第5話 悪女は慈善家に向いていない
「お嬢様、馬車のご用意が整いました」
マリアンヌの声に、オルフェリアは書きかけの手紙から顔を上げた。
窓の外では、朝露を含んだ薔薇が柔らかな陽光を浴びている。昨夜降った雨の名残が石畳を濡らし、庭園の木々には小さな雫が幾つも光っていた。王太子から届いた手紙には、まだ返事をしていない。
正確には、返事をする必要があるのかどうか、判断しかねていた。
『昨夜の件について、改めて話がしたい。明日の午後、王宮へ来てほしい』
簡潔な文面である。謝罪もなければ、昨日の騒動に対する説明もない。もっとも、王太子殿下からの直筆の手紙に、そこまで期待する方が間違っているのかもしれない。
「……随分とお忙しい方ですこと」
オルフェリアは手紙を封筒へ戻し、机の引き出しにしまった。
「お嬢様、本日は本当にお出かけになるのですか?」
「ええ。以前から約束していたでしょう?」
「ですが、昨日の今日でございますし……」
「だからこそ、よ」
オルフェリアは立ち上がり、鏡の前で帽子の角度を確かめた。今日の装いは、淡い灰青色の外出着に、控えめな銀の耳飾り。王宮の夜会で纏った豪奢なドレスとは打って変わって、実用性を重視した仕立てである。
「婚約を破棄されたからといって、予定していた仕事まで取りやめる必要はないでしょう?」
「……それは、そうでございますが」
「それに、今日の訪問先には、わたくしを待っている方々がいらっしゃるのよ」
そう言って微笑むと、マリアンヌはようやく諦めたように頷いた。
王都の南端にある貧民街は、華やかな王宮とはまるで別の国のようであった。
狭い石畳の道には雨水が溜まり、古びた家々の壁には蔦が這っている。軒先に吊るされた洗濯物が風に揺れ、通りの向こうからは市場の喧騒と焼きたてのパンの匂いが漂ってきた。
オルフェリアの馬車が停まったのは、そんな街の一角にある小さな救護院の前だった。
「お嬢様、本当にこちらで……?」
「ええ。間違いないわ」
オルフェリアは馬車を降り、建物を見上げた。古い煉瓦造りの二階建てで、入口の上には色褪せた木製の看板が掛けられている。
『聖リディア救護院』
そこは、ヴァレンシュタイン公爵家が長年支援を続けてきた施設の一つであった。
「お待ちしておりました、公爵令嬢様!」
入口から現れたのは、白髪をきっちりと結い上げた年配の女性だった。救護院の院長を務めるマルタである。
「ごきげんよう、マルタ院長。皆様、お変わりなく?」
「ええ、おかげさまで。ですが、今日は少々困ったことがございまして……」
マルタは言いにくそうに視線を落とした。
オルフェリアは眉を上げた。
「まあ。何かございましたの?」
「実は、昨日の夜、ひとりの少女が運び込まれたのです」
「怪我人?」
「いいえ。外傷はございません。ただ……」
マルタは一度周囲を見回し、声を落とした。
「その子が、どうしても名前を名乗ろうとしないのです」
案内された部屋は、救護院の二階にあった。
窓際には古い寝台が一つ置かれ、その上には痩せた少女が毛布に包まって座っていた。年の頃は十二、三歳ほどだろうか。くすんだ金髪は乱れ、手首には薄い痣が残っている。
少女はオルフェリアの姿を見るなり、怯えたように身を縮めた。
「……誰?」
「オルフェリア・フォン・ヴァレンシュタインと申します」
オルフェリアは寝台から少し離れた椅子に腰を下ろした。
「こちらの救護院を支援している者ですわ」
少女は何も答えなかった。ただ、彼女の衣服をじっと見つめている。
「……貴族?」
「ええ」
「……じゃあ、帰って」
その言葉に、マルタが慌てて口を開いた。
「こら、何てことを……!」
「構いませんわ」
オルフェリアは片手を上げ、院長を制した。
「知らない大人が突然訪ねてきたのですもの。警戒するのも当然でしょう」
少女は少し驚いたように顔を上げた。
「……怒らないの?」
「怒ってほしいの?」
「……別に」
「でしたら、怒りませんわ」
オルフェリアは穏やかに微笑んだ。
「ただ、ひとつだけ教えていただけるかしら」
少女は黙っていた。
「あなた、その手首の痣はどうなさったの?」
少女の顔色が変わった。
咄嗟に毛布の中へ手を隠し、俯いてしまう。
「……転んだだけ」
「そう」
オルフェリアはそれ以上追及しなかった。
代わりに、持参した籠から小さな包みを取り出した。
「では、お菓子でもいかが?」
少女は怪訝そうに顔を上げた。
「……お菓子?」
「ええ。蜂蜜入りの焼き菓子ですわ。こちらの院長先生が甘いものをお好きだと伺っておりますので、少し多めに持ってきたの」
マルタは困ったように笑った。
「まあ、お嬢様ったら……」
少女はしばらく迷っていたが、やがて小さく手を伸ばした。
その指先は、微かに震えていた。
救護院を出る頃には、空が薄く曇り始めていた。
オルフェリアは馬車へ向かいながら、マルタに尋ねた。
