第2話 王太子殿下のご決断
王宮から届いた招待状には、初夏の訪れを祝う夜会と記されていた。
もっとも、ヴァレンシュタイン公爵家では、その文面を額面どおりに受け取った者はほとんどいなかった。王太子レオナルトがベルフォール伯爵令嬢にご執心であることは、すでに社交界の公然の秘密となっていたし、わざわざ婚約者であるオルフェリアを名指しで招待する以上、何かしらの発表があるのではないかと考えるのが自然であった。
それでもオルフェリアは、当日の朝まで普段と変わらぬ生活を送っていた。
午前中は家庭教師と王国史の復習をし、昼食の後には公爵家の帳簿に目を通し、午後は庭園でイザベルと茶を飲んだ。王宮へ向かう支度を始めたのも、いつもと同じ夕刻のことである。
「お嬢様、本当にこちらのお衣装でよろしいのでしょうか」
衣装室でドレスを広げながら、専属侍女のマリアンヌが心配そうに尋ねた。
今夜のためにオルフェリアが選んだのは、深い葡萄酒色の絹地に銀糸の刺繍を施したドレスであった。胸元には細かな真珠が縫い込まれ、裾には幾重にも薄いレースが重ねられている。決して派手すぎるものではないが、王太子の婚約者として出席するには申し分のない装いであった。
「ええ。何かおかしなところがあって?」
「いいえ、とんでもございません。ただ、今夜はその……」
「婚約を破棄されるかもしれないから、もう少し控えめな装いにした方がよいと?」
マリアンヌは返事に詰まった。
オルフェリアは鏡越しにその様子を眺め、ふっと笑った。
「まあ、あなたまでそんなお顔をするのね。まだ何も決まっておりませんのよ。それに、王宮の夜会に招かれているのですもの。相応の装いをするのが礼儀というものでしょう?」
「……かしこまりました」
「それから、髪飾りは王家からいただいたものではなく、祖母の真珠を使ってちょうだい」
マリアンヌは少し驚いたように顔を上げたが、すぐに頷いた。
婚約が解消された場合、王家から贈られた品々の扱いについては改めて協議する必要がある。返還を求められるかどうかは契約の内容によるものの、今夜のような場にわざわざ身につけていく必要もないだろう。
もっとも、オルフェリアがそこまで考えて選んだのか、それとも単に祖母の真珠が気に入っていただけなのか、マリアンヌには分からなかった。
支度が整う頃には、窓の外がすっかり茜色に染まっていた。
鏡の前に立ったオルフェリアは、ドレスの裾を軽く持ち上げて一度だけ姿勢を確かめると、満足そうに頷いた。
「ええ、これでよろしいわ。では、参りましょうか」
王宮の大広間は、すでに多くの招待客で賑わっていた。
天井から吊り下げられた水晶の燭台には幾百もの灯がともり、壁際には白薔薇と青いデルフィニウムが惜しげもなく飾られている。楽団の奏でる優雅な舞曲に合わせて、色とりどりのドレスが大理石の床を滑るように行き交っていた。
しかし、華やかな光景とは裏腹に、広間にはどこか落ち着かない空気が漂っていた。
ヴァレンシュタイン公爵家の到着が告げられると、入口近くにいた貴族たちの会話が不自然に途切れた。
オルフェリアは父の腕に手を添え、いつもどおりの微笑を浮かべて入場した。
「まあ、ヴァレンシュタイン公爵令嬢ですわ」
「今夜もお美しいこと。けれど、あの噂は本当なのかしら」
「殿下は先ほどからベルフォール伯爵令嬢とご一緒ですわよ。婚約者の方には、一度もお声をかけていらっしゃらないとか……」
囁き声は、彼女が近づくとぴたりと止んだ。
オルフェリアは何も聞こえなかったふりをして、近くの貴婦人に微笑みかけた。
噂話など、今さら珍しくもない。だが、これほど露骨に視線を向けられるのは久しぶりだった。
「オルフェリア」
隣を歩く父が、低い声で呼びかけた。
「はい、お父様」
