第一節:天空送還
私の名前は有馬真。
あることがきっかけで会社への献身が馬鹿馬鹿しくなり、退職届を叩きつけ、しばらくニート生活を満喫していた元サラリーマンだ。
(ようやく新しい目標を見つけて、動き出そうとしていたところだったのに)
突然呼び出されたあげく、異世界へ飛ばされてしまった哀れな人間である。同意が無いという点において拉致されたといっても過言ではない。いろいろな人生の楽しみを奪われたあげく、お約束のチート能力すらもらえない。
「こんなの、あんまりじゃないか……」
それに加えて今は、全身を巡る血が重たい泥に変わって感覚が裏返ったような、ひどいだるさに支配されている。転移酔いというやつなのか、あるいは何かをされたのか。
(あまりの気だるさに、指一本すら動かす気になれないぞ)
とはいえ、周りを確認しないわけにもいかない。重いまぶたをこじ開けると、雲一つない抜けるような青空と、太陽が目に入る。反射的に顔を横に背けると、そこには一面の白い台地が広がっている。
「なんだ、ここは、天国か?」
もし神様が登場するのなら、まさにこういう景色がふさわしいのだろう。そんなことを、ぼんやりとした頭で思う。
(この白くてどこまでも続く景色。小さい頃に乗った飛行機の窓から見て、ワクワクしたあの光景そのものだ)
――そこまで考えが至った、瞬間。
「えっ!?」
ふわりと、内臓が持ち上がるような一瞬の浮遊感が体を包み込む。次の瞬間、全身を強烈な重力と、下から突き上げる猛烈な風圧が襲った。
「うおぉぉぉっ!?」
上空を見上げれば、どこまでも広がる蒼穹。そしてはるか下方に広がるのは、先ほどまで寝そべっていたあの白い台地――いや、分厚い雲海だ。轟音を立てて吹き荒れる風の中で、急速に覚醒しつつある意識を総動員し、一つの事実を理解する。
(今いるのが飛行機の高度なら――ここは高度一万メートルの上空だ!)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「うわああああああああっ!?」
加速し続ける落下速度を少しでも抑えようと、手足を広げて体勢を整える。呼吸すらままならず、鼓膜を破らんばかりに咆哮する風圧の中で、じたばたと無様にあがく。
「フライ! 浮遊! 飛べ! くそっ、やっぱり何も起きない!」
自分の中に隠された力が目覚めないかと、下に向けて手をかざしたり、腹の底に力を込めてみたり、空を飛ぶイメージを念じたりしてみるが、当然ながらまったく何も起こらない。
「ステータス! 開け! メニュー! プロパティッ!」
やけくそに思い切り叫んでみるが、結果は同じで、半透明のウィンドウが浮かび上がることはない。あの声は「チートはない」と宣言したのだ。都合よく何かが起こるはずもない。やがて分厚い雲に突入し、視界はほぼゼロになる。
(このまま死ぬのか!?)
死が秒読み段階に入った極限状態の脳内で、走馬灯のように駆け巡るのは、自分の立ち回りに対する激しい後悔だ。
(あんな変なプライドを出さなければよかったんだ!)
恥を忍んで土下座し、泣きついていれば、万が一の可能性でチート能力をもらえたかもしれないのに。そもそも、こんな上空に飛ばされることもなかったかもしれない。
「なんであのとき、プライドなんか捨てて土下座して『チートくださいお願いします』って泣きつかなかったんだ、この大バカ野郎っ!」
絶望の底で叫びながら、脳裏に浮かぶのは転移直前の光景だ。あの忌々しい空間で、謎の存在と交わした最後のやり取りを、後悔とともに嫌でも思い返してしまう。
(そういえば、あいつ、最後に何て言っていた?)
そうやって記憶を遡る中で、あの「声」が告げた言葉に行き当たる。
『神たる我が予言してやろう。お前は転移後、一日と経たず贄となり、その場で死ぬだろう』
待てよ。あいつは、わざわざ『贄となって死ぬ』と死因まで指定してきた。
(それは逆に言えば、この落下では死なないということじゃないか?)
現代地球でも、スカイダイビングでパラシュートが開かず、牧草地に突っ込んで奇跡的に助かった事例があったはずだ。森の木々がクッションになって助かった事例もあったと思う。深い茂みに突っ込んで助かった事例はあっただろうか。
(転移のとき、「餞別」って言っていたな。さすがに落下地点を調整するくらいのサポートはしてくれたということでいいのか?)
