第6話 悪女に降りかかる災難
その日の夜、王都には珍しく激しい雨が降っていた。
黒々とした雲が月を覆い隠し、石畳を叩く雨音が街の喧騒を呑み込んでいる。軒先から滴る雨水は細い川となって路地を流れ、遠くで鳴り響く雷鳴が、眠りについた家々の窓を微かに震わせた。
聖リディア救護院の二階では、一人の少女が目を覚ましていた。
薄暗い部屋には小さな燭台が置かれ、頼りない炎が壁に揺れる影を落としている。少女は毛布を胸元まで引き寄せ、閉ざされた扉をじっと見つめていた。
眠れない。
目を閉じるたびに、あの暗い廊下が浮かんでくる。鍵のかかった扉。冷たい石の床。そして、決して逆らってはならないと教え込まれた、あの男の声。
『余計なことを知った子供は、長生きできない』
少女は小さく身震いした。
そのとき、階下で物音がした。
最初は、風が窓を揺らしたのだと思った。しかし、続いて聞こえたのは、明らかに人の足音だった。
一歩、また一歩。
重たい靴底が、木の階段をゆっくりと踏みしめている。
少女は息を止めた。
救護院の者たちは、夜になると柔らかな室内履きを使う。こんな音を立てて歩く者はいない。
足音が、扉の前で止まった。
「……ここか」
低い男の声がした。
少女の顔から血の気が引いた。
次の瞬間、扉の取っ手がゆっくりと動いた。
翌朝、ヴァレンシュタイン公爵邸には、まだ雨の匂いが残っていた。
オルフェリアは食堂の窓辺で朝食を取っていた。焼きたてのパンに薄く蜂蜜を塗り、温かな紅茶を一口含む。昨夜の雨で庭園の薔薇は幾輪か散ってしまったらしく、庭師たちが朝早くから手入れに追われている。
「お嬢様、本日のご予定ですが……」
マリアンヌが予定表を手に口を開いた、そのときだった。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。
「お嬢様!」
扉を開けたのは、執事長であった。普段はどのような事態にも動じない老執事が、珍しく顔色を変えている。
「どうなさったの?」
「聖リディア救護院から、緊急の知らせが届きました」
オルフェリアは静かに茶杯を置いた。
「……何があったの?」
執事長は一瞬言葉を詰まらせた。
「昨夜、救護院に何者かが侵入したとのことです」
「侵入?」
「はい。院長のマルタ様が負傷され、さらに……」
執事長は深く息を吸った。
「昨日お嬢様がお会いになった少女が、行方不明になっております」
オルフェリアは、しばらく何も言わなかった。
窓の外では、雨に濡れた葉が朝日に輝いている。昨日までと変わらぬ、穏やかな景色だった。
「……馬車を」
やがて、彼女は静かに口を開いた。
「すぐに用意してちょうだい」
救護院の前には、すでに大勢の人々が集まっていた。
近隣の住民たちが不安げに囁き合い、王都警備隊の兵士たちが入口を塞いでいる。建物の二階には割れた窓があり、雨に濡れた木枠が無惨に歪んでいた。
オルフェリアが馬車から降りると、兵士の一人が慌てて近づいてきた。
「ヴァレンシュタイン公爵令嬢!」
「院長はどちらに?」
「現在、医師の診察を受けております。命に別状はございませんが……」
「そう。では、まず院長に会わせてくださいませ」
兵士は困惑した表情を浮かべた。
「恐れ入りますが、現在こちらは捜査中でして……」
「承知しております。ですから、捜査の妨げにならない範囲で結構ですわ」
オルフェリアは穏やかに微笑んだ。
「こちらの救護院は、ヴァレンシュタイン公爵家が支援しております。負傷者の治療や施設の修繕について、確認しなければならないことがございますの」
兵士はしばらく迷っていたが、やがて道を開けた。
建物の中には、昨夜の騒動の痕跡が生々しく残っていた。
廊下には割れた燭台が転がり、階段の手すりには深い傷が刻まれている。二階へ上がると、少女が使っていた部屋の扉が壊され、蝶番が片方外れていた。
オルフェリアはその前で足を止めた。
「……随分と乱暴なこと」
「お嬢様」
背後から声がした。
振り向けば、マルタ院長が若い修道女に支えられながら立っていた。額には包帯が巻かれ、左腕を布で吊っている。
「マルタ院長!」
「申し訳ございません……あの子を、守れませんでした」
マルタは震える声で言った。
「昨夜、二人の男が押し入ってきたのです。顔は見えませんでしたが、ひとりがあの子の名前を呼んで……」
オルフェリアの目が細くなった。
「名前?」
「はい。確か……」
マルタは記憶を辿るように目を閉じた。
「……リゼ、と」
「リゼ……」
少女が決して名乗ろうとしなかった名前。
オルフェリアはその響きを胸の内で繰り返した。
「それから、どうなさったの?」
「私が止めようとしたところ、突き飛ばされてしまって……気がついたときには、もう誰もおりませんでした」