「何かあれば、すぐに私のところへ来なさい」
「まあ。わたくし、もう子供ではございませんわ」
「そういう問題ではない」
公爵は険しい顔をしていた。
昨夜も今朝も、王宮から婚約についての正式な説明は届いていない。国王との面会を求めても、政務が立て込んでいるとの理由で先延ばしにされていた。
王家が何を考えているのか分からない。その事実が、公爵の不安をいっそう大きくしていた。
「ご心配なさらないで。何かございましたら、きちんとご相談いたしますわ」
「……約束だぞ」
「ええ、もちろん」
そう答えると、公爵はようやく娘の手を離し、知己の貴族たちが集まる一角へと向かっていった。
オルフェリアはその後ろ姿を見送り、近くの給仕から果実水の入った杯を受け取った。
「オルフェリア!」
振り向けば、淡い若草色のドレスを纏ったイザベルが、扇を片手にこちらへ歩いてくるところであった。
「まあ、イザベル。今夜も素敵な装いですこと」
「ありがとう。あなたも相変わらず綺麗ね。……それにしても、本当に来たのね」
「あら、招待されておりますもの」
「そういう意味じゃないわよ」
イザベルは呆れたように息を吐いた。
「殿下が何をなさるおつもりか、あなたも薄々分かっているのでしょう?」
「ええ。ですから、きちんとお話を伺おうと思って」
「あなたって、本当に……」
そこでイザベルは言葉を切り、広間の奥へ視線を向けた。
王族のために設けられた壇の近くには、レオナルトが数名の側近とともに立っていた。その傍らには、淡い桃色のドレスを着たセレスティーヌの姿もある。
彼女は王太子から何かを囁かれ、頬を染めながら微笑んでいた。
「……随分と仲がよろしいこと」
イザベルが小さく呟いた。
「そうね」
「腹が立たないの?」
「何故?」
「何故って、あなたの婚約者でしょう!」
思わず声を大きくしたイザベルに、近くの貴婦人がちらりと視線を向けた。
オルフェリアは扇を開き、口元を隠した。
「イザベル、もう少しお声を抑えて。皆様が驚いてしまいますわ」
「誰のせいだと思っているのよ……」
イザベルは肩を落とした。
その様子がおかしくて、オルフェリアは小さく笑った。
しかし、その笑みが消えるより先に、広間の空気が変わった。
楽団の演奏が、不意に途切れたのである。
指揮者が楽器を下ろし、奏者たちが一斉に席を立つ。何事かと振り返った貴族たちは、広間の中央へ向かう王太子の姿を認め、慌てて道を開けた。
レオナルトの後ろには、セレスティーヌと数名の側近が続いている。
そのうちの一人が、王宮の侍従に何かを告げた。侍従は困惑した表情を浮かべたものの、結局何も言わずに下がった。
オルフェリアは静かに杯を置いた。
王族の発言に先立って、音楽を止める。
広間の全員に聞かせるつもりなのだ。
「……オルフェリア」
イザベルが、そっと彼女の腕に触れた。
「大丈夫よ」
そう答えた自分の声が、思いのほか小さかった。
「オルフェリア・フォン・ヴァレンシュタイン」
レオナルトが彼女の名を呼んだ。
その声はよく通り、広間の隅にいた者まで振り返らせた。
オルフェリアは一歩前へ進み、ドレスの裾を軽く持ち上げて礼を取った。
「ごきげんよう、殿下」
「君に、話がある」
「はい。何でございましょう?」
「ここにいる皆にも、聞いてもらいたいことだ」
周囲で小さなどよめきが起こった。
オルフェリアは顔を上げ、王太子を見つめた。
レオナルトの表情は硬い。緊張しているのか、それとも怒りを抑えているのか、普段の彼よりも随分と険しい顔をしていた。
「それは、わたくし個人に関わるお話でしょうか」
「そうだ」
「でしたら、別室でお伺いすることもできますけれど」
「必要ない」
即座に返された言葉に、オルフェリアは口を閉じた。
レオナルトは一度周囲を見回し、まるで自分の決意を確かめるように顎を上げた。
