第二節:情析考策【下】 ―― 文明圏への道筋
北は最低でも五千メートル級の山脈、東西は水平線まで広がる大森林。人類の文明圏がありそうなのは南しかないが、推定幅数キロの断崖に阻まれて飛び越えることは不可能。残された移動の選択肢は「迂回」しかない。だが、問題はその距離だ。写真では端を確認できないし、目視で確認したときも、あの断崖は視界の限界――地平線の端から端まで延々と連なっていた。
(あの時、自分が見ていた『地平線』は、ここから何キロ離れていたんだ?)
それを知るには、まずこの星の大きさを定義する必要がある。落下時の衝撃が少なかったことから地球よりも重力が小さい可能性はある、と先ほどまでは考えていた。だが、そうなると重力加速度や大気圧も違ってくるはずである。
試しに木の樹皮の欠片を剥ぎ取って遠くに投げてみるが、空気抵抗や落下速度にまったく違和感を覚えない。地球との違和感がない以上、天体の質量と半径も地球とほぼ同等と仮定していいはずだ。
(重力も大気も、地球とほぼ同じと考えていいな)
機内モードにしたスマホの地図アプリを開く。オフラインキャッシュに残っていた世界地図を表示し、画面の縮尺バーを頼りにおおよその値を拾い上げる。赤道全周はおよそ四万キロメートル。円周率で割れば、直径は約一万二千七百キロ、半径はおよそ六千三百五十キロメートルとなる。
(撮影時の高度はおよそ七千メートル、七キロだな)
地球の半径、高度、そして地平線までの見通し距離。この三者が描く直角三角形に三平方の定理を当てはめれば、見通し距離は導き出せる。電卓アプリを立ち上げ、数値を素早く打ち込んで計算を進める。弾き出された答えは、約二百九十八キロメートル。
「約三百キロメートルか」
東京から名古屋間、あるいは四国の端から端までとほぼ同等の距離だ。途方もない遠さではあるが、天文学的な数字ではない。道なき熱帯雨林を進む速度を一日三キロと仮定しても、百日歩き続ければ理論上は到達できる計算になる。
「――いや、あり得ないな」
起伏の激しい熱帯雨林の踏破には、莫大な運動エネルギーを消費するだろう。一日あたり最低でも二千五百から三千キロカロリー。百日間の行軍を維持するには、最低でも二十万キロカロリー以上の食料と、二百リットル以上の真水が必要だ。
現地調達の技術も、保存食を作るノウハウも持たない素人が、補給線のない単独行軍で三百キロを踏破するなど完全な自殺行為だ。途中で確実に飢餓で野垂れ死ぬ。
(そもそも地平線までたどり着いたとして、断崖がそこで終わっている保証なんてどこにもない)
いっそのこと、北の山の向こう側に人類文明があると信じて登ってみるか?いや、あまりに馬鹿な考えだな。五千メートルを超える極寒の山脈の踏破など、防寒具も酸素ボンベもない生身の人間でどうこうできるものでもあるまい。考えるまでもなく無謀だ。東や西への三百キロ迂回は補給線で破綻。北の突破は環境要因&補給線のダブルコンボで確実な死しかない。
貴重なバッテリーを消費するのもいとわず、何度もスマホの画面をスワイプして写真や動画を確認する。しかし、開けた平地は南の断崖の向こう側にしかない。なんというか「絶対に文明圏には向かわせないぞ」という、強い悪意を感じる絶望的な地理である。
(あの忌まわしい声の主、その悪辣さは下限というものを知らないらしいな。『証明してみろ』みたいなことを言っていたし、試練のつもりなのか?)