マルタは俯いた。
「本当に、申し訳ございません」
「謝らないでくださいませ」
オルフェリアは静かに答えた。
「あなたが無事でいてくださったことが、何よりです」
そう言ってから、彼女は壊れた扉へ視線を戻した。
昨日、少女が見せた怯えた表情。
手首に残っていた痣。
そして、衣服の裏地に縫い込まれていた蔓草の印。
あの少女は、ただの迷子ではなかった。
その日の午後、王都には別の噂が広がり始めていた。
『ヴァレンシュタイン公爵令嬢が、貧民街の救護院で少女を匿っていた』
『その少女が、何者かに連れ去られたらしい』
『公爵令嬢は、少女の正体を知っていたのではないか』
噂は瞬く間に広がり、夕刻には王宮の耳にも届いていた。
そして、オルフェリアのもとへ、一通の正式な召喚状が届けられた。
差出人は、王都警備隊。
内容は、救護院で発生した少女失踪事件についての事情聴取であった。
「……まあ」
書斎で召喚状を受け取ったオルフェリアは、静かに微笑んだ。
「今度は、わたくしが疑われておりますのね」
向かいに立つエドガーは、険しい顔をしていた。
「笑い事ではないぞ、オルフェリア。これは明らかにおかしい」
「ええ。わたくしもそう思いますわ」
「何故、お前が事情聴取を受けなければならない? 救護院の支援者というだけだろう」
「昨日、あの少女と話をしたからでしょう」
「それだけで正式な召喚状が届くものか」
エドガーは書類を手に取り、印章を確かめた。
そして、眉をひそめた。
「……これは」
「どうなさいました?」
「通常の警備隊の印ではない」
オルフェリアは顔を上げた。
エドガーは召喚状の下部を指し示した。
そこには、王都警備隊の紋章とは別に、小さな印が押されていた。
蔓草を絡ませたような、奇妙な意匠。
オルフェリアの表情から、笑みが消えた。
「……お兄様」
「何だ」
「その書類、少しお借りしてもよろしくて?」
エドガーは黙って差し出した。
オルフェリアは印章を見つめた。
三枚の葉を持つ蔓草。その中央に、小さな輪。
昨日、アルヴィスから見せられた記録。
少女の衣服に縫い込まれていた刺繍。
そして、今度は王都警備隊の召喚状。
「……なるほど」
オルフェリアは小さく呟いた。
「どうやら、わたくしも随分と目をつけられてしまったようですわね」
エドガーは妹を見つめた。
「オルフェリア。何か知っているのか?」
「いいえ。まだ、何も」
彼女は静かに首を振った。
「けれど、ひとつだけ分かったことがございます」
「何だ?」
オルフェリアは召喚状を机に置いた。
「わたくしが婚約を破棄されたことと、あの少女が連れ去られたこと。どうやら、まったく無関係というわけではなさそうですわ」
*
同じ頃、王宮の地下深く。
人の立ち入らない古い通路の先に、小さな部屋があった。
窓のないその部屋には、粗末な寝台と木製の椅子が一脚だけ置かれている。
椅子には、ひとりの少女が座らされていた。
くすんだ金髪。痩せた肩。手首には、新しい縄の痕が残っている。
リゼだった。
扉の向こうから、重たい足音が近づいてくる。
少女は顔を上げた。
鍵が回り、扉が開いた。
現れたのは、黒い外套を纏った男であった。
その胸元には、銀色の小さな徽章が留められている。
蔓草を絡ませた、奇妙な意匠。
「……久しぶりだな、リゼ」
男は穏やかな声で言った。
少女は震える唇を噛みしめた。
「……どうして」
「どうして、とは?」
「……どうして、あの人まで巻き込むの」
男は僅かに首を傾げた。
「ヴァレンシュタイン公爵令嬢のことか?」
リゼは答えなかった。
男は小さく笑った。
「心配する必要はない。あの方には、まだ利用価値がある」
そう言って、男は懐から一枚の紙を取り出した。
そこには、オルフェリアの名前が記されていた。
そして、その隣には、赤いインクで短い言葉が添えられている。
『次の候補』
少女の顔から、血の気が引いた。
「……やめて」
「何を?」
「……あの人には、何もしないで」
男は答えなかった。
ただ、静かに微笑んだ。
「それを決めるのは、私ではない」
扉が閉じられ、鍵の回る音が響いた。
残された少女は、震える手を握りしめた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……逃げて」
その言葉は、冷たい石壁に吸い込まれ、どこにも届かなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ついに事件が発生し、物語が大きく動き始めました。次回も楽しみにしていただけたら嬉しいです!
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