「私は本日をもって、君との婚約を破棄する」
広間が、静まり返った。
誰かが息を呑む音がした。少し離れた場所で、銀の杯が床に落ち、乾いた音を立てた。
だが、誰もそれを拾おうとはしなかった。
十年間続いた王太子と公爵令嬢の婚約。
それを、王太子自らが大勢の貴族の前で破棄すると宣言したのである。
オルフェリアは静かに息を吸った。
予想していた言葉だった。
それでも、実際に耳にすると、思っていたよりも重く響いた。
十年前、まだ七歳だった自分に婚約が告げられた日のことを、ふと思い出す。重たい礼装に身を包み、知らない大人たちに囲まれながら、王太子の隣に立った。
あの日から十年間、彼女は将来の王妃として教育を受けてきた。
その十年が、たった一言で終わろうとしている。
「……承知いたしました」
オルフェリアは静かに答えた。
レオナルトの眉が動いた。
「それだけか?」
「婚約の解消については、両家で正式な協議が必要になるかと存じます。父にもお話しいただけますでしょうか」
「君は、まだ自分の立場が分かっていないようだな」
その言い方に、オルフェリアは僅かに眉を上げた。
「と、おっしゃいますと?」
「これは、ただの婚約解消ではない。君の行いに対する、当然の処置だ」
ざわめきが広がった。
オルフェリアは、その言葉の意味をすぐに理解した。
婚約を解消するだけではない。
彼は、彼女に非があったことにするつもりなのだ。
「……殿下。恐れ入りますが、その理由をお聞かせいただけますか」
「君は、セレスティーヌ・ベルフォールに対して、繰り返し嫌がらせを行ってきただろう!」
レオナルトが声を張り上げた。
彼の後ろに控えていたセレスティーヌが、びくりと肩を震わせる。
「彼女を人前で侮辱し、善意を踏みにじり、身分を盾にして周囲の者を威圧した。王太子妃となるべき者が、そのような振る舞いをするなど看過できない!」
オルフェリアの背後で、貴婦人たちの囁きが重なった。
「まあ、やはり……」
「以前から気の強い方だとは伺っていましたけれど」
「殿下があそこまでおっしゃるのなら、何か証拠がおありなのでしょう」
証拠があるのかどうかを確かめる者は、まだ誰もいなかった。
王太子が口にしたというだけで、疑いはたちまち事実のような顔をして広がっていく。
オルフェリアは扇を持つ指に力を込めた。
彼女自身がどう思われようと、構わない。
しかし、公爵家の名誉まで傷つけられるとなれば、話は別だった。
「殿下」
オルフェリアは声を落とした。
「わたくしがベルフォール伯爵令嬢に嫌がらせをしたとおっしゃるのでしたら、具体的にどのような行為を指していらっしゃるのでしょうか」
「しらを切るつもりか!」
「いいえ。事実を確認したいだけでございます」
レオナルトは苛立ったように眉を寄せた。
「先日の茶会を忘れたとは言わせないぞ。君は、皿を割った侍女を大勢の前で叱責したそうだな。セレスティーヌが庇おうとしたにもかかわらず、冷たく突き放したと聞いている」
「……その件でございますか」
「やはり覚えているのだな!」
「ええ。もちろんですわ」
オルフェリアはセレスティーヌへ視線を移した。
彼女は王太子の袖を握りしめ、青ざめた顔で立っていた。
「ベルフォール伯爵令嬢。ひとつ、お尋ねしてもよろしくて?」
「……は、はい」
「あの日、わたくしが侍女に何と申し伝えたか、覚えていらっしゃいますか」
セレスティーヌは唇を噛んだ。
「……きちんと報告するように、と」
「ええ。そのとおりですわ」
オルフェリアは頷いた。
「王宮の備品が破損した場合、担当者への報告が必要です。それに、床に散らばった破片をそのままにしておけば、ほかの者が怪我をするかもしれません。ですから、給仕長へ報告し、安全に片づけるよう申し伝えました」