完全に詰んでいるように見えた。だが――。
(本当に断崖は越えられないのだろうか)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
写真の上で見れば、幅数キロの絶望的なクレバスに見える。だが、実際に地上へ行って間近で観察すれば、幅が狭まっている地点や、崩落して天然のスロープになっている場所があるかもしれない。まずは「南の断崖」を直接その目で確認するべきではないだろうか。
ではあの断崖にたどり着くまでの「実際の距離」はどれくらいか。数十キロと言われたら、やはり兵站の問題からすぐに向かうことはできないだろう。上空から撮影した二枚目の写真。そこに写る断崖は、画面の下の方に確かに存在していた。
(この写真から、現在地から断崖までの『水平距離』を割り出せないか?)
写真から地表の距離を逆算するには、カメラがどれだけの角度を撮影できるかという画角と、撮影時の見下ろし角度が必要になる。もちろんそんな情報など記憶していない。だが、近似値なら今この場で測定できる。
(自分の身体を使えばいい)
カメラアプリを起動し、腕を真っ直ぐ横に伸ばした状態で、画面の長辺いっぱいに自分の腕全体が収まる距離までスマホを構えてみる。肩の付け根から指先までの長さはおよそ七十センチメートル。それが画面の端から端までぴったり収まるときの、レンズから腕までの距離を目測すると、およそ五十センチメートル。
この三角形の比率から逆算すれば、カメラの水平画角はおよそ七十度前後、画面の短辺にあたる垂直画角はおよそ五十度前後と推定できる。望遠モードかどうかで違ってくるのだろうが、今は近似値が取れればいい。
(画角の基準は取れた。次は撮影時のカメラの傾きだな)
二枚目の断崖の写真を開き、画面内の構図を分析する。空と地面の境界線である地平線が、画面の上からおよそ四分の一の位置に写り込んでいた。垂直画角がおよそ五十度で、その中心線よりやや上に地平線があるということは、カメラのレンズは水平よりも下――およそ三十度前後の角度で地面に向けられていたことになる。
(撮影高度は七千メートル。カメラの傾きは下向きに三十度)
高度七千メートルから三十度の角度で見下ろしているとすれば、画面の中心が捉えている地表までの水平距離は、三角比の計算から約十二キロメートルとなる。さらに、画面の下端――つまり写真の中で最も手前に写っている地面は、視線の傾きがさらに急になり、水平から下向きに五十度以上見下ろしている計算になる。その地点までの距離を電卓ではじくと、およそ四キロから五キロメートルだ。
写真の最も手前、画面下端に写っている森までの距離がおよそ五キロ。そして――巨大な亀裂である断崖の縁は、その画面下端からわずかに奥、写真の下部三分の一あたりを横切っている。
「……見えた」
思わず声が漏れた。写真の下端が約五キロ。中心が約十二キロ。その間に位置する断崖までの水平距離は、どれほど誤差を見積もっても――。
(六キロから、せいぜい十キロメートル以内だ)
全身の血が逆流するような感覚を覚えた。三百キロの迂回は不可能だ。だが、断崖そのものがある場所は、今自分がいるこの木から、南へわずか六から十キロメートルしか離れていない。道なき鬱蒼とした森であっても、一日二から三キロ進めば、二日か三日で到達できる至近距離だ。
(これなら、十分に目指せる距離じゃないか……!)
上空からの大雑把な鳥瞰図だけで「渡れない」と決めつけるのは早計だ。三百キロ先の水平線や五千メートルの山岳踏破という極めて困難な旅路の計画を立てる前に、まずは最も現実的な距離にある「南の断崖」を直接その目で偵察する。それこそが、今やるべきことだろう。
「方針は決まった。明日、神の予言の期限が切れたら、地上に降りて南を目指す」
だが、そのための第一歩を踏み出す前に、やるべきことがもう一つ残っている。未知の森を数キロ踏破し、危険な断崖を偵察するための「戦力」と「リソース」の確認だ。
(持てる手札を、正確に把握しておく必要があるな)
そう考えると、ポケットの中身を一つずつ取り出して状態を確認しつつ、周りで使えるものが無いかを探しはじめた。