いや、今はそう信じるしかない。あの悪魔だか悪神だかは、わざわざ死因を指定しているのだ。自分をただ落下死させるような、つまらない終わり方を選ぶはずがない。
(それに、ここで無様に泣き叫び、奴をわざわざ喜ばせてやる必要もない)
あまりにも現実離れした仮説だ。しかし、ここに至るまでに立て続けに超常現象を経験しているせいか、通常なら絶対に信じないような仮説だが、かなりの信憑性を感じる。すんなりと受け入れ、不思議なほどの冷静さを取り戻していく。
「――死なないなら、今のうちに情報を集めるべきだな」
暴風に全身の動きを制限されるが、手足を広げて下を向けるように姿勢を安定させる。やがて暗く分厚い雲を抜け、視界が一気に開ける。
目の前には視界を埋め尽くすほどの緑が、地平の彼方まで広がっていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「なんだ、あれは!」
眼下に広がるその光景を前に、思わず息を呑む。一見すると、空の青さや森の緑は地球の自然に似ている。しかし、地平の彼方まで続く「それ」は、明らかに地球の地形には見られない異常な特徴を備えていた。
(完璧な直線によって、大地が容赦なく切り裂かれている)
自然の侵食が長い年月をかけて描いたような曲線ではない。あたかも、世界そのものに神のごとき巨人が鋭利な刃を叩き落としたかのような、容赦のない巨大な爪痕。それが水平線の彼方まで走っているのだ。その渓谷には、この距離からでも目視できるほど濃密な霧が沈殿している。
(霧の奥から、不気味な赤い光が明滅しているぞ。地底のマグマか?)
紛れもない、別世界。自分はもう別の世界にいるのだと、改めて冷酷な事実を突きつけられる。
「くそっ、しっかりしろ。周りの地形を頭に叩き込むんだ」
吹き付ける暴風の中で顔を上げ、はるか遠くを見つめる。天を貫くほど巨大な霊峰が連なり、その頂は分厚い雲海にまで達している。
(いったん、あの山脈の方向を北と仮定しよう)
南に目を向けると、無数の沼地や湖、巨大な台地が点在する広大な低地や平野部が広がっているのが見える。そして東西には、さっきの巨大な裂け目がどこまでも続いている。森が途切れているのは南東と南西の方角だ。南西には黄色の大地が続いている。おそらく乾燥した平原か、荒野なのだろう。南東には川が何本か流れていて、ところどころ開けた土地がある。それ以外の方角は森か山しかない。文明圏を目指すならいずれかの方角に向かうべきだろう。問題は、どう考えても渡ることが不可能どころか近づくことすら危うい東西の断崖を越えた先にしか平原が広がっていないことくらいだろう。また、見渡せる範囲のどこにも海が見えないことから、巨大な大陸の内陸部であることがわかる。
「いろいろ詰んでいる気がするのは、気のせいか?」
つい独り言が出てしまう。とはいえ、文句を言っても仕方がない。ポケットからスマートフォンを取り出す。
(猛烈な風圧で手元がブレる。だが、動画を撮影しておけば何とかなるはず)
そうこうしている間にも、眼下の鬱蒼とした森が凄まじいスピードで迫ってくる。緑のカーペットに見えていたものが、一本一本の巨大な樹木としての輪郭を帯び始めた。撮影はここが限界である。そう判断すると、撮影を打ち切り、スマートフォンを紛失しないようポケットの奥深くにねじ込む。
「頼む、助かってくれ!」
両腕で頭を抱え、体を丸めて衝撃に備える。
ヒュルルルル……
空気を引き裂くような甲高い風切り音が響く。それは秒を追うごとに低く重い轟音へと変わり、上空の空気をビリビリと震わせる。森の鳥たちが一斉に飛び立ち、木陰の獣たちが本能的な恐怖に身を竦めた、その直後だった。
ズドォォォォォンッ!!
腹の底に響くような激しい衝撃音が、静かな大森林に轟く。爆発でも起きたかのように大量の土砂と落ち葉が天高く舞い上がった。やがて、舞い上がった土煙がゆっくりと晴れていく。そこには、直径二~三メートル以上の抉られた、真新しいすり鉢状のクレーターが出来上がっていた。周りの木々の幹には、爆風で吹き飛んだ鋭い泥の塊や石が突き刺さっている。
「っ、ぐぅ」
クレーターの中心。泥だらけになって身を起こすと、ぺたぺたと自分の全身を触り、状態を確かめる。
「何とか生きてるのか? 動きに支障は……ない」
周りの様子から見ても、普通なら全身の骨が折れていてもおかしくない衝撃だったに違いない。多少体が軋み、動かしづらさを感じるものの、幸いにも四肢は繋がっており致命傷はない。
さらに、不思議なほど痛みを感じない。打撲の痛みすら存在しないのは、アドレナリンが全開になっているためか、転移直後から続く不調で感覚が鈍くなっているためか。いずれにせよ、移動に支障はなさそうだ。
(死