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第1話 王立文書院からの客人



王太子殿下との婚約が破棄されるらしい。


そんな噂がヴァレンシュタイン公爵邸の使用人たちの間に広まったのは、王宮から書簡が届いた翌朝のことであった。


もっとも、噂の出所は王宮に勤める親類から話を聞いたという厨房の下働きであったし、書簡にも婚約破棄について明確な記述があったわけではない。したがって、現時点ではあくまでも憶測に過ぎなかったのだが、噂というものは、事実であるかどうかよりも人々の興味を引くかどうかによって広まるものである。


そのため、朝食の席に着いたオルフェリアの前に、普段より幾分豪華な料理が並べられたことも、決して偶然ではなかった。


「まあ、今日は随分と賑やかな朝食ですのね」


銀の皿には焼きたての白パンが三種類、蜂蜜を塗って香ばしく焼き上げた林檎の薄切り、それに半熟卵と仔牛肉の煮込みまで添えられている。普段の朝食も十分に贅沢なものではあったけれど、これではまるで誕生日か何かのお祝いである。


「料理長が、お嬢様にぜひ召し上がっていただきたいと申しまして」


専属侍女のマリアンヌは、そう答えながら少々気まずそうに目を伏せた。


「あら、そうなの。では、後でお礼を伝えてちょうだい」


「かしこまりました」


「それから、料理長には今後このような気遣いは不要だと申し伝えて。わたくし、朝からこれほどたくさんはいただけませんもの」


オルフェリアはそう言って、林檎の薄切りを一枚口に運んだ。


 程よい酸味と蜂蜜の甘さが口の中に広がり、思わず頬が緩む。厨房の者たちが何を心配しているのかは知らないが、料理そのものに罪はない。結局、林檎だけはもう一枚いただくことにした。


「ところで、マリアンヌ」


「はい、お嬢様」


「今朝から皆、随分とわたくしの顔色を窺っているようだけれど、何かございましたの?」


マリアンヌの肩がぴくりと跳ねた。


「い、いいえ。そのようなことは……」


「そう。では、わたくしの気のせいですわね」


それ以上追及することもなく、オルフェリアは紅茶を口に含んだ。


王太子との婚約について、使用人たちが何かしらの噂を耳にしていることくらい、彼女にも分かっていた。昨日の茶会での出来事を考えれば、むしろ今まで何も聞こえてこなかった方が不思議なくらいである。


ただ、正式な通達もないうちから屋敷中が騒ぎ立てるのは感心しない。まして、公爵家の使用人が主人の私事を憶測で語るなど、褒められた振る舞いではなかった。


「マリアンヌ、食後に家令を呼んでちょうだい」


「家令を、でございますか?」


「ええ。使用人の間で随分と楽しそうなお話が流行っているようですから、わたくしも少し聞いてみたくなりましたの」


にこりと微笑んだオルフェリアを見て、マリアンヌは顔色を変えた。


もっとも、当の本人はすでに次の白パンへと手を伸ばしており、侍女が何故それほど青ざめたのか、特に気に留める様子もなかった。


     


朝食を終え、私室で手紙の整理をしていたオルフェリアのもとに、思いがけない来客が告げられたのは、それから半刻ほど後のことであった。


「王立文書院より、ローゼンハイム侯爵家のアルヴィス様がお見えになっております」


家令の報告に、オルフェリアは手を止めた。


「ローゼンハイム侯爵家?」


「はい。旦那様宛てに王立文書院からの書類をお持ちになったとのことでございますが、旦那様は今朝早く王宮へお出かけになりましたので……」


「それで、わたくしに?」


「アルヴィス様が、可能であればお嬢様にもご挨拶を申し上げたいと」


オルフェリアは少し考えた。


ローゼンハイム侯爵家といえば、王国北部に広大な森林領を持つ古い家柄である。現侯爵は王国の財務に関わる役職を務めており、その次男が王立文書院に籍を置いていることは、以前どこかで耳にした覚えがあった。


