第一節:深慮潜行【下】―― 交差する視線
落下の衝撃に驚いて逃げていた獣が、もう戻ってきたというのか。全方位から反響する低くおぞましい遠吠えに、じっと耳を澄ませる。
(いや、待てよ。ただの遠吠えじゃないぞ)
よく声を聴いてみると、幾重にも重なる遠吠えは、ただ単一の音調が重なっているわけではないことに気づく。非常にわかりづらいが、一音の中に短い音程の揺らぎが確実にあるのだ。
(――これは、声だ)
ただ本能で吠えているのではない。少なくとも音声で何らかの情報をやり取りしているのは確実である。それは、彼らの間に共通のプロトコル、すなわち意思疎通の規格があることを意味する。
(人間並み、あるいはそれに準ずる知能を持った生物か!)
奴らがこのクレーターへ、斥候に来るのか見物に来るのかは分からない。声の遠さから考えると、自分の位置がすでに見つかっている可能性は極めて低い。だが、悠長にはしていられない。
この遠吠えはオオカミのものではないが、オオカミを連想させる確かな響きがある。仮に、彼らがオオカミと同格の能力を持っていたとしよう。
(そんな相手から逃れるために、巨大な木の根の隙間に身を潜めて、入り口を泥や植物で隠す? 無理だ。うまくいく気がまったくしない)
彼らの嗅覚は、驚異的に鋭いはずだ。付け焼き刃で隠れたところで、匂いですぐに気づかれるに違いない。足も絶望的に速いだろう。地上を歩き回ったところで彼らがここまで来るまでに、運よく安全な隠れ場所を見つけられるかすら怪しい。
だが、どうする。考えている間に、顔と手足にひしゃげた植物の汁と泥を塗り終わる。気休めにしかならないかもしれないが、やらないよりはマシだろう。
先ほど挙げた隠れ場所の選択肢が頭をよぎるが、悠長に立ち止まって比較検討している余裕はない。反響していた遠吠えの聞こえ方が、次第に小さくなりつつある。
「よし、行くしかない」
自分の直感に従い、行動を開始する。先ほど観察している間に見つけておいた、二メートルほどの真っ直ぐな木の棒と、ちょうどいいサイズの石を急いで回収する。
(向こうにある一番デカい木に登ろう。念のため、ダミーの足跡も作っておくか)
周りを見渡し、十数メートルほど離れた位置にあるひときわ巨大な木に向かって移動しつつ、手頃な小さめの石を数個拾い集める。目的の大木に到達すると、念のため、そこからさらに数メートルほど泥を強く踏みしめながら前へと歩く。
(よし、ここから後ろ向きに戻るぞ)
ゆっくりと体の向きを反転させ、今来た自分の足跡を正確に逆再生するように、後ろ向きに歩き始める。いわゆるバックトラック、足跡の偽装工作だ。
新たに足跡を残さないよう、一歩一歩、泥の窪みに慎重に足を戻していく。元の巨大な木の位置まで戻ろうとしている、その最中だ。
小さくなっていた遠吠えがピタリと止み、森に再び不気味な静寂が訪れる。背筋に悪寒が走る。それは今にも突撃して、背後を急襲してくることを予感させる。
(くっ、焦るな。落ち着け!)
強烈な緊張が走り、歩みに焦りが出る。だが、ここで焦って足場を踏み外し、不自然な痕跡を残してしまえば、せっかくの囮の足跡が無意味になってしまう。地面の足跡が「この大木を通り過ぎて、さらに奥へと向かっている」ように見せかけなければならないのだ。
自分は震える足をなんとか落ち着かせ、ようやく目的の大木の根元に到達する。
「袋小路にならなきゃいいけど」
誰に聞かせるでもなくそう呟くと、大木の幹に絡みついている太いツルを手がかりにして、一気に木を登り始める。
(いつ背後から飛びかかられるか、わかったもんじゃないな)
あまりに無防備な背中をさらしているという圧倒的なプレッシャーと焦燥が激しく混ざり合い、極度の現実感の喪失をもたらす。
さらに、転移直後からずっと続いている不気味な感覚の不調が重なる。その結果、全身からごっそりと力が抜け落ちていくような奇妙な感覚に陥っていく。それとは対照的に、息切れも、手足の疲労も、握力どころか手足の感覚すらまったく感じられない。
(感覚がおかしい。だが、今は無心で登るのみ――)
体は頭の指示に忠実に従い、無我夢中で枝のある高みを目指して必死に木を登り続ける。やがて、高さ九メートル付近。視界を覆う葉の層のすぐ下にある、人一人が横になれるほど太い枝に到達する。
枝によじ登り、ふと我に返った瞬間だ。これまで経験したことのないほどの異常な感覚の波が押し寄せ、視界が<割れる>。
(これはマズいっ!)
