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第一節:深慮潜行【上】―― 樹海に響く咆哮

 一通り体の動きに問題がないことを確かめると、次は周囲の状況を確認する。鬱蒼とした樹海の中は、不気味なほどの静寂に満ちている。


(見事に何もないな)


 高度一万メートルからの落下と、それに伴う爆発のような轟音。あの凄まじい衝撃に驚き、周辺の野生動物はすべて逃げ去ってしまったのだろう。


 足元の落下跡を見ると、直径二~三メートルのすり鉢状のクレーターができている。周囲の木々に突き刺さった泥や石の惨状を見るだけでも、相当な衝撃が走ったことがわかる。本能で生きる獣たちにとって、ここは当面の間、得体の知れない脅威が降り注いだ相当危険な場所として認識されているはずだ。


(ひょっとして、ここは当面は安全地帯なのだろうか?)


 予言は『一日と経たず贄となる』である。一日と言っている以上、降り立った直後の今ならさすがに大丈夫だろう。ならば今のうちに周囲を探索し、装備を整え、食料と水を確保するべきだ。


(――だが、本当にそうか?)


 思考の端に引っかかるものがある。あの声は、人間など家畜にすぎないとでも言うような口ぶりだった。


(つまり、この世界には人間を家畜として扱うような、悪意を持った知的生物が存在している。そう考えてよいだろう)


 自分がその知的生物の立場ならどうするか、逆の視点で考えてみる。たしかに、森に謎の轟音が響いた直後は本能的にまず退避するだろう。だが、その後いつまで経っても差し迫った脅威が波及してこないことがわかれば、どうするか。


(その発生源が何なのかを、見物しにこようとするはずだ。そうでなくとも、彼らが組織的な集落や群れを作っている場合、未知の脅威に対して即座に斥候を送ってくる可能性すらある)


 この仮説が正しければ、残された猶予はほとんどない。この場で今すぐにでも身を隠す必要がある。


(だが、それがまったくの杞憂であったならどうなるだろう)


 あの声は『数分で』や『一時間も経たずに』とは言わずに、『一日も経たずに』という表現を使った。おそらく、一、二時間は最低でも猶予があるはずだ。


(このくらいの時間もあれば、周囲の探索をしつつ、急造の武器や防具を整えることは十分可能だ。運が良ければ、ここよりも安全な拠点を見つけることもできるだろう。このチャンスを捨ててまで、今すぐ隠れる必要があるのだろうか?)


 どちらを選ぶべきか。だが、こういう状況で一番まずいのは、悩み続けて中途半端に行動することだ。


(――よし、今すぐ身を隠そう)


 逡巡ののち、周囲の探索よりも、隠れることを選択する。


 普段の自分なら、間違いなく周囲の探索を選んだと思う。だが、転移直後から続く得体の知れない不調は、今もなお悪化の一途をたどっている。頭に異常はなく、身体は普通に動くのだが、あらゆる感覚が鈍くなっているのだ。


(常に倦怠感と気持ち悪さを感じている。こんな状態では、探索をしても集中力を欠いて良い結果は得られないだろう)


 そのため今は身を隠すことだけを考える。決断したからには、即座に思考を切り替える。改めて周囲の状況を確認し、隠れ場所を探し始めた。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 着地直前、上空から見下ろした景色を思い出す。周囲は文字通りの大森林だ。今ここから多少移動したところで、同じような景色が延々と広がるだけだろう。


(状況も分からないまま当てずっぽうに歩くのは得策ではないな)


 何も考えずに探索しても候補が根本的に増えるわけではない。むしろ、下手にウロウロして自分の痕跡を増やすよりは、この場で周囲の観察に集中するほうがいい。隠れ場所の目処を立ててから、最小限の移動にとどめるべきだ。地面に目を向ける。足場はひどくぬかるんでおり、普通に歩けばいかにも足跡が残りそうな土質である。


(移動のルート選びも重要か)


 足跡が残らないよう極力地面を避け、木の根や石、倒木の上を通って移動する。あるいは、一歩でも動いて痕跡を残すくらいなら、いっそ一切移動せず、この場の泥の中に隠れるという手もあるかもしれない。この場で泥に潜ることはできるだろうか。


 改めて落下地点を確認する。そこには直径二~三メートルほどの、浅く抉られた真新しいすり鉢状のクレーターが出来上がっている。露出しているのは、長い年月をかけて降り積もったであろう黒々とした腐葉土と、その下にある湿った粘土質の土だ。


(この窪みを利用すれば、隠れること自体はできるかもしれないな)


