黒狼断章 ◆ 後を追う者
『アレ』の脅威から逃れ、鬱蒼とした森を駆け抜けるシャラ。走りながら、彼女は強烈な悪寒と嫌悪感に襲われていた。体に付着した漆黒の『アレ』の残骸が、強烈な違和感を覚えさせる。
(早く何とかしないと、浸食される……!)
焦りに駆られたシャラは、走りながら力を練り上げ、『アレ』の残骸を炎で焼き払おうとする。だが、先ほどの脱出で力を使い果たし、ほとんど回復していない。わずかな熱を帯び、毛皮の表面を焦がすだけに終わる。
(だめだ、少し回復してからじゃないと、火力が足りない)
いや、そもそも『アレ』自体に炎でダメージを通すことなど不可能なのだ。小さいので焼けると考えたが、大きさの問題ではないらしい。だとすると、周りの毛ごと吹き飛ばすか、肉を深く抉るしかない。だがそれだけの力となると、回復にはそれなりの時間がいる。
じわじわと浸食してくるような感覚を覚え、シャラは強烈に焦る。かといって、他の仲間に頼んで炎で焼いてもらうことは絶対にできない。もし『アレ』に触れられたことがバレれば、問答無用で殺される。
まだ表面に付着しているだけだ、ということを説明する時間すら与えられないだろう。仮に説明できたところで、確実に聞く耳を持つはずがないのだ。
(少なくとも今殺されるわけにはいかない。――このまま自然に群れから離脱して、身を隠すしかないわね)
幸いにも、今は仲間たちと少し距離が空いているため、付着していることはバレていないはずだ。今、仲間たちは緊急時の合流地点である「東」に向かって全速力で逃げている。パニックのふりをして、「南東」へと向かったらどうなるか。
この混乱の中だ。足並みが乱れたのだと錯覚し、まず疑われることはないだろう。
(そうして仲間や同胞の視線を完全に切りつつ、ある程度南まで逸れたら、西に進路を大きく変えれば行方を自然に晦ませる。これしかないわね)
後から疑念を抱かれて追われたとしても、南東に向かったと思ってくれていれば、相当な時間を稼げるはずだ。まさか途中で進路を反転させ、あの戦場の真南へ向かったなどと、誰も想像すらしないに違いない。
(まずは南東に、その後は『戦場の真南』に向かうため南西を目指すことになるわね)
そう計算すると、シャラは同胞たちの視線を切るため、不自然にならないよう緩やかな弧を描きながら、南東へと走り出す。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一方、群れの後ろを走っていたジルは、『アレ』の忌まわしい気配から十分に遠ざかり、仲間たちが足を緩めたことで、無事に合流を果たしていた。走りながら息を整えつつ、ジルは近くにいた仲間に声をかける。
「すまないが、矢を抜いてくれないか? そんなに深く刺さってないから、すぐ抜けるはずだ」
「走りながらでは無理な位置に刺さってる。集結地点までは保ちそうか?」
「ああ、問題ない。ただちょっと走るのに邪魔というだけだ」
そう答えつつ、ジルは周りの同胞たちを見渡す。そこには、危機から二度も自分を救ってくれた恩人――シャラの姿が見当たらなかった。
「シャラはどこにいる?」
「僕は見てないな」
「あの混乱だったからな。俺もちょっと探したが、見ていない。まさか、飲み込まれたんじゃないか?」
仲間の一体が発した不吉な推測を、ジルは心の中ではっきりと否定する。突き飛ばされた直後、シャラが安全な場所に着地し、駆け出しているところをこの目でハッキリと見ているのだ。
(あの状態から逃げられていないハズがない)
すると、会話を聞いていた別の同胞が口を開く。
「シャラなら南東のほうに向かっているのを見たぞ。あの混乱だったからな。いずれ合流するんじゃないか?」
その情報を聞く限り、『アレ』に飲まれていないのは確かだ。ならば仲間が向かっている方向を見失っているだけか。いや、集結地点は決まっているのだ、そのうち合流するだろう。
だが、万が一ということもある。それに今敵が襲ってきたらシャラは一人だ。さすがにマズいだろう。
しばらく考え、ジルはシャラを追いかけることを決める。
「ちょっと探してみる。万が一、シャラが集結地点を勘違いしてたら困るからな」
「おう、気をつけろよ」
仲間の声に見送られ、ジルは群れから離れると、シャラがいるであろう南東へと再び駆け出した。
鬱蒼とした森を駆け巡りながら、シャラの痕跡や足跡を探す。しばらく探すが、一向に見つからない。すでに追い越して先に進んだか、あるいは別の仲間と合流したか。
(もしや敵に襲われているのか? このあたりにはいないはずだが)
引き返すか、一度仲間のもとに戻るか考えつつ、一度立ち止まり『存在力探知』を行使する。ジルはコレを得意としておらず、感知できる範囲は広くない。闇雲に使ったところで無駄に力を消耗するだけだ。だが、何かしらの手がかりが得られないかと一応実行してみる。
(やはりダメか)
これ以上は無駄だと切り上げたとき、遠くの木々の間を、黒い影が横切る。
(あれは、まさかシャラか?)
とっさに『存在力探知』を全開にする。引っかかった気配は、間違いなくシャラのものである。だが安堵したのも束の間、なぜか合流地点である東ではなく西に向かって進んでいる。何かに追われている、という感じではなさそうである。
(それにしても、なんで『南西』に向かっているんだ?)
ゴブリンの拠点でも襲撃するつもりだろうか。だが、一人では無謀だし、ここはかなり南に逸れている。このまま西に向かっても何もないうえ、さらに南に向かおうとしているのだ。南には、険しい断崖がある。
かつての災厄による『汚染』がいまだ残る地であり、実害はないものの食料である獣どもは恐れて近づこうともしない。植物だけが生い茂り、自らの機動性が封じられる不毛の土地である。あのゴブリンすら手を出さない領域で、自ら好んで向かう理由など一つもない場所だ。
(あいつ、いつまでも仲間が見つからないからと探しているんじゃないか? まったく、俺がちゃんと教えてやらないとだな)
少しの呆れと使命感を抱き、ジルはシャラを追う。追いつこうと速度を上げるが、胴体に刺さった矢が揺れて筋肉の動きを邪魔し、思うようにスピードが出ない。
対するシャラは、先ほどの激しい戦闘と疲労があるはずなのに、置き去りにするようにどんどん距離を離していく。もはや足の速さでは追いつけないと判断したジルは、一度立ち止まると息を大きく吸い込んだ。
「シャラ、止まれ! 合流地点はそっちじゃないぞ!」
意思を乗せた遠吠えが、木々を震わせて響き渡る。だが、森の奥からは何の返事も返ってこない。再度立ち止まり探知を試みるが、一瞬だけ捉えた気配も、すぐに探知圏外へと消えてしまった。
(探知できるこの距離で、今の呼びかけが届いていないはずがないのだが……)
錯乱しているのか。いや、あの冷徹なシャラに限ってそれはない。では、なぜ遠吠えを無視するのか、なぜ不毛の南へ向かおうとするのか。ジルの頭にさまざまな考えがよぎるが、どれも説明がつかない。
「くっ、何考えてんだ!」
ジルは焦りと苛立ちが入り混じった悪態をつくと、再び地面を蹴る。シャラが姿を消した方向へと走り出すのだった。




