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第二節:情析考策【上】 ―― 基準点の策定

 すべてを飲み込んだ森に不気味な静けさが訪れるなか、自分はしばらくの間、枝にしがみついたまま立ち尽くしていた。あまりにも色々なことが起こりすぎて、脳の処理能力が追いつかない。


 漆黒の毛並みを持つ狼たちによる統率された奇襲と魔法の様な炎、迎撃するゴブリンが小柄な体格から繰り出される攻撃は物理法則を嘲笑うかのように強力であった。いや、あれは小競り合いなどではなく、狂気と殺意に満ちた種族間の戦争である。


 そして、その怪物たちすら抵抗を諦め、恐怖に駆られて逃げ出すほかなかった異常現象――大地を削り、すべてを無に帰したあの<黒い泥>。


(今のは、いったい何だったんだ……)


 網膜に焼き付いて離れない光景を振り払おうと、強く目を閉じる。皮肉なことに、あの<黒い泥>が現れて眼下の生命を一掃してくれたおかげで、状況は一変した。ゴブリンの弓矢に怯える必要も、狼の牙に喉元を食いちぎられる恐怖も、ひとまずは去った。この異常な静寂が広がる樹冠の一角は、奇跡的に空白地帯となっている。


(助かったのか? いや、安心するのはまだ早いな)


 だが、問題はここからだ。水と食料の確保。安全な寝床の構築。現在地の特定。そして、この世界の法則性の解明。やるべきタスクが頭の中で無秩序に散乱し、激しく衝突する。


「今、真っ先に優先すべきは何だ?」


 <黒い泥>が引いたとはいえ、地表に潜んでいるリスクは排除できない。しかし、この耳鳴りがするほどの静寂が保たれている今こそ、地上に降りて水分を探すべきではないか。いや、手持ちのスマホのバッテリーが尽きる前に、上空から撮影した写真や動画を解析するのが先決か。


 降りるべきか。留まるべきか。分析するべきか。どれも命に直結する。だが、生身の身体が一つしかない以上、並列処理は不可能だ。考えを巡らせれば巡らせるほど、思考の泥沼にはまっていく。


(そもそも、こんなところで悩んで何の意味があるのだろうか)


 思考の底から、冷たい自暴自棄の毒が這い上がってくる。重力や大気の成分こそ地球と大差ないように思えるが、巨大な怪物や蠢く<黒い泥>が存在する時点で、ここは自分の知る物理法則が通用しない世界だ。そんな場所で、現代日本の常識や論理を積み上げたところで何の意味があるというのか。


 どれだけ考えを巡らせたところで、<黒い泥>のような理不尽がもう一度足元から湧き上がれば、すべての努力は瞬時に水泡に帰す。あれこれ悩むだけ無駄ではないのか。出たとこ勝負で無謀に突っ込んでも、確率の収束としては大して変わらないのではないか――


 思考が自虐的な堂々巡りに陥り、指先の力が抜けかけたその瞬間、記憶の底から鋭い楔のような言葉が突き刺さった。


『神たる我が予言してやろう。お前は転移後一日と経たず贄となり、その場で死ぬだろう』


「――っ!」


 あの無機質な転移空間で、傲慢な声が告げた宣告。死の恐怖と混乱の連続ですっかり抜け落ちていたが、あの悪辣な存在は明確にタイムリミットを口にしていた。


(一日だ。あいつは確かに、一日と言っていたはずだ)


 落下直後の怪物の襲撃、そして<黒い泥>の出現。あれが予言された「贄としての死」のトラップだったとすれば、自分は紙一重でそれを回避したことになる。だが、まだ転移してから数時間も経っていない。予言の有効期限内である可能性は極めて高い。


(ならば、結論は出た。迷う余地など最初から存在しない)


 予言の罠を完全に踏み抜かないための最適解は、ただ一つ。この世界の「一日」が経過するまで、絶対にこの木から降りず、あらゆる能動的アクションを停止して息を潜めることだ。眼下の戦場は泥によって足跡や匂いごとリセットされている。下手に地上へ降りて新たな生活反応を残すより、樹上の死角にとどまる方が、生存確率の観点からも圧倒的に優位だ。




