黒狼断章 ◆ 黒き狩人
鬱蒼とした黒き森に、わずかな木漏れ日が差しこんでいる。だが、空から突如として響きわたった巨大な轟音が、その静寂を一瞬にして切りさく。音の発生源がかなり近かったためか、まわりの小動物たちはパニックを起こして逃げまどっている。
それらを片目に、巨大な体つきの獣――シャラは、艶やかな黒い毛皮を揺らし、その発生源の気配を鋭く探る。
何かが空から落ちたようだ。だが、それが生き物なのか、ただの物体なのかがはっきりしない。シャラが探る意識をさらに強めると、かすかながらも確かな『存在力』を感じとる。生き物であることは確実だ。
しかし、生き物だとすると奇妙な点がある。
(落下音の大きさからして、考えるまでもなく即死レベルの衝撃があったハズよ。それなのに……)
シャラは内心で首を傾げる。探りあてたその『生命力』は、死にかけているどころか、不気味なほどに満ちあふれているのだ。
また、生き物の『存在力』は基本的に体の大きさに比例する。あれほどかすかな存在力しか持たない小生物が、ただ落ちただけで、森を揺るがすほど大きな音を出すものだろうか。
シャラにとって、気になる点はもう一つある。あの尋常ではない落下音は、時折空より降りそそぐ『災い』によく似ていたのだ。
直後、遠く離れた森の奥から、音程にかすかな揺らぎを乗せた遠吠えが響きわたる。それはただ本能で吠える咆哮ではない。群れをたばねるリーダー格、ヴォルグが放った『パターン3-5-1』を使った会話の合図である。
『今の音は何だ。何かわかる奴はいるか?』
ヴォルグの問いかけが遠吠えを介して同胞全体に伝わる。シャラが答えるより先に、別の群れを率いる雄、ザルグが応じる。
『空から何かが落ちてきたようだ』
続いて、慎重な性格の同胞であるガルドが会話に加わる。
『我らもそう考え、様子を確認しに行くところだ』
だが、ヴォルグが鋭い吠え声でそれを止め、森に起きているもう一つの異変を知らせる。
『いや、待て。こちらの方向に三十体以上の小鬼の集団がいて、音がする方向に向かっているようだ。鉢合わせするかもしれん』
小鬼。その単語が出た瞬間、森に響きわたる遠吠えの音色に、明らかな嫌悪の感情が走る。
『あの汚物が三十体もいるのか。さすがに我らだけでは相手はできんな』
ガルドがいまいましげにうなる。状況を冷静に見極めていたシャラは、自らの群れの動きを伝えるために会話に加わる。
『様子を見に行くなら、私もまわりの仲間を集めて行くわ。それなら、ちょっと様子を見に行くくらいはできるでしょ』
『こちらの縄張りに我が物顔で現れるとは許せん。俺の群れも行くぞ!』
シャラの言葉に刺激されたように、血の気の多い群れのリーダーであるガウルが吠える。
『なら、俺から提案がある』
先ほどのザルグが再び吠える。
『空から落ちてきた何かを、奴らは探すはずだ。その隙を狙って奇襲するのはどうだ? もちろん俺たちの群れも向かう』
その提案を受け、リーダー格のヴォルグが全体の戦力を計算する。
『我らも含めれば、これで同胞は二十体ほどになる。三十体ほどの小鬼の集団相手なら、余裕で勝てるだろう』
『我も当然賛成だ。我らの領域を犯すとはどういうことか、知らしめてやろう』
ガルドが力強くうなずく。シャラは現在地と落下地点までの距離を素早く計算し、もっとも理にかなった自らの役割を申し出る。
『まぁ、仕方ないわね。私たちが一番近いと思うから、あらかじめ隠れておくわ』
『高ぶってくるな! あの強欲で卑劣でいまいましい小鬼どもを全滅できるわけか』
ガウルが獰猛に吼える。各群れの意思が完全にまとまったことを確かめ、ヴォルグが最終的な作戦を下す。
『よし。なら我らはこのまま小鬼を追うため、他は先回りして落下地点を包囲してくれ。我らに近い群れは合流してくれ』
ここでヴォルグは、奇襲のタイミングについて重要な指示を伝える。
『奴らのリーダーがいつ、どこに現れ、どのタイミングで油断するかはわからない。したがって、その時、確実に仕留められると判断した者がリーダーに襲い掛かれ』
『全体の奇襲は、そのタイミングに合わせて一斉に実行するぞ』
『了解!』
