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第一節:渾沌乱戦【下】―― 深淵の乱入者

 あの大きな体じゃ、木に登れるはずもない。自分の脅威にはならないだろう。むしろ敵の敵は味方かも、などという考えがいかに楽観的だったか、思い知らされる。


 炎をあやつっている黒狼だが、火炎放射のように、炎が飛んで相手を燃やしているわけではない。炎が飛ぶのであれば、重力の影響を受けるため、高い場所を陣取っていれば安全だ。


(でも、あの黒狼は、何の前ぶれもなくターゲットを突然燃やしている)


 先ほどの戦いを見るかぎり、『視線』で発火させているようにしか見えない。射程の距離は、目測でも二十メートルは下らない。高い場所が安全という前提は、根底からくずれ去る。


(しかもほぼ全裸のゴブリンが全身火だるまになっているんだよね…)


 それは、ターゲットの表面に燃えるものなどの燃料を必要としていないことを意味する。激しく燃え上がってから数秒で不自然に火が消え、ゴブリンの皮膚が炭になっていないことからも、皮膚の脂や皮膚そのものの温度を上げて燃やしているわけではないとわかる。


(ターゲットのまわりの空気や、空間そのものを発火させると考えるのが妥当か)


 この推測を自分に置きかえると、一つの絶望的な結論に行き着く。視線で空気を燃やせるのであれば、重力など一切関係ない。この木の高さはわからないが、すでに射程圏内である可能性は高い。奴らに見つかればすぐに燃やされる。一度火をつけられれば、石油でできた化学繊維の服は勢いよく燃え上がり、そのまま火だるまになって焼け死ぬだろう。


(だからゴブリンは、ほぼ全裸の格好をしているのか。)


 妙な納得をしつつ、仮に射程圏外だった時のことを考えるが、そちらもろくな未来にならないことがわかる。


(仮に射程圏外で自分が直接狙われなくても、足元の木を燃やされたら……)


 水分を多くふくむ生木なので、すぐには燃え尽きないだろう。だが、表面を燃やされて大量の煙が発生すればどうなるか。九メートル上空にいる自分は、息が詰まるか、生きたまま燻製にされて完全に終わる。ここは決して、絶対の安全地帯などではない。


(なら相手がゴブリンならどうにかなるか? ――いや、無理だ)


 隊長だけが別格で、他はただのザコ。そんな思いこみは、まったくの誤りであったことを突き付けられる。


 あいつらは、炎を三度浴びせられても悲鳴一つ上げずに立ち上がる、異常なタフさと好戦的な狂気をもっている。黒狼の弾丸のような突撃を身軽にかわし、すれ違いざまに的確に頭へこん棒をたたきこむ、恐るべき動体視力と運動神経。


(指揮官がいなくても、一瞬で前衛と後衛に分かれて弓や投石で協力する、高い戦術理解力がある。隙なんてまるで無い。考えるだけで頭が痛くなる)


 多対一はおろか、一対一であったとしても、今の自分が勝てる可能性はきわめて低いだろう。見つかれば、確実に殺される。ゴブリンも黒狼も、今は絶対に戦ってはいけない本物の化け物だ。


(それに、この戦い。どちらが勝っても果たして見逃されるのかという最大の問題があるな……)


 あの隊長ゴブリンがこの木のそばで立ち止まっていたことを、黒狼側もゴブリン側も知っているだろう。戦いが終わって、ふと誰かがここに何があるかを確認しに来るだけで終わりだ。


(ここにとどまり続けるか、少しでも距離をとって、射程外へ逃れるためにさらに高いところへ登るべきか?)


 だが、もっと高い位置に逃げたところで、下から煙に巻かれた場合、やはり逃げ場がなくなるのではないか。それにあれだけ手足を器用に使えるゴブリンが木登りできないとは考えにくい。


(ならば、この乱戦の隙に木を降りるか?)


