第3話 悪女の朝は忙しい
婚約を破棄された翌朝、オルフェリア・フォン・ヴァレンシュタインは、いつもより一時間遅く目を覚ました。
薄絹の天蓋を透かして差し込む朝日は、磨き上げられた家具の縁を淡く照らし、窓辺に飾られた白薔薇の花弁に柔らかな影を落としていた。開け放たれた窓からは庭園の小鳥の声が聞こえ、遠くでは使用人たちが忙しなく行き交う足音がする。
随分と穏やかな朝である。
少なくとも、部屋の外で何度も行ったり来たりしている侍女の足音さえなければ。
「マリアンヌ」
寝台の上で身を起こしながら呼びかけると、扉の向こうから慌てた返事が聞こえた。
「は、はい! お嬢様!」
「先ほどから廊下を往復していらっしゃるようだけれど、何かお探し物でも?」
「い、いいえ! そのようなことは……!」
「でしたら、お入りになって。わたくしもそろそろ起きようと思っていたところよ」
扉が開くと、マリアンヌが銀の盆を手に入ってきた。
盆には温かな紅茶と、蜂蜜を添えた小さな焼き菓子が載っている。普段なら朝食の前に菓子を出すことなどないのだが、どうやら今日は特別らしい。
「おはようございます、お嬢様。お加減はいかがでしょうか」
「ええ、よく眠れたわ。あなたは?」
「わ、私は……」
マリアンヌは言葉を濁した。
その目元には、薄く隈ができている。
オルフェリアはしばらく彼女を眺めてから、紅茶を受け取った。
「昨夜は眠れなかったのね」
「……申し訳ございません」
「謝ることではないでしょう。ただ、今日は少し休憩を長めに取ってちょうだい。眠そうな顔で髪を結われたら、わたくしまで眠くなってしまうわ」
冗談めかして言うと、マリアンヌはようやく小さく笑った。
けれど、その笑顔はすぐに曇った。
「お嬢様……本当に、よろしいのでしょうか」
「何が?」
「昨日のことです。殿下が、あのような……」
そこで言葉を詰まらせた侍女に、オルフェリアは静かに微笑んだ。
「わたくしが泣いていないことが、不思議?」
「……はい」
「そうね。十年間も婚約者だったのですもの。普通なら、もう少し悲しむべきなのかもしれないわ」
オルフェリアは紅茶の水面に目を落とした。
琥珀色の液体には、窓から差し込む光が小さく揺れている。
「けれど、あの方との婚約は、わたくしが望んで結んだものではなかったでしょう?」
「それは、そうでございますが……」
「だからといって、何も感じないわけではないのよ」
そう言って、彼女は小さく息を吐いた。
「ただ、悲しむより先に、考えなければならないことが多すぎるの」
王家との正式な協議。公爵家の名誉回復。婚約に伴って取り決められた数々の契約。そして、祖母が遺した古い記録。
昨夜の出来事は、終わりであると同時に、いくつもの面倒事の始まりでもあった。
「それに」
オルフェリアは焼き菓子を一つ摘まみ、少しだけ口元を緩めた。
「朝から泣いていては、せっかくのお菓子が美味しくなくなってしまうでしょう?」
マリアンヌは困ったように笑った。
「……お嬢様らしいです」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
*
朝食を終える頃には、公爵邸の玄関はすっかり騒がしくなっていた。
王宮からの使者が一人。親交のある貴族家からの書簡が七通。さらに、昨夜の出来事について事情を尋ねたいという訪問客が三組。
そのすべてを執事長が丁重に断っていると聞き、オルフェリアは思わず感心した。
「まあ。皆様、随分とお早いこと」
「お嬢様、感心なさっている場合ではございません」
書斎へ向かう廊下で、兄のエドガーが険しい顔をして待っていた。
銀色の髪と薄紫の瞳は妹とよく似ているが、表情の柔らかさという点では、兄妹の間に随分と差がある。
もっとも、今朝のエドガーに限っては、普段よりもさらに不機嫌そうであった。
「お兄様。おはようございます」
「……よく眠れたか」
「ええ。おかげさまで」
「そうか。それは何よりだ」
エドガーは一度頷いた。
それから、低い声で続けた。
「ところで、あの王太子を一発殴っても構わないだろうか」
「構いませんわよ」
「……本当か?」
「ええ。ただし、殴った後の処理はご自分でなさってくださいませ。わたくし、今は少々忙しいものですから」
エドガーはしばらく妹を見つめた。
そして、深いため息をついた。
「お前は本当に、昔から変わらないな」
「あら。お兄様こそ、昔から随分と短気でいらっしゃるわ」
「誰のせいだと思っている」
「さあ?」
オルフェリアは小さく笑った。
エドガーはそれ以上何も言わず、妹の頭にそっと手を置いた。
その手は大きく、少しだけ温かかった。
「……無理をするなよ」
「ええ。ありがとう、お兄様」
今度は、素直に答えた。
*
午後になると、約束どおりアルヴィス・フォン・ローゼンハイムが公爵邸を訪れた。
通されたのは、前回と同じ青の客間である。
窓辺には季節の花が飾られ、丸い卓の上には銀の茶器と焼きたての菓子が用意されていた。
アルヴィスが入室すると、オルフェリアは読んでいた本を閉じ、穏やかに微笑んだ。
