第二節:情析考策【中】 ―― 鳥瞰の幾何学
異世界転生と言えば、なんかいい感じに冒険者をやって、現代の知識でちやほやされ、成り上がっていく。そんな展開が王道だろう。ギルドの受付嬢に実力に驚かれたり、未知の料理を作って貴族の舌をうならせたり。もしくは、田舎の辺境でのんびりとスローライフを満喫する、というものでもいい。魔法の才能やチート能力がなくても、知識さえあればある程度は無双できるんじゃないか、と。
(だが、それらはすべて『人間の文明圏』にたどり着かないと話にならない)
活動を支える社会インフラという側面はもちろん、関わる人とストーリーがあって初めて面白くなるのだ。少なくとも、自分のために害獣を討伐して、自分のための家を作り、自分のための畑を作って一人でニヤニヤするような趣味は持っていない。文明のない大自然での孤独なサバイバルなど、ただの泥臭い苦行でしかない。
(では、その最も重要な『人間の文明圏』はどこにあるのか)
人間が生きるために必要なのは、切り拓かれた平坦な土地である。これは世界四大文明だろうが現代の都市だろうが、太古より変わらない事実だ。だが、上空で確認した限りこのあたりは森しか広がっていない。
ではどこにあるのか。それをこれから突き止める。幸いにも上空から落下した際に撮影した動画がある。
(なにか手がかりが映っているといいんだけど)
画面の中で再生される映像は、鼓膜を劈くような風切り音とともに激しく回転し、ブレ続けていた。あの極限の恐怖と浮遊感が蘇り、思わず奥歯を噛み締める。だが、感情に浸っている余裕はない。動画のシークバーを指先で慎重にスライドさせ、一コマずつ映像を送っていく。
雲海を突き抜けた瞬間から、樹冠に叩きつけられる直前まで――まともに地表の形状を捉えているフレームを必死に探す。
数分間の格闘の末、激しいブレの合間に奇跡的にブレが収まり、鮮明に地表を捉えた瞬間を二箇所だけ特定した。すぐさまスクリーンショットを撮影し、画像データとして保存し直す。
(使える部分があまりに少ない。いや、あるだけマシと思うべきか)
まず分析するのは、地平線の彼方に連なる雄大な山脈と、手前に広がる森林を捉えた画像である。
まず目につくのは森林で、水平線の彼方まで広がっている。平地は一切存在せず、また空から見ても熱帯雨林だとはっきりわかるほど深い緑に包まれている。それは植生や湿度の高さからもすでに明らかな事実ではあったが、改めて再認識するだが、その事実を前提に据えた瞬間、写真の奥にそびえる山脈の姿が、強烈な矛盾となって脳髄を殴りつける。
(ここが熱帯だとして、あの山肌は何だ?)
山脈の稜線は、中腹から上が絵の具を塗りたくったような純白に染まっていた。あれが一時的な降雪ではなく、年中溶けることのない『万年雪』であることは、削り取られたような氷河特有の谷の形状からも明らかだった。雪が溶けない標高に達するには、どれほどの高度が必要なのか。温帯である日本なら二千から二千五百メートルといったところだろうが、ここは熱帯である。
年間の平均気温が二倍くらい差があるとして、二倍か三倍か。まったく分からん。一旦およそ四千メートルから五千メートル前後の高度が必要と仮定しよう。だが、写真に写る山脈は、その雪線を遥かに超えた白い領域が、山脈全体の半分以上を占めている。
(山脈全体の平均標高ですら、最低五千メートルはあるぞ。そして、あのひときわ天を突いている主峰に至っては……)
一万メートル――地球の対流圏を突き抜け、成層圏に達するほどの異常な超巨峰が、平然と連なっているのだ。
(北のルートは完全に死んでいるな)
近代的な登山装備も、酸素ボンベも、防寒具すら持たない生身の人間が越えられる壁ではない。検討するまでもない。死ぬのがオチだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
(あっちへ進むのは自殺行為だ。なら、もう一枚は)
思考を切り替え、二枚目の画像を開く。そこには、地平線の端から端までを一直線に両断するように切り裂かれた、巨大な断崖絶壁が写っていた。
深い谷底には濃い霧のようなものが澱んでいる。断崖の岩肌には草木一本生えていないことから、空気より重い有毒ガスが滞留しているとみていいだろう。しかし、目を奪われたのはその先だった。断崖の向こう側には、起伏の激しい森林ではなく、見渡す限りの平坦な大地が広がっていたのだ。
所々大地が黄色く剥げ、あるいは整然とした直線を描いて緑が途切れている。
(開墾された農地か? いや、確定はできないが、少なくとも人間が生きられる平野はあの断崖の先にしかない)
人間社会の維持には、食料を大量生産できる平坦な土地と、交通の便が不可欠だ。この原生林のどこかに人間が潜んでいる可能性はゼロではないが、それはせいぜいが狩猟採集の小規模な集落止まりだろう。自分が目指すべき「文明圏」が存在し得るのは、どう見ても断崖の彼方だけだった。
(あとは、方角の確定だな)
一枚目の山脈と、二枚目の断崖。これらが東西南北のどこに位置しているのか。写真の中に落ちる陰影に意識を集中させる。森を形成する樹木が落とす微細な影、断崖の縁が削り出す鋭い黒のライン、火山の尾根に生じる明暗の境界。
それらを注意深く拾い上げていくと、撮影時に太陽が照らしていた方向が、立体的なベクトルとなって浮かび上がってきた。
(さっきコンパスアプリで確認した、現在の太陽の位置は『南南西』だ。そして一枚目の写真は、手前から奥に向かって影が伸びている。光源は背後だな。つまり――)
「一枚目の雪山が『北』。二枚目の断崖が『南』か」
パズルのピースが音を立てて噛み合った。自分は今、北を一万メートル級の極寒の山脈に塞がれ、南を巨大な断崖で遮断された、広大な熱帯雨林のポケットに閉じ込められている。
「問題は、あの断崖をどうやって越えるか、だが」
再び二枚目の画像を限界まで拡大する。断崖の手前に、緑に覆われた火山のような隆起が写り込んでいるのが見えた。周りの樹海との対比から、比高はおよそ六百から千四百メートル前後。その火山の裾野の広がりは、目測でおよそ二キロから三キロといったところだ。
そして、そのすぐ脇を切り裂く断崖の亀裂幅は、火山の半径とほぼ同等か、それ以上に広い。
(最低でも一キロ。広い場所なら三キロから五キロはあるぞ、あのクレバス)
思わず乾いた笑いが漏れた。幅数キロの有毒ガスが立ち込める大穴に、都合よく橋など架かっているはずもない。ロープを投げて渡るなどという芸当も物理的に不可能だ。
(飛び越える手段がないなら、選択肢は一つしかない。あの断崖が途切れる場所まで、横に回り込む――『迂回』だな)
動画のフレームをもう一度再生する。落下中、視界の限界まで見渡した光景。巨大な断崖は、左右の地平線の彼方まで、どこまでもどこまでも延々と走り続けていた。
(迂回するにしても、最低限、あの時自分の視界に入っていた距離を踏破しなければならない。だが)
樹幹に背を預け、冷たい汗を拭う。
(上空数千メートルから見下ろした、あの『地平線』までの距離……いったい何百キロあるんだ?)




