第一節:渾沌乱戦【上】―― 狂気の激突
眼下でニヤつくゴブリンを討ち取るべく覚悟を決め、棒を硬く握りしめて枝から身を乗り出す。
――まさにその瞬間だった。
ボゥッ! という鼓膜を圧する爆発音とともに、眼下の隊長ゴブリンが突如として紅蓮の炎に包まれる。
「ギギャアァァァッ!?」
突然の出来事に完全に意表を突かれ、宙に飛び出そうとしていた体を立て直すためツルを強くつかみ、木の幹に身を引き寄せる。何が起こったのか。そう考える間もなかった。
(な、なんだあれはっ!?)
茂みの奥から巨大な黒い影が弾丸のように飛び出し、炎に包まれてもがく隊長ゴブリンに激突して吹き飛ばす。同胞の頭蓋骨をたやすく粉砕するほどの力を持っていた隊長ゴブリンが、抵抗すらできず、短い断末魔の叫びを上げて息絶える。
それを合図にするかのように、森のあちこちでいっせいに獣の遠吠えが響き渡る。
ツルにしがみついたまま体勢を立て直し、急いでまわりの状況を観察する。見下ろす森の各方面から、いくつもの火柱が上がっている。
(この声……さっき遠くから聞こえていた遠吠えより、はるかにデカいぞ……!)
先ほど遠くから聞こえていたものよりもはるかに重く、空気をビリビリと震わせ、聞く者を根源的な恐怖におとしいれるような恐ろしい遠吠えがとどろく。
改めて、眼下で断末魔が聞こえた方向に目を向ける。ゴブリンの頭は砕かれており、あれほど豪勢だった装飾は消し炭となっており見る影もない。その隊長ゴブリンを屠ったそのシルエットは、オオカミだ。だが、明らかにただのオオカミではない。
(ゴブリンより一回りも二回りもデカい。体長二メートルはあるか?)
暗闇のなかで眼球が赤く不気味に光り、口元からは凶悪に尖った牙がのぞいている。全身は闇に溶けこむような黒い毛皮に覆われ、チリチリとした体毛が逆立ち、首筋には立派なたてがみを蓄えている。
まさに「魔獣」と形容するにふさわしい異様な姿。ただ見下ろしているだけで、脳の奥底から本能的な恐怖がわき上がってくる。
(魔獣……邪狼……いや、見た目通り素直に『黒狼』と呼ぶことにしよう)
別の火柱が上がった方向へ視線を移す。八体ほどで構成されていたゴブリンの分隊たちにたいして、それぞれ一、二体の黒狼が猛然となだれこんでいる様子が見える。
(襲われているゴブリンたちが、さっきの隊長と同じように突然火に包まれて、陣形を崩されているな)
ということは、この発火現象はあの黒狼たちが持つ特殊な能力の仕業なのだろう。眼下では今、ゴブリンの軍隊と黒狼の群れによる、凄惨な戦闘が始まっている。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
自分のすぐ真下まで迫っていた、絶対的な危機が去る。深く息を吐き出し、こわばっていた筋肉からわずかに力を抜いて安堵する。
(冷静に状況を分析すれば、自分は当面安全なはずだ)
あの黒狼の二~三メートル近い巨体では、この複雑に絡み合ったツルや枝を使って九メートルの高さを木登りすることなど到底不可能だろう。
(あいつらが火を操る攻撃を持っていたとしても、水分を多分に含んでいる森の生木やツルを燃やし尽くすのは至難の業だ。おまけにこの高低差だしな)
重力を完全に振り切り、九メートル上空の自分へ正確に火を命中させることなど、物理的にまず不可能である。
「よし、ひとまずの安全は確保された。今のうちに情報収集だ」
太い木の枝に隠れるようにふたたび座り直し、つけっぱなしになっていたスマホのカメラを眼下へ向ける。
自分を見つけかけた厄介な隊長ゴブリンは、すでに黒狼が仕留めてくれている。ゴブリン側の軍隊は、指揮官を失った直後にこの奇襲を受けたのだ。
(人間の軍事常識から考えれば、残った雑魚ゴブリンはじきに戦意を喪失し、烏合の衆となって散り散りに逃げ出すに違いない)
できれば自分のダミーの足跡を追っていたあの部隊を仕留めてくれれば、後顧の憂いはないのだが。そう考え、真下の部隊の行方を探す。足跡を追っていた三体のゴブリンも、一匹の黒狼に襲われている最中のようだ。
(うち一体はところどころ肌が焼け焦げてる。すでに黒狼の炎攻撃を食らってるな)