もっとも、侯爵家の令息が文書院に勤めるというのは、少々珍しいことである。


王立文書院は、王家の勅令や貴族の系譜、土地の所有権などを記録する重要な機関ではあるものの、そこで働く者の大半は法学や歴史学を修めた官吏であった。侯爵家の次男ともなれば、軍や宮廷でそれなりの地位を得ることも難しくないはずである。


「そうね。お父様へのご用件でしたら、無下にお帰しするわけにもまいりませんわ。青の客間へお通しして」


「かしこまりました」


「それから、お茶は東方のものを。昨日いただいた焼き菓子がまだ残っていたでしょう?」


「はい。すぐにご用意いたします」


家令が退出すると、オルフェリアは机の上に広げていた書類を揃え、引き出しへとしまった。


その中には、昨夜取り出した古い帳面も含まれていた。


祖母が残したその帳面については、まだ誰にも話していない。


もちろん、父にもである。


オルフェリアは引き出しに鍵をかけると、鏡台の前で軽く髪を整え、客間へ向かった。


青の客間は、ヴァレンシュタイン公爵邸の西翼にある小さな応接室である。壁には淡い青色の絹布が張られ、窓辺には季節の花が飾られていた。公式な賓客を迎える大広間とは異なり、親しい客人や家族ぐるみの付き合いがある貴族を招く際に用いられる部屋であった。


その中央に、一人の青年が立っていた。


黒に近い藍色の髪を後ろへ流し、灰銀色の瞳をした、背の高い青年である。身につけているのは文書院の官吏が着用する濃紺の上着で、胸元にはローゼンハイム侯爵家の紋章を象った銀の留め具が光っていた。