「だが、君の言い方が彼女を怯えさせたのだろう!」
「それは、申し訳ございません」
オルフェリアはあっさりと頭を下げた。
その反応に、レオナルトが一瞬たじろいだ。
「わたくしの言葉が厳しく聞こえたのでしたら、今後は気をつけますわ。ただ、報告を不要とすることはできません。破損の記録がなければ、備品の管理に支障が出ますもの」
「そんな些細なことを問題にしているのではない!」
「では、何を問題になさっているのでしょう?」
オルフェリアは静かに尋ねた。
その声は決して大きくなかったが、不思議と周囲によく響いた。
「わたくしの態度でしょうか。それとも、侍女への指示でしょうか。あるいは、ベルフォール伯爵令嬢のお気持ちを害したことでしょうか」
「君は……!」
「殿下。婚約破棄の理由として公にお示しになるのでしたら、そこは明確にしていただきたく存じます」
レオナルトの顔が赤くなった。
周囲の貴族たちも、次第に口を閉ざしていく。
彼女が何を求めているのか、ようやく理解したのだ。
王太子は今、個人的な不満を述べているのではない。王国有数の公爵家の令嬢を、公衆の面前で断罪しようとしているのである。
そこには、相応の根拠が必要だった。
「……まだある」
レオナルトが低い声で言った。
「君は、セレスティーヌを王宮の茶会から遠ざけようとしただろう」
オルフェリアは目を細めた。
「……何のお話でしょう?」
「彼女が参加を希望した王妃主催の勉強会について、出席を認めなかったそうだな」
その瞬間、オルフェリアは思い出した。
三か月ほど前、王妃主催の勉強会にセレスティーヌが参加を希望したことがあった。
しかし、あれは王太子妃候補と王家に仕える高位貴族の令嬢を対象とした、非公開の講義である。参加者は王妃自らが選定しており、オルフェリアに招待権限などなかった。
「その件でしたら、わたくしには参加者を決める権限がございません。王妃陛下のご判断でございます」
「母上の名を出して責任を逃れるつもりか!」
レオナルトの声が鋭く響いた。
その場にいた貴族たちが、一斉に息を呑む。
王妃の判断に関わる話を、王太子が公の場で否定したのである。
オルフェリアは口を閉じた。
ここで王妃の名をさらに持ち出せば、王家の内部事情を衆目に晒すことになる。かといって黙っていれば、身に覚えのない罪を認めたように受け取られるかもしれない。
わずかな沈黙の間に、いくつもの視線が彼女へ集まった。
「……殿下」
オルフェリアは慎重に言葉を選んだ。
「その勉強会の参加者については、王宮に記録が残っているはずでございます。必要でしたら、正式な場でご確認いただければと存じます」
「もう十分だ!」
レオナルトが言い放った。
「君は何ひとつ認めようとしない。そうやって理屈を並べ、いつも周囲の者を言い負かしてきたのだろう!」
オルフェリアの胸の奥で、何かが冷たく沈んだ。
十年間、彼女は王太子の婚約者として学び続けてきた。
言葉を選ぶことも、感情を抑えることも、王家の名誉を守ることも、すべて必要な務めだと教えられてきた。
その務めを果たそうとすればするほど、今度は冷たい女だと責められる。
何とも都合のよい話である。
「レオナルト殿下」
不意に、広間の奥から低い声が響いた。
ヴァレンシュタイン公爵であった。
人々が道を開ける中、公爵はゆっくりと娘の隣へ歩み寄った。その表情には怒りが滲んでいたが、声は驚くほど落ち着いていた。
「娘に対するご指摘について、正式な証拠をご提示いただけますかな」
「公爵……」
「王太子殿下のお言葉であろうと、事実の確認は必要でございましょう。まして、娘は十年間、王家の求めに応じて教育を受けてまいりました。その名誉を傷つけるのであれば、相応の根拠をお示しいただきたい」
レオナルトは唇を引き結んだ。
「……私は、王太子だ」
「存じております」
公爵は一歩も引かなかった。
「だからこそ、お言葉には重みがございます」
広間が静まり返った。
誰もが、王太子の次の言葉を待っていた。
しかし、レオナルトは答えなかった。
代わりに、セレスティーヌの手を取った。
「……私は、彼女を愛している」
それは、先ほどまでの糾弾とはまったく異なる声だった。
「セレスティーヌは、身分に関係なく誰にでも優しく接する。人の痛みを理解し、私の気持ちにも寄り添ってくれる。私は、彼女とともに生きていきたい」
セレスティーヌの目に涙が浮かんだ。
「殿下……」
レオナルトは彼女の手を握りしめ、オルフェリアを見据えた。
「私は、君を愛していない。これ以上、愛のない婚約を続けるつもりはないのだ」
オルフェリアは、しばらく彼を見つめていた。
今までの言葉よりも、最後の一言の方が、ずっと分かりやすかった。
彼は、セレスティーヌを選びたいのだ。
そのために、オルフェリアを悪者にする必要があると思い込んでいた。
「……そうでございましたか」
オルフェリアはゆっくりと息を吐いた。
「でしたら、最初からそうおっしゃればよろしかったのに」
レオナルトが眉をひそめた。
「何だと?」
「殿下がわたくしを愛していらっしゃらないことくらい、存じておりますわ」
オルフェリアは穏やかに微笑んだ。
「わたくしたちの婚約は、王家とヴァレンシュタイン公爵家の間で結ばれたものでございます。そこに恋愛感情が必要であるとは、これまで一度も伺っておりませんでしたもの」
「それは……」
「もちろん、殿下が愛する方と結ばれたいとお望みになるお気持ちは、理解できます」
彼女は一度言葉を切った。
「ですが、そのためにわたくしを悪人に仕立て上げる必要はございませんでしょう?」
レオナルトは何も答えなかった。
セレスティーヌもまた、俯いたまま動かなかった。
オルフェリアは、ゆっくりと周囲を見渡した。
つい先ほどまで彼女の悪評を囁いていた貴族たちは、今では誰も口を開こうとしない。
それでも、一度広まった噂が簡単に消えることはないだろう。
王太子から公の場で非難されたという事実だけは、今夜の出来事として残り続ける。
オルフェリアは、そのことをよく理解していた。
「お父様」
隣に立つ公爵へ、静かに声をかけた。
「婚約の解消につきましては、正式な協議をお願いいたします」
「……分かった」
公爵は短く答えた。
それから、王太子へ向き直った。
「殿下。本日のご発言については、後日、王家へ正式に確認を求めさせていただきます」
レオナルトは何も言わなかった。
オルフェリアはドレスの裾を持ち上げ、優雅に膝を折った。
「それでは、殿下。十年間、お世話になりました」
顔を上げると、レオナルトが何か言いたげに彼女を見つめていた。
けれど、もう言葉を待つ必要はなかった。
「どうぞ、ベルフォール伯爵令嬢とお幸せに」
オルフェリアは静かに背を向けた。
広間の出口までの道が、ゆっくりと開かれていく。
貴族たちの視線が、彼女を追っていた。
同情、好奇心、疑念、そして僅かな敬意。
そのすべてを受け止めながら、オルフェリアは背筋を伸ばして歩いた。
足を止めるわけにはいかなかった。
今ここで振り返れば、何かを失ったことを認めるような気がしたからだ。
広間を出たところで、イザベルが追いついてきた。
「オルフェリア!」
「まあ、イザベル。どうなさったの?」
「どうなさったの、じゃないわよ! あなた、本当に大丈夫なの?」
オルフェリアは答えようとして、少しだけ言葉に詰まった。
大丈夫か、と尋ねられると、案外難しい。
悲しいわけではなかった。
レオナルトに恋をしていたわけでもない。
けれど、十年間続けてきたことが、あれほど簡単に終わってしまったのだ。