「ごきげんよう、ローゼンハイム様。昨日はお引き留めしてしまって、申し訳ございませんでした」
「いいえ。こちらこそ、あのような場でお声をかけてしまい、失礼いたしました」
アルヴィスは一礼し、勧められた椅子に腰を下ろした。
彼は今日も、濃紺の上着に控えめな銀の装飾を施した服装をしていた。王立文書院の職員としては少々上等すぎる仕立てであるが、侯爵家の次男であることを思えば、不自然というほどでもない。
「お茶はいかが?」
「いただきます」
オルフェリアは侍女に目配せした。
紅茶が注がれる間、二人はしばらく他愛のない話を交わした。
天候のこと。王宮の庭園で咲き始めた薔薇のこと。最近、王立文書院に寄贈された古い地図のこと。
しかし、侍女が退出すると、アルヴィスは静かに茶杯を置いた。
「……昨日の件について、お話ししてもよろしいでしょうか」
「ええ。もちろん」
オルフェリアは微笑んだ。
「わたくしも、楽しみにしておりましたの」
アルヴィスは懐から薄い封筒を取り出した。
中には、古びた書類の写しが数枚収められている。
「こちらが、昨日お話しした記録です」
オルフェリアは差し出された紙を受け取った。
書類には、二十年前の日付が記されていた。
当時の王弟と、エレオノーラ・フォン・ラウレンツの婚約解消に関する記録である。
「……確かに、婚約解消の理由が書かれておりませんわね」
「ええ」
アルヴィスは頷いた。
「通常、王族の婚約を解消する際には、理由と承認者が明記されます。しかし、この書類にはその欄が空白のまま残されています」
「では、正式な記録ではない可能性も?」
「その可能性はあります。ただ、王家の印章と、当時の宮内長官の署名が確認できました」
オルフェリアは紙面に目を落とした。
確かに、下部には王家の紋章が押されている。
しかし、その隣にある小さな印に、彼女の視線が止まった。
蔓草を絡ませたような、不思議な意匠。
どこかで見たことがある。
「……ローゼンハイム様」
「はい」
「この印は、何を意味するものなのでしょう?」
アルヴィスは、彼女が指し示した箇所を見た。
その瞬間、彼の表情が僅かに変わった。
「……ご存じないのですか?」
「ええ。王家の紋章ではありませんわね」
「そうですね。少なくとも、現在使用されている公的な印章ではありません」
アルヴィスは一度言葉を切った。
「ただ、過去の記録を調べていると、時折この印が現れるのです」
「どのような記録に?」
「王族の婚姻に関するものです」
オルフェリアは静かに目を細めた。
「……婚姻?」
「正確には、婚約の解消に関する記録です」
部屋の中に、短い沈黙が落ちた。
窓の外では、風に揺れた木々の葉が柔らかな音を立てている。
オルフェリアは再び紙面へ視線を落とした。
祖母の遺した革表紙の帳面。
そこに記されていた、幾人もの令嬢たちの名前。
そして、彼女たちに共通していた、奇妙な蔓草の印。
「……なるほど」
オルフェリアは小さく呟いた。
アルヴィスは、そんな彼女をじっと見つめていた。
「何か、お心当たりが?」
「いいえ。ただ、少々興味深いと思いまして」
オルフェリアは微笑んだ。
「王家の婚約解消に、わざわざ特別な印を用いる必要があるのでしょうか」
「それを、私も調べているところです」
アルヴィスは静かに答えた。
「ただ、ひとつ分かっていることがあります」
「何でしょう?」
「この印が押された記録に登場する令嬢たちは、その後、いずれも社交界から姿を消しています」
オルフェリアの指先が、紙の端で止まった。
「……全員、ですか?」
「確認できた範囲では」
アルヴィスは頷いた。
「婚約を解消された後、地方へ移った者。修道院へ入った者。病死したと記録されている者。事情はそれぞれ異なりますが、共通しているのは、王都の社交界に戻っていないという点です」
オルフェリアは、しばらく何も言わなかった。
祖母の帳面に記されていた名前が、ひとつずつ脳裏をよぎる。
あれは、単なる噂話の記録ではなかったのかもしれない。
「……ローゼンハイム様」
「はい」
「ひとつ、お尋ねしてもよろしくて?」
「もちろんです」
オルフェリアは、ゆっくりと顔を上げた。
「あなたは、何故このようなことを調べていらっしゃるの?」
アルヴィスはすぐには答えなかった。
窓の外へ一度視線を向け、それから彼女を見つめ直した。
「……私の家にも、似たような話が残っているのです」
「ローゼンハイム侯爵家に?」
「ええ。祖父の姉にあたる女性が、かつて王族との婚約を解消されています」
オルフェリアは驚いたように瞬きをした。
「まあ……」
「その方は、婚約解消の後、病気療養を理由に領地へ移ったとされています。しかし、家に残された手紙には、少々不自然な点がありまして」
「不自然な点?」
「領地へ移った後に書かれたはずの手紙が、すべて王都から発送されていたのです」
オルフェリアは黙って彼を見つめた。
アルヴィスの表情は変わらなかった。
しかし、その灰銀色の瞳には、先ほどまでとは異なる静かな鋭さが宿っていた。