オルフェリアが入室すると、青年はすぐに姿勢を正した。


「お初にお目にかかります。ローゼンハイム侯爵家次男、アルヴィスと申します」


「ヴァレンシュタイン公爵家のオルフェリアですわ。本日は父が不在とのことで、申し訳ございません」


「いえ。こちらこそ、先触れもなくお邪魔してしまい、失礼いたしました」


丁寧な挨拶を交わした後、二人は向かい合って腰を下ろした。


アルヴィスは、見た目よりも落ち着いた青年であった。言葉遣いに無駄がなく、こちらの目を見て話すものの、不必要に愛想を振りまくこともない。


オルフェリアは、こういう人物は嫌いではなかった。


少なくとも、昨日の茶会で出会った令嬢たちのように、言いたいことを言わずに遠回しな質問を重ねる相手よりは、よほど話しやすそうである。


「本日は、王立文書院に保管されております土地台帳の写しをお届けに参りました。先日、公爵閣下より閲覧の申請がございましたので」


アルヴィスは革製の書類鞄から封筒を取り出した。


「北部街道沿いの土地について、所有権の確認をなさりたいとのことでした」


「まあ。わざわざ侯爵家のご令息がお持ちくださったの?」


「ちょうど近くまで参る用事がございましたので」


「そうでしたのね」


オルフェリアは封筒を受け取り、傍らに控える侍女へ渡した。


それから、運ばれてきた紅茶に角砂糖を一つ落とし、銀の匙でゆっくりとかき混ぜた。


「それで、ローゼンハイム様」


「はい」


「わたくしへのご用件は、何でございましょう?」


アルヴィスの手が止まった。

ほんの僅かな間であったが、オルフェリアはそれを見逃さなかった。


「……ご用件、と申しますと?」


「あら。父への書類を届けるだけでしたら、わたくしにご挨拶なさる必要はございませんでしょう?」


オルフェリアは穏やかに微笑んだ。


「侯爵家のご令息ともあろう方が、わざわざ公爵家の娘に会いたいとおっしゃったのですもの。何かお話があるのかと思いましたの」


アルヴィスはしばらく彼女を見つめていたが、やがて小さく笑った。


「噂に違わず、聡明な方でいらっしゃる」


「まあ、お上手ですこと」


「お世辞ではありません」


「でしたら、なおさら困りますわね。初対面の殿方に褒められて、どのようなお顔をすればよいのか分かりませんもの」


そう言いながら、オルフェリアは少しも困った様子を見せなかった。


アルヴィスは口元に薄い笑みを浮かべると、もう一度書類鞄へ手を伸ばした。


「実は、少々お尋ねしたいことがございまして」


「何かしら?」


「ラウレンツ伯爵夫人について、ご存じでしょうか」


オルフェリアは紅茶のカップを持ち上げたまま、静かに瞬きをした。


ラウレンツ伯爵夫人。

昨日、祖母の帳面で目にした名前である。


二十年前に王弟との婚約を解消された令嬢であり、その後は地方の伯爵家に嫁いだと記録されていた。


「お名前は存じておりますわ。確か、昨年お亡くなりになった方でしょう?」


「はい。昨年の冬に訃報が届けられております」


「それが、何か?」


「伯爵夫人は、生前、ヴァレンシュタイン公爵家と交流があったと記録されております」


オルフェリアは首を傾げた。


「そうでしたの? わたくしは存じませんでしたわ」


「先代公爵夫人、つまりオルフェリア様のお祖母様と、親しくされていたようです」


「まあ」


それは初耳であった。

祖母はオルフェリアが幼い頃に亡くなっている。穏やかで物静かな女性だったと聞いているが、社交界でどのような交友関係を築いていたのかまでは知らなかった。


「それで、祖母と伯爵夫人の交友について、何かお調べになっているの?」


「ええ。少々確認したいことがございまして」


「確認?」


「伯爵夫人が王弟殿下との婚約を解消された際、ある書類が作成されているのですが、その原本が見つからないのです」


アルヴィスは懐から小さな手帳を取り出した。


「文書院の記録によれば、原本は王宮に保管され、写しが伯爵家とヴァレンシュタイン公爵家へ送付されたことになっております」


「我が家にも?」


「はい」


オルフェリアは少し考えた。


王族の婚約に関する書類が、直接の当事者ではない公爵家へ送られることは、通常であれば考えにくい。


もっとも、当時の祖母が何らかの立場で婚約に関わっていたのであれば、話は別である。


「その書類には、何が記されていたのかしら?」


「それを確認したいのです」


「あら、そういうことでしたのね」


オルフェリアは頷いた。


「でしたら、父にお尋ねになるのがよろしいでしょう。わたくしは家の古い書類について、すべてを把握しているわけではございませんもの」


「もちろん、公爵閣下にも改めてお願いするつもりです。ただ……」


アルヴィスはそこで言葉を切った。


「オルフェリア様は、先代公爵夫人の遺品をお持ちではありませんか?」


オルフェリアは静かにカップを置いた。


「祖母の遺品、ですの?」


「はい。日記や書簡など、何か残されていればと思いまして」


「まあ、困りましたわね」


彼女は小さくため息をついた。


「祖母の遺品は数が多いのです。すべてを調べるとなれば、相応のお時間がかかりますわ」


「急ぎではございません」


「それでしたら、父に相談してみましょう」


オルフェリアはそう答え、にこりと微笑んだ。

アルヴィスもまた、穏やかに礼を述べた。


それからしばらく、二人は王都の近況や文書院の仕事について当たり障りのない会話を交わした。


アルヴィスは、文書院に勤め始めてまだ二年ほどだという。古い記録を整理する仕事が好きで、侯爵家の次男という立場を利用して官職を得たわけではないらしい。


その話を聞いたオルフェリアは、少々意外に思った。


貴族の令息でありながら、埃を被った書類の整理を好むというのは、なかなか変わった趣味である。


「随分と珍しいお仕事をお選びになったのね」


「よく言われます」


「もっと華やかな道もございましたでしょうに」


「華やかな場所は、あまり得意ではありませんので」


「あら、わたくしもですわ」


オルフェリアは微笑んだ。


「もっとも、わたくしの場合は、華やかな場所に出なければならない立場ですけれど」


「王太子殿下の婚約者でいらっしゃいますからね」


「ええ。今のところは」


何気なく返したその言葉に、アルヴィスの視線が僅かに動いた。


「……今のところ?」


「ええ」


オルフェリアは紅茶を口に運んだ。


「世の中、何が起こるか分かりませんもの」


アルヴィスはしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。


「確かに、そのとおりですね」


それ以上、彼は何も尋ねなかった。

オルフェリアもまた、説明するつもりはなかった。


     