 周囲に落ちている長い枝を地面に対して水平に突き刺して格子状に組む。その上に背丈ほどの大きさの葉やシダ、泥を被せれば偽装できそうだ。必要な材料はすぐ近くに落ちている。


(多少動き回る必要はあるが、箒の要領で植物を使って足元を掃けば、自分の足跡は消せるだろう)


 だが、問題なのはクレーターの周囲の状況だ。窪みの縁の植物はすべて外側に向かって放射状に激しくめくれ上がっている。さらにその外側の数メートルの範囲には、空高く吹き飛んだ泥の塊と細かい根の破片が、黒い汚泥の斑点模様をいくつも描き出している。


 転移直後から続く感覚の不調で嗅覚は利かない。だが、ひしゃげた植物から青緑色の樹液が滴っているのを見れば、本来ならむせ返るほどの青臭さや土臭さが漂っているのは明らかだ。


(こんな、明らかに何か異常なことがありましたと主張しているような場所に隠れるのは、間違っている気がする)


 だが、むやみに動き回って情報を与えるのも相当に危険である。


(別方向に向かっていったと偽装すれば何とかなるか?)


 結論を出す前に、もう少し周囲の状況を観察することにする。


 地表に目を向けると、自分の腰よりも少し高いくらいのシダ植物が密生し、そこにツル性植物が隙間なく絡みついている。


(とっさに身を隠す場所としては真っ先に候補に挙がるだろう。だが、追っ手をやり過ごし、長時間隠れ続ける場所としてはあまりにも心もとない)


 視線を少し上に向ける。周囲には、大人が数人がかりでようやく抱え込めるような太い幹が幾本も立ち並んでいる。その根元に目を向けると、太い大蛇のごとくうねる板根や、人の胴回りを軽く超える巨大な根が縦横無尽に地表を這い回っている。その巨大な根の隙間には、ところどころに大きな空洞がある。身を縮めればすっぽりと入れそうな隙間は、ざっと見渡すだけでもいくつか見つかる。


(今は拠点にできるほどの大きさの空洞はない。だが、少し探して穴を掘るなどすれば、簡易拠点になりそうな場所は見つかるかもしれないな)


 目線をさらに上に向ける。大地からそびえ立つ木々の規模は、人間の尺度をはるかに超えている。見上げれば、首が痛くなるほどの高みに、緑の天井を形作る巨大な樹冠が広がっている。十数メートル以上の頭上で枝々が複雑に噛み合い、太いツルが無数の大縄のように木々を固く結びつけている。視界のほとんどは幾重にも重なる葉の層に遮られ、太陽の光は細切れの金糸となって、うっすらと立ち込める霧の中に幻想的な光の束を落としていた。


(あの太いツルを使えば、木の上に登れそうな気はする。だが、上に逃げるのは袋小路だ。もし木の下から見上げられれば、それだけで全てが終わる)


 観察を終え、行動方針を立てる。足跡に気をつけながら、隠れられる大きさの木の根の隙間を探す。


(その移動の間に敵を発見したら、即座に木の根の陰やシダ植物の茂みに飛び込んで隠れる。目当ての隙間を見つけたら、周囲の植物や泥で入り口をカモフラージュすれば、そうそう見つかることはないはずだ)


 そう判断すると同時にしゃがみ込み、落下地点の泥やひしゃげた植物の汁をすくい上げる。そして、自らの匂いを消すために、肌へ素早く塗りたくる。


(くそっ、気持ち悪いな)


 得体の知れない泥や汁を素肌に擦り込むことに、強い生理的な嫌悪感を覚える。だが、迷っている暇などない。


 その最中だった。


 低くおぞましい遠吠えが、どこからともなく聞こえて森に響く。狼の遠吠えに似ているが、音程を二オクターブほど下げたような、今までに聞いたこともない禍々しい声だ。最初は一つだけだ。だが、次第に二つ、三つと別の方向から遠吠えが重なっていく。泥を塗る手を止め、とっさに数を数える。しかし音が重なりすぎていて、最低でも四体はいるということまでしかわからない。


(四体か、いやもっといるかもしれない……)


 声の響きからすると、まだ距離は近くない気がする。しかし、致命的な問題がある。声の方向がまったく分からないのだ。巨大な木々に音が反響しているためか、あちこちから全方位で聞こえているような錯覚に陥る。


(ひょっとすると、すでに包囲網を敷かれている……のか?)


 やがて遠吠えが止み、ふたたび不気味な静寂が訪れる。おそらく、残された時間はほとんどない。

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