何も感じないと言えば、嘘になるだろう。
「……そうね」
オルフェリアは少し考えてから、微笑んだ。
「少なくとも、今夜はよく眠れそうですわ」
イザベルは泣きそうな顔になった。
「あなたって、本当に意地っ張りね」
「あら。今頃お気づきになったの?」
「そういうところよ!」
二人は顔を見合わせ、思わず小さく笑った。
そのとき、背後から落ち着いた男の声がした。
「お待ちください、ヴァレンシュタイン公爵令嬢」
振り向けば、王立文書院の制服を着た青年が立っていた。
アルヴィス・フォン・ローゼンハイム。
数日前、公爵邸を訪ねてきた青年である。
「まあ、ローゼンハイム様」
オルフェリアは少し驚いたように瞬きをした。
「今夜はお仕事でいらして?」
「ええ。少々、確認しなければならないことがございまして」
アルヴィスは静かに一礼した。
「先日の件について、お話がございます」
「祖母の遺品のことでしょうか?」
「それもございますが……」
彼は一度言葉を切り、周囲に視線を走らせた。
それから、オルフェリアにだけ聞こえるほどの小さな声で続けた。
「本日、王立文書院に新たな記録が届けられました」
「記録?」
「はい。二十年前、ラウレンツ伯爵夫人が婚約を解消された際のものです」
オルフェリアは静かに目を細めた。
「まあ。それは、随分と古いものが見つかりましたのね」
「ええ。ただ、少々妙なことがございまして」
アルヴィスは、彼女の顔をじっと見つめた。
「その記録には、婚約解消の理由が記されておりませんでした」
「……そうですの」
「代わりに、別のことが書かれていたのです」
オルフェリアは、彼の次の言葉を待った。
アルヴィスは声を落とした。
「伯爵夫人の婚約解消は、王家の命令によって、あらかじめ決定されていたと」
オルフェリアの表情が、ほんの僅かに変わった。
それは、驚きというよりも、何かを確かめたときのような表情であった。
「……なるほど」
彼女は小さく呟いた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「それは、興味深いお話ですわね」
アルヴィスは、その微笑みを見つめていた。
先ほどまで王太子から婚約破棄を言い渡されていた令嬢が、今は二十年前の記録について、まるで新しい菓子の話でも聞くかのように穏やかに笑っている。
彼女が何を考えているのか、やはり分からなかった。
「ローゼンハイム様」
「はい」
「そのお話、もう少し詳しく伺ってもよろしくて?」
「もちろんです」
「では、明日の午後にでも我が家へいらしてくださいませ。お茶をご用意いたしますわ」
オルフェリアはそう言って、優雅に微笑んだ。
「今夜は少々、疲れてしまいましたので」
アルヴィスは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに小さく笑った。
「承知いたしました。では、明日お伺いいたします」
「ええ。お待ちしておりますわ」
そうして、オルフェリアは今度こそ広間を後にした。
王太子との婚約が解消された夜。
王国中の貴族たちが彼女の不幸を噂する中で、当の本人は、帰りの馬車で翌日の茶会に出す菓子について考えていた。
もっとも、彼女が明日迎えることになる客人は、単なる菓子の好みを語り合うために訪れるわけではない。
王立文書院に残された古い記録と、祖母の遺品。
その二つが結びついたとき、オルフェリアは、王家が長年隠し続けてきたある事実に近づくことになる。
そして、その事実は、彼女自身の婚約が破棄された理由とも、決して無関係ではなかったのである。
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