「……それは、確かに妙なお話ですわね」
「ええ」
彼は頷いた。
「ですから、調べ始めました。最初は、ただの家族の疑問だったのですが……」
「思いのほか、大きな問題に行き着いてしまった?」
「そのようです」
アルヴィスは苦笑した。
オルフェリアも、小さく笑った。
けれど、胸の奥には冷たいものが残っていた。
王家の婚約を解消された令嬢たち。
彼女たちに共通する、蔓草の印。
そして、昨夜の自分。
偶然と片づけるには、あまりにも似通っている。
「ローゼンハイム様」
オルフェリアは静かに口を開いた。
「もし、わたくしの祖母が、この件について何か知っていたとしたら……」
アルヴィスが顔を上げた。
「お話しいただけるのですか?」
「まだ、何とも申し上げられませんわ」
オルフェリアは微笑んだ。
「ただ、祖母の遺品の中に、少々気になるものがございますの」
アルヴィスの表情が変わった。
「それは……」
「申し訳ございませんが、今すぐにお見せすることはできません。父の許可も必要ですし、わたくし自身、もう一度確かめたいことがございますので」
「……承知しました」
アルヴィスは静かに頷いた。
「無理にお尋ねするつもりはありません」
「ありがとうございます」
オルフェリアは茶杯を手に取った。
紅茶は、すっかり冷めていた。
「それにしても、ローゼンハイム様」
「はい」
「あなた、随分と危険なことをなさっているのね」
アルヴィスは少し驚いたように瞬きをした。
「そう見えますか?」
「ええ。王家の古い秘密を調べているのでしょう? もし本当に何か隠されているのだとしたら、調べているあなたが歓迎されるとは思えませんもの」
「……ごもっともです」
アルヴィスは小さく笑った。
「ですが、今さら引き返すのも難しいでしょうね」
「まあ。困った方」
オルフェリアは呆れたように息を吐いた。
「せめて、ご自分の身は大切になさってくださいませ」
「ご心配いただけるとは、光栄です」
「勘違いなさらないで。せっかく面白いお話を持ってきてくださる方がいなくなっては、困りますもの」
アルヴィスは一瞬だけ目を見開いた。
それから、堪えきれないように笑った。
「……なるほど。では、今後も退屈させないよう努めましょう」
「ええ。期待しておりますわ」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
けれど、その穏やかな時間は長く続かなかった。
客間の扉が、控えめに叩かれたのである。
「お嬢様」
マリアンヌの声だった。
「どうしたの?」
「……王宮より、使者がお見えになっております」
オルフェリアは茶杯を置いた。
「まあ。今朝もいらしていたのではなくて?」
「はい。ですが、今回は……」
マリアンヌは言葉を詰まらせた。
「……王太子殿下から、直接のお手紙をお預かりしているそうです」
部屋の空気が、僅かに変わった。
オルフェリアは静かに目を細めた。
昨夜、あれほど大勢の前で婚約破棄を宣言したばかりだというのに、今度は何の用事だろう。
「……分かったわ。こちらへお持ちになって」
「かしこまりました」
マリアンヌが退出すると、オルフェリアはアルヴィスへ視線を戻した。
「申し訳ございません。少々、騒がしくなってしまいましたわね」
「いいえ。お気になさらず」
アルヴィスは静かに答えた。
しかし、その表情には僅かな警戒が浮かんでいた。
やがて、侍女が銀の盆に載せた封書を運んできた。
白い封筒には、王太子の紋章が押されている。
オルフェリアはそれを受け取り、封を切った。
中には、短い手紙が一枚。
彼女は目を通した。
そして、しばらく沈黙した後、ゆっくりと微笑んだ。
「……まあ」
その声には、僅かな呆れが混じっていた。
「殿下ったら、随分とお忙しいこと」
「……何と書かれていたのですか?」
アルヴィスが尋ねた。
オルフェリアは手紙を丁寧に折り畳んだ。
「昨夜の婚約破棄について、改めてお話がしたいそうですわ」
「……それは」
「ええ。わたくしも驚いておりますの」
オルフェリアは小さく笑った。
「まさか、たった一晩でお気持ちが変わるとは思いませんでしたもの」
アルヴィスは何も言わなかった。
ただ、その手紙を見つめていた。
そして、彼の胸には、ひとつの疑念が浮かんでいた。
昨夜の婚約破棄。
今朝の王宮からの使者。
そして、王立文書院に残された古い記録。
それらは、本当に偶然なのだろうか。
窓の外では、初夏の風が庭園の薔薇を揺らしていた。
オルフェリアは、何事もなかったかのように新しい紅茶を注がせた。
けれど、彼女の知らないところで、王宮ではすでに次の動きが始まっていた。
婚約破棄は、まだ終わっていなかったのである。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
新たな出会いを迎えたオルフェリア。これからの展開も楽しみにしていただけたら嬉しいです!
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