 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



(方針は確定した。次は――手持ちのリソース管理だな)


 ポケットからスマホを取り出す。画面を点灯させると、転移部屋から落下中にかけて起動していたカメラが、まだ録画状態のままバックグラウンドで動き続けていた。慌てて停止させる。


(バッテリー残量は、九十五パーセントか)


 落下から現在まで、ほとんど時間は経過していない、ということなのだろうか。だが、安堵している暇はない。ここには充電器もコンセントも存在しない。この板切れに残された電力こそが、未知の異世界において自分が持ち得た唯一無二の「情報兵器」であり、文明の生命線なのだ。


(無駄な電力消費は絶対に防がないとまずい)


 即座に『機内モード』をオンにして、無駄に電波を拾おうとしないようにする。続いて『低電力モード』を起動してCPU消費を抑えたうえで、ディスプレイの明るさを視認できる限界まで絞り込む。位置情報サービス(GPS)やBluetoothもすべてオフにする。これだけで、待機電力の消費速度は相当抑え込めるはずだ。


(よし。次は現在時刻の特定だ)


 ステータスバーに表示されている時刻は「二十二時十五分」。だが、分厚い樹冠の隙間から見上げる空は、青みを残した昼下がりの明るさを保っている。


(時間が違うのは当たり前として、問題はそこじゃないな)


 ここが地球の裏側なのか、あるいは別の天体なのか。もし後者であれば、大気圧や重力が似通っていたとしても、天体の質量、直径、自転速度まで同一である保証はどこにもない。もしこの世界の一巡りが地球換算で「三十時間」だった場合、スマホの時計で二十四時間待ったところで、神の予言の対象期間内に地上へ降りてしまうという致命的なミスを犯すことになる。


(機械の時計は信用できない。この環境そのものを時計にするしかないな)


 鬱蒼とした枝葉を見上げ、木漏れ日を観察する。太陽を直接追うのは遮蔽物が多すぎて困難だ。だが、光があるなら、必ず対となるものが存在する。


「影だ。日時計を作る」


 ポケットの中を探り、落下直後に護身用として拾い上げていた、手のひらに収まるほどの鋭利な珪石を取り出す。自分が座る太い大枝に基準点を刻み、手に持っていた二メートルの棒を垂直に立てる。棒が作り出す明瞭な影に、石を押し当て、樹皮を削るように深く、直線的な溝をガリガリと刻み込む。


(これで基準点は打てた。明日、光が再びこの刻み目に当たったら、完全な『一日』が経過したと証明できる)


 だが、これだけではまだ片手落ちだ。影がどちらへ動くのか――この世界の太陽が東から昇って西へ沈むのかすら、現時点では不明であるい。方角を割り出すため、再びスマホの画面を点灯させ、OSに標準で搭載されている『コンパス』アプリを起動する。


「……頼むぞ、動いてくれ」


 画面の中央に描かれた黒と白の円盤が、かすかな電子音を立てるかのように滑らかに回転し、やがてピタリと静止した。真北を示す赤い針が、ブレることなく一定の方向を指し示している。


(地磁気は存在している。これで北は確定したな)


 画面の指針と、先ほど幹に刻んだ日時計の影の角度を目測で照合する。影が幹の北東側に伸びているということは、光源である太陽は現在、真逆の空にある。


(光の入射角は、南南西か)


 日時計の刻み目のすぐ横に、石の先端を使ってコンパスが示した方位角の記号を小さく削り出していく。これで、時間と方位の原点は確保できた。どれだけ不可解な異世界であろうと、科学は有効なのかもしれない。


 なげやりになっていた思考が、正常さを取り戻していくのを感じる。


(基準は揃った。次は、あの落下中に撮影した空中動画の解析だ。絶対人間の文明圏にたどり着いてやる……!)


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