自分の中で崩れかけていた何かのバランスを必死に整えようと、目を閉じて感覚を完全に遮断したうえで、全身の力を抜く。何も考えず、ただ深く呼吸を繰り返す。
どれほどの時間が経っただろうか。ようやく波が引き、落ち着きを取り戻す。
(視界は正常に戻ったな)
恐る恐る目を開けてみると、視界は正常に戻っている。それを確認して、ひそかに安堵の息を吐く。
周りは相変わらず、音一つない。だが、この時ほど、森の静寂に感謝したことはないだろう。枝に座りつつ、再び目をつぶり、巨大な木の幹に身を預ける。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
目を閉じて、どれほど時間が経っただろうか。不意に、地面の方からざわざわとした湿った物音が耳を打つ。
(何の音だ!?)
心臓が跳ね上がるのを無理やり抑え込み、音のした方へと葉の隙間からそっと視線を落とす。そこにいたのは、棍棒や粗雑な弓を手にした、緑色の皮膚を持つ小型の異形――絵画や創作物で語られる、いかにも「ゴブリン」と呼ぶべき醜悪な顔つきをした生物たちだった。
(本当にいたのか。まるで、ファンタジーの怪物そのものじゃないか)
体長はおよそ八十センチ。腰丈ほどのシダ植物の群落から、時折その醜い頭部を覗かせている。人間の子供ほどの背格好だが、森に溶け込むようなくすんだ緑の皮膚と、異様に尖った耳が人間ではないことを明確に主張している。
転移前の空間で、あの声は「人間など家畜にすぎない」と言い放っていた。薄々予期してはいたが、やはりこの世界には、明確な悪意と敵意をもって人間を捕食・使役する知的生物が存在している。
確認できる範囲にいるのは四体。何やら濁った発音で言葉を交わしており、先ほどのざわめきは彼らの会話音だったようだ。木の上で身を潜め、やり過ごす以外に生き残る道はない。ならば、息を殺してただ震えているのではなく、この極限状態を生き抜くための情報を限界まで集めるべきだ。
自分は極度の緊張で震えそうになる指先を太ももに押し当てて抑え、ポケットからスマートフォンを慎重に取り出す。物理ボタンの誤操作を防ぎ、音と画面の光を完全に遮断した状態であること、フラッシュがオフになっていることを入念に確かめて、念のため衣服に包んで録画開始ボタンを押してから、カメラのレンズを静かに眼下へと向ける。
(あいつら、作ったダミーの足跡を見て騒いでいるのか)
木の上から神経を研ぎ澄ませて観察する。彼らが指差して騒いでいる先には、先ほど自分が偽装工作を施したあの泥の地面がある。
突然、その中の一体が高く耳障りな声で叫び声を上げ、背筋が凍りつく。こちらを指差したわけではない。見つかってはいないはずだ。だが、わずかな身じろぎすら命取りになると直感が告げている。大木の幹に背中をめり込ませるようにして、慎重に下界の動向を追う。
やがて、落下地点の方向から新たな一体が姿を現した。さらにその奥の樹間を凝視すると、八体ほどのゴブリンが、あのクレーターを円陣状に包囲して索敵を行っている姿が目に入った。統率の取れた、軍隊じみた動きだ。
(手前に来たやつ、他の雑兵とは身なりがまったく違う。石斧の作りも精巧だ。隊長か?)
他の個体はほぼ全裸で下半身に申し訳程度の布をまとっているだけなのに対し、新しく現れた個体は、全身にしっかりとした衣服を身につけ、手にしている石斧も明らかに精巧なつくりをしている。単なる野生動物の群れではない。明確な階級と統制が存在する軍勢だ。落下地点を固めているのは、この隊長の指揮下にある部隊なのだろう。
息を極限まで殺し、眼球だけをわずかに動かして周囲の空間を走査する。手前の四体とは別に、左右の茂みにもそれぞれ四体ほどの小隊が潜んでいるのが見えた。完全に包囲網が完成している。地上を逃げようとしていたら、どのルートを選んでいても確実に挟撃されていただろう。
(集団において指揮官は絶対的な要石だ。あいつがどんな性質の個体なのか、徹底的に見極めないと死ぬ!)