 地上に降り、生い茂るシダ植物の陰に隠れながら、この戦場から遠ざかる。万が一見つかっても、たがいに殺し合っている今なら、脅威度の低い自分に構っている余裕はなく、見逃される可能性は十分に見込める。生き残る道はこれしかないと、自分は心に決める。


(しかし、今すぐ木を降りる行動に移すのは危険すぎるな)


 九メートルのツルを下るには、それなりの時間がかかる。降りている最中に見つかれば、空中でゆっくり動く無防備な的になってしまう。さらに、まわりの森からはまだ、クレーターにむけて両陣営の増援が集まり続けている。今降りれば、遠くから駆けつけてきた増援と出くわす可能性がまだある。


(焦ったらダメだ。まわりの敵がすべて戦場の中心に吸いこまれ、外周が手薄になる瞬間を待つしかない)


 戦力の空白地帯が生まれる、そのピークの瞬間を待つべきだ。


 太い枝の上で、音を立てないようにゆっくりと立ち上がり、いつでも降りられるように準備をする。そして、逃げ道と降りるタイミングを完璧に見きわめるため、戦場をより広く見渡せるよう、幹の影からそっと身を乗り出す。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




 眼下の地獄絵図を見つめていると、互角だったはずの戦況に、突如として異変が起きる。狂気にあてられたように戦っていたゴブリンたちが、唐突に手に持っていた武器をかなぐり捨て、絶叫しながら森の奥へと全速力で逃げ散りはじめたのだ。


(三倍近い体の差とやっかいな炎攻撃にたいしても、ゴブリン側はうまく立ち回っていて、戦況はほとんど互角だったはずだぞ?)


 今になって、指揮官を失ったことによる戦線の崩壊が起きたのだろうか。


(いや、違う……!)


 なぜなら、黒狼たちもまた、無防備な背を向けて逃げるゴブリンには一切目もくれず、一目散に逆方向へと逃げ出したからだ。


 たがいに殺し合っていたはずの化け物同士が、戦いをやめて「同じ何か」から逃げている。


(いったい、何が起こったんだ……?)


 警戒を強め、注意深く落下地点のクレーター周辺を見てみる。わずかに地面が浮き上がったように見えた――その瞬間、戦場の地面が音もなく変化する。


 底知れぬ、ぬらりとした<黒い泥>が、戦場となっていた範囲全体を瞬時に覆い尽くす。土ではない。影でもない。先ほどまで闇に溶けこむほど黒いと思っていたあの黒狼の毛皮すら、その前では色あせたグレーに見えてしまうほどの、絶対的な黒だ。


 そこだけ世界から空間が不自然に切り取られ、ぽっかりと空白が空いたかのような、強烈な違和感。およそこの世界のモノとは思えないほどの底知れぬ深淵。だが、ぬらりとしたその平面が不気味に波打つさまは、まるでそれ自体が意思をもった一つの巨大な生物であるかのように感じさせる。


(――あれは穴だ)


 空間そのものに空いた、すべてを飲みこむ底なしの穴だ。


 そう直感した瞬間、逃げ遅れた中心付近のゴブリンが、もがく暇すらなく泥へと沈んでいく。かろうじて近くの木に飛びつき、高い場所を取ったゴブリンも無事では済まない。泥の表面から素早く伸びた黒い触手に捕まり、虚空へと引きずりこまれるように消えていく。


(獣が逃げた方向の泥が燃え上がっているな。炎の能力で必死に抵抗した痕跡か?)


 だが、無事に逃げられたのか泥に飲みこまれたのか、すでにその姿は見えない。


 散り散りに逃げていくゴブリンたちの絶叫が、森の奥へと遠ざかっていく。


(自分がいるこの大木にも、あの泥や触手が迫ってくるんじゃないか?)


 強烈な危機感を覚え、視線を真下の地面へと落とす。幸いなことにここまでは来ていないようだ。だが、強烈な違和感を覚える。


(あのゴブリンの死体が無い!?)


 視線を急いで落下地点へと戻す。――だが、そこにはもう何もない。


 戦場を覆っていたあの<黒い泥>は、まるで悪質な幻のように、跡形もなく消え失せている。そこに残っているのは、自分が転移してきた時に空けたクレーターと、焦げた地面の跡、まわりの植物に跳ねたただの泥だけだ。


(先ほどまでそこで殺し合っていたゴブリンや黒狼の死体も、流れたはずの血の一滴も、ゴブリンが投げ捨てた武器すらも、すべてが完全に消えているっ……!)


 先ほどまでの凄惨な死闘があったことを証明しているのは、地面に残された無数の足跡と焦げ跡だけである。


 そしてもう一度真下を見るが、やはりゴブリンの死体はない。あの<黒い泥>はここまで来ていたのだ。その事実に思わず言葉を失う。


 すべてを飲みこんだ森に、ふたたび静寂が訪れた。


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