アルヴィスが帰った後、オルフェリアは自室へ戻り、机の引き出しを開けた。


昨夜しまった古い帳面を取り出し、革表紙をそっと撫でる。

祖母の筆跡で記された名前の数々。


王族との婚約を解消された令嬢たち。

その中には、ラウレンツ伯爵夫人の名前も確かに存在していた。


オルフェリアは頁をめくり、伯爵夫人の名前の下に記された短い文章を読み返した。


『エレオノーラ・フォン・ラウレンツ。王弟殿下との婚約を解消。後にラウレンツ伯爵家へ嫁ぐ』


ただ、それだけであった。

 婚約を解消した理由も、その後の暮らしについても、何も書かれていない。


オルフェリアはしばらくその頁を眺めていたが、やがて帳面を閉じた。


祖母が何故このような記録を残していたのか、今となっては尋ねることもできない。


けれども、王立文書院の青年がわざわざ訪ねてくるほどの事情があるのなら、少しくらい調べてみてもよいかもしれなかった。


「マリアンヌ」


呼び鈴を鳴らすと、すぐに侍女が現れた。


「お呼びでしょうか、お嬢様」


「祖母の遺品が保管されている部屋は、今も東翼にあるのかしら?」


「はい。先代奥様のお部屋は、現在もそのままにされております」


「そう。では、午後に少し見せていただきたいわ」


「かしこまりました。旦那様に確認いたします」


「お願いね」


マリアンヌが退出すると、オルフェリアは窓の外へ目を向けた。

庭では、昨日まで蕾だった白薔薇が幾つか花を開いていた。


春も、もう終わりに近い。


来週の夜会が終わる頃には、王都にも初夏の気配が訪れるだろう。

そのとき、自分はまだ王太子の婚約者でいるのだろうか。

オルフェリアは、ふとそんなことを考えた。

もっとも、答えはすでに分かっているような気もした。


「……まあ、なるようになりますわね」


小さく呟いて、彼女は机の上に置かれた手紙へと手を伸ばした。


イザベルから届いた、次の茶会への招待状である。


婚約の行方がどうなろうと、友人との約束まで取り消す必要はない。


オルフェリアは羽根ペンを取り、丁寧な文字で返事を書き始めた。

一方、同じ頃。


ヴァレンシュタイン公爵邸を後にしたアルヴィスは、馬車の中で一冊の手帳を開いていた。


そこには、今日の訪問について簡単な記録が残されている。


『ヴァレンシュタイン公爵令嬢、先代公爵夫人の遺品について確認を約束』


アルヴィスはその一文を読み返した後、少し考えてから、下にもう一行を書き加えた。


『ラウレンツ伯爵夫人の名を聞いても、動揺は見られず』


そして、手帳を閉じた。

 彼女が本当に何も知らないのか、それとも何かを隠しているのか。


今のところ、判断はつかなかった。


ただ、ひとつだけ確かなことがある。


あの令嬢は、王太子との婚約が解消される可能性を、すでに考えている。

それも、随分と前から。


アルヴィスは馬車の窓から遠ざかる公爵邸を眺め、静かに息を吐いた。


彼が今日訪ねた本当の理由は、失われた書類を探すためだけではなかった。

昨夜、王立文書院に一通の匿名の書簡が届いていたのである。

差出人の名はなく、封筒の中には短い文章が一つ記されていた。


『次は、ヴァレンシュタイン公爵令嬢です』


それが何を意味するのか、アルヴィスにはまだ分からない。

しかし、その文字の下に描かれた小さな蔦の紋様だけは、以前にも見たことがあった。

二十年前、ラウレンツ伯爵夫人の婚約解消に関する記録の片隅で。


アルヴィスは目を閉じ、今日出会った令嬢の穏やかな微笑みを思い返した。


あれほど美しく、何事にも動じない少女が、これから何に巻き込まれようとしているのか。

あるいは、すでに巻き込まれているのか。

その答えを知るには、まだ少し時間が必要なようだった。

ここまでお読みくださり、ありがとうございます!


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次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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