指揮官を潰せば烏合の衆と化す可能性があり、もし知性と損得勘定が働く手強い相手なら、生存のための立ち回りも変わってくる。震える手で構えたスマホのレンズ越しに、隊長の挙動を凝視する。
隊長は、叫び声を上げ続けていた部下に対して何かを低く言い含めているようだった。しかし、興奮しきったその部下は指示を聞き入れず、なおも甲高い叫び声を上げ続ける。
直後――メチャッ、という生々しく鈍い破砕音が鼓膜を震わせた。
叫び声が唐突に途切れ、森に暴力的な静寂が戻る。隊長が無造作に振り下ろした石斧によって、部下だったはずのゴブリンの頭蓋骨が、原型を留めずに粉砕されていた。
(っ!?)
息を呑む音すら漏らさないよう、奥歯を強く噛みしめる。頭蓋骨という人体の最も強固な骨格を一撃で叩き割る圧倒的な筋力。そして何より、話を聞く知性がありながら、意に沿わぬと判断すれば自軍の同胞すらゴミのように間引く冷酷さ。異種族である人間など、遭遇した瞬間に肉片に変えられるのは明白だ。
(しかも、他のやつらは笑っているのか?)
残された三体のゴブリンは、足元で肉塊と化した同胞を前に、怯えるどころか下劣な嗤い声を上げていた。飛び散った血糊を気にする様子もなく、死体が身につけていた革袋や粗末な骨角器の奪い合いを始めている。
命に対する価値観が、人間のそれとは根底から決定的に破綻している。対話など一切通用しない、純粋な悪意と狂気の化け物だ。
隊長は同胞の死体に群がる三体に短い指示を吐き捨てると、もはや興味を失ったように踵を返し、落下地点の方向へ歩き出した。その方角は――自分がバックトラックの偽装のために歩き、そして戻ってきたルートの直線上だ。
やがて、隊長は自分が潜んでいるこの大木の根元、まさにその真下で足を止めた。
(頼む……そのまま通り過ぎてくれ!)
幹と太い枝の隙間に可能な限り身を沈め、動脈の拍動音すら周囲に漏れているのではないかという恐怖の中で、息を完全に止める。スマホをこっそりとポケットにしまいつつ、拾った棒を握り直す。万が一見つかったらどうする。もっと上へ逃げるか? ここで迎撃するか? だが自分にできた木登りをあの膂力をもつゴブリンができないとは到底思えない。迎撃するにしても武装が貧弱すぎる。隊長は、地面に残された自分の足跡をじっと見つめている。どれほどの時間が流れただろうか。
――次の瞬間。
隊長ゴブリンが唐突に首を跳ね上げ、まっすぐに上を見据える。濁った、しかし確かな知性と残虐な悪意を宿したその瞳と――完全に視線が交差する。
(目が……合った!)
醜悪なその顔が、頭上の獲物を捉えた歓喜にぐにゃりと歪む。
直後、自分の思考はパニックと焦燥の中で極限まで加速する。上へ逃げる? 迎撃する?――違う。急襲すべきだ。この高さと重力による運動エネルギーが乗れば、ただの木の棒でも強烈な一撃になる。
高さは九メートル。落ちれば大けが、最悪命はない。だが、さっきの落下はどうだった? 一万メートルから落ちて無傷だったじゃないか。それに、運動不足の自分が疲労も息切れも感じず、ここまでスルスルと登れたのは何だ?
(重力が地球より弱いのかもしれない。それにあの『餞別』のバリアがまだ残っているかもしれない)
都合のいい妄想で、生存バイアスの塊のような暴論だ。だが、何もしなければここで確実に殺される。ゼロパーセントの死を待つくらいなら、一パーセントの生存確率に全賭けするしかない。
(この棒を直撃させて滑り降り、握力と体の摩擦で衝撃を殺しつつ、あいつの肉体をクッションにすれば……)
成功するかどうかなんてわからない。だが、一万メートルを無傷で生き延びて疲労すら感じない今のこの異常な体なら、また耐えられるかもしれない。
(指揮官を討ち取れればその首を掲げて部下を威圧し、生きていれば関節を極めて動きを封じ、人質に取る)
恐怖で凍りつきそうな思考を、無理やり暴力的な決断でねじ伏せる。イメージはできた。あとは死ぬ気でやるだけだ。幸い、ヤツはまだニヤついている。獲物を独り占めするため呼ばないのか、それとも何もできないと高を括っているのか?
覚悟を決め、重力に身を任せて飛び降りるべく、棒を硬く握りしめ、枝から身を乗り出す――