「その子は、どこで見つかったの?」
「昨夜、南門の近くで倒れていたそうです。通りがかった商人が運んでくださったのですが……」
「身元を示すものは?」
「何も。ただ、服の内側に、妙な刺繍がございました」
マルタは懐から小さな布切れを取り出した。
それは、少女が着ていた衣服の裏地の一部らしい。淡い生成り色の布に、濃い緑の糸で小さな模様が縫い込まれていた。
オルフェリアはそれを受け取った。
そして、僅かに目を細めた。
蔓草を絡ませたような、不思議な意匠。
昨日、アルヴィスから見せられた古い記録に押されていた印と、よく似ていた。
「……これは」
「何か、ご存じなのですか?」
オルフェリアはすぐには答えなかった。
布地を指先でそっと広げ、刺繍の形を確かめる。
三枚の葉を持つ蔓草。その中央に、小さな輪のような模様。
間違いない。
同じ意匠だった。
「……マルタ院長」
オルフェリアは静かに顔を上げた。
「その子のことは、しばらく誰にもお話しにならないでくださいませ」
「え……?」
「特に、王宮の関係者には」
マルタの表情が強張った。
「お嬢様、それは一体……」
「まだ、何とも申し上げられませんわ。ただ、念のためです」
オルフェリアは布切れを丁寧に折り畳み、手袋の内側へしまった。
「必要な費用はこちらで負担いたします。食事も薬も、不自由のないようにしてあげてください」
「……かしこまりました」
マルタは深く頭を下げた。
オルフェリアは馬車へ乗り込んだ。
扉が閉まると、外の喧騒が遠ざかり、車内には静けさが戻った。
向かいに座るマリアンヌが、不安そうに主人を見つめている。
「お嬢様……あの模様は、何なのでしょうか」
「さあ」
オルフェリアは窓の外へ視線を向けた。
「わたくしにも、まだ分からないわ」
けれど、ひとつだけ確かなことがあった。
あの少女は、何かから逃げてきたのだ。
そして、その何かは、王家の古い記録と無関係ではないのかもしれない。
その日の夕刻、王宮では一通の報告書が届けられていた。
王太子レオナルトの執務室。
窓の外には、沈みかけた夕日が王都の屋根を赤く染めている。
レオナルトは机に広げられた書類を見下ろし、険しい顔をしていた。
「……どういうことだ」
向かいに立つ側近が、慎重に答えた。
「申し訳ございません、殿下。昨夜の件につきまして、ヴァレンシュタイン公爵家から正式な抗議が届いております」
「そんなことは分かっている!」
レオナルトは書類を机に叩きつけた。
「何故、父上まで私を呼び出そうとしているのだ!」
「……国王陛下は、婚約破棄の手続きについて、事前にご相談がなかったことを問題視されております」
「私は王太子だぞ。自分の婚約くらい、自分で決められる!」
側近は何も答えなかった。
レオナルトは苛立たしげに立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
「……オルフェリアは、何と言っている」
「公爵令嬢からは、まだ何のご返答もございません」
「何?」
「本日お送りしたお手紙についても、現在のところ……」
レオナルトは眉をひそめた。
昨夜、あれほど堂々と婚約破棄を受け入れた女が、今になって返事すら寄越さない。
何を考えているのか、まるで分からなかった。
「……相変わらず、可愛げのない女だ」
小さく吐き捨てると、側近が躊躇いがちに口を開いた。
「殿下。もうひとつ、ご報告がございます」
「何だ」
「……昨夜、南門の警備隊から連絡がありまして」
レオナルトは振り返った。
「南門?」
「はい。王宮の管理下にある施設から、ひとりの少女が逃亡した可能性があるとのことです」
レオナルトの表情が変わった。
「……何故、それを今になって報告する」
「申し訳ございません。昨夜は夜会の対応に追われておりまして……」
「馬鹿者!」
レオナルトは声を荒げた。
側近は慌てて頭を下げた。
「す、すぐに捜索を……」
「いや」
レオナルトは、そこで言葉を止めた。
しばらく考え込んだ後、低い声で続けた。
「……この件は、私が預かる」
「殿下?」
「余計な者に知らせるな。特に、父上には」
側近は困惑した表情を浮かべたが、結局何も言わずに頷いた。
レオナルトは窓の外へ視線を戻した。
夕日はすでに沈みかけ、王都の街並みには長い影が落ちている。
彼は知らなかった。
その少女が、すでにヴァレンシュタイン公爵令嬢と出会っていることを。
そして、その出会いが、やがて王家の秘密を揺るがすことになるということを。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
物語はまだまだ続きますので、次回も楽しみにしていただけたら嬉しいです!
面白いと思っていただけましたら、ブックマークや★で応援していただけると励みになります!