全員の強い意思を乗せた、幾重にも重なる森の遠吠えは、必要なやり取りを終えるとスッと小さくなり、やがて森に静けさが戻る。
敵である小鬼たちにも、この遠吠えによる会話は聞こえているはずだ。だが、合図の決まりを知らなければ、ただの獣が騒いでいるようにしか聞こえない。さらに、彼らは合図のパターンを都度変えている。高度な情報のやり取りが気づかれることは絶対にない。
やり取りを終えたシャラは、(やれやれ)と内心でため息をつくと、群れの仲間三体に向けて視線で合図を送る。シャラたちを含めた計四体の群れは、足音一つ立てずに森の影へと溶けこむ。
いまいましい小鬼たちを迎え撃つべく、シャラたちは落下地点へと先にまわって身を潜めはじめる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
最も早く落下地点のクレーター周辺に着いたシャラは、音もなく森の影に身をひそめる。
(うーん。今はあんまり危険なことはしたくないんだけど、小鬼が三十体もこの縄張りでウロウロしているのは、私も困るから仕方ないわね)
息をひそめたまま、シャラはまわりの状況を鋭い五感でたしかめる。現場には、ひしゃげた植物の青臭い汁と、えぐれた黒土の匂いが強烈にただよっている。
(さて、音がした場所に着いたんだけど、明らかに何かが上空から落ちた跡があるわね)
だが、シャラのすぐれた嗅覚は、落下跡からそれらとはまったく違う、明らかに異質な匂いを感じとる。
(こんな鼻が曲がる匂いは初めてね。でも、ちょっと中毒になるような匂い。それと、かすかに『生き物のにおい』が混じっているわね。――この匂いの残り方、先に様子を見に来た誰かというよりは、『落ちてきた誰か』本人の匂いってことかしら)
生き物の匂いと、不自然に途切れた泥の足跡。シャラはそれを正確にたどり、視線をひときわ巨大な大木の上へと向ける。
(どうやらあの木の上に隠れているわね。あれは……人間?何か違う気がするけど、人間なんてほとんど目にしたことがないから、よくわからないわね)
前に探っていたとおり、その生き物の存在力は微弱で、力もまったく感じられない。樹上でただ震えているように見えるそのひ弱な生き物は、シャラにとってまったく脅威ではない。
(小鬼と戦っている間に、予想外の事態で邪魔されても困るわ。……かわいそうだけど、先に処理しておこうかしら)
しばらく考えたのち、シャラは一つの判断を下す。
(いや、邪魔にならないなら無理して排除する必要はないわ。むしろ『囮』として使うことにしましょう)
樹上の人間を囮にすることを決めると、シャラは大木のすぐ近くの茂みに身を隠し、様子を見守る。背後に控える仲間三体には、近くの木陰に待機するよう視線で指示を出す。
茂みに隠れていると、やがて森の奥から下劣で生理的な拒絶感を覚える匂いとともに、小鬼の大部隊が集まってくる。
(風に乗って微かに届く匂いや気配からすると、ヴォルグたち他の同胞の群れも決められた位置についたようね)
完全な包囲網ができあがったことを確かめ、シャラは静かにその時を待つ。
しばらく待機していると、小鬼のリーダーである隊長が、あの人間の残したダミーの足跡を追って歩いてくる。隊長ゴブリンは、シャラがひそむ茂みの目の前、すなわち『あの人間が隠れている木の目の前』で立ち止まる。
シャラは、確実に敵の急所に牙を突き立てられる『隙』が生まれるタイミングを、じっと待つ。リーダーはしばらく地面の足跡を見つめていたが、やがてゆっくりと顔を上げる。
そして、木の上にいた人間を見つけ、哀れな獲物を見つけた喜びに、その醜い顔を不気味な笑みにゆがめる。
完全な無防備。決定的な隙だ。
(今よ!――っ)
とっさに、シャラは小鬼のリーダーのまわりの空間を一気に燃え上がらせる。ボゥッ! という強烈な爆発音と共に、リーダーの全身が紅蓮の炎に包みこまれ、すさまじい熱風が上空に巻き起こる。
直後、シャラは茂みから弾丸のように飛び出し、炎でもがく小鬼のリーダーの喉元へ凶悪な牙を突き立てる。抵抗する間もなく、その首を鋭い牙で噛み砕く。
森中に、リーダーの短い断末魔の叫びが響きわたる。それを合図に、森の四方八方から二十体の黒狼が、小鬼の軍隊へと一斉に襲いかかった。




