夜は、数えたことを、数えないことにする。
明日、B3に行く。肉を、持って帰る。父のレシピ帳には、まだ、肉の項は、なかった。そこから先は、俺の図だ。
ブクマや評価をいただけると、続きの執筆がすごく捗ります。
楽しんでいただけたら、ぜひ応援してやってください!