だが、すでに鎮火していることから直撃は免れたのだろう。戦意が衰えている様子はまるで感じられない。むしろ両手でこん棒をしっかりと構え、好戦的に黒狼と対峙している。他の二体も逃げることはせず、やや遠巻きに陣形を組んで黒狼と対峙している。
(おかしい……。隊長があっけなくやられ、あの巨大な断末魔の声が響き渡ったはずだ)
思わず耳を塞ぎたくなるほど大きな音だったのだから、その事実がこの三体にも知れ渡っていることに疑う余地はない。それなのに、彼らは逃げるどころか戦意を高く保っている。黒狼と対峙するその醜悪な顔には下劣な笑みを浮かべており、指揮官の死などまるで気にも留めていないようである。
(一対三という数の上では、一見するとゴブリンのほうが有利に見えるが……)
ただし、体格差は黒狼のほうが三倍近くあるうえ、例の恐ろしい炎攻撃もある。さらに、黒狼のあの分厚く密集した黒い毛皮は、こん棒による打撃の衝撃を大きく分散させる。生半可な攻撃ではダメージどころか、ひるませることすら不可能だろう。
たがいに様子を見合っていた均衡が、不意に破れる。なんの前触れもなく、焦げたゴブリンの全身が二度目の炎で覆われ、その直後、黒狼が低い唸り声とともに飛びかかる。
(あっけなく焼き殺されるか……)
そう思いきや、炎に巻かれているにもかかわらず、ゴブリンは苦痛の叫び声一つ上げない。それどころか黒狼の突撃を身軽にかわし、すれ違いざまにこん棒で黒狼の頭部を思い切り殴りつける。その強烈な打撃に黒狼が体勢を崩した、その瞬間だ。
「わっ……!」
黒狼の巨体に一本の矢が突き刺さり、さらに拳大の石が相当な勢いで顔面を打ちすえ、動きをひるませる。遠巻きにしていた二体のゴブリンによる攻撃だ。一体の手には投てき用の石が握られ、もう一体はオモチャのように粗末な弓を構えている。
突撃をかわした前衛のゴブリンが立ち上がり、すかさずこん棒で追撃をかけようと走り出す。ゴブリンを包んでいた火はすでに消えつつある。だが、体のあちこちから白煙が立ちこめ、先ほどよりも皮膚が真っ黒に焼け焦げている。
(傍から見れば間違いなく致命的な重傷なのに、さっきとまったく変わらない勢いで黒狼に迫ってるぞ……!)
黒狼は、まだ体勢を立て直せていない。このまま、一匹のオオカミが小鬼の連携に狩られてしまうのか。
そう思った瞬間。横合いの深い草むらから、もう一体の黒狼が弾丸のように飛び出し、追撃に出たゴブリンの横っ腹に激突して吹き飛ばす。
吹き飛ばされたゴブリンは近くの太い木の幹に激突し、ズンッ、と木が大きく揺れる。すさまじい衝撃のせいか、ゴブリンはついに手に持っていたこん棒を落とし、そのまま重力に従って無様に地面へ転がり落ちる。
それでもなお、ゴブリンは両手を地について立ち上がろうとする。だが、その瞬間、三度目の炎がゴブリンの全身を包みこむ。
「グアアアァァァッ!」
三度も炎を浴びせられた激痛ゆえか、あるいは追撃を邪魔されたことへのいら立ちか、ゴブリンが叫ぶ。そして近くに落ちていたこん棒をふたたび拾い上げようと手を伸ばす。
しかし、そのすきを与える間もなく、黒狼がゴブリンの喉元に迫り、凶悪な牙を深く突き立てる。
(うっ……)
耳をつんざく絶叫が森に響き渡る。黒狼が頭を激しく振り回し、そのままゴブリンの首を完全に食いちぎる。あまりにも頑丈すぎる狂気の化け物も、頭部を失えば命をつなぎとめることはできない。残された体は、ビクビクと痙攣している。
あまりの凄惨な光景に思わず目を背け、残った二体のほうへ目を向ける。だが、二体のゴブリンはすでにその場にいない。
まわりを見渡すと、二体は落下地点のクレーターに展開している大部隊のほうへと合流すべく走っている。その場所を見て、絶句する。
(――なんてこった)
クレーターの周辺には、ざっと三十体はくだらない数のゴブリンが集結して陣形を組んでおり、森の奥からさらにその数は増えつつある。一方の黒狼のほうも、増援が続々と集結しており、すでに十数体ほどがゴブリンの軍隊とすさまじい死闘を繰り広げている。
あちこちでゴブリンが炎に包まれ、怒号と遠吠え、肉の弾ける音が入り乱れる。落下地点は戦場と化しており、もはや完全な地獄絵図の様相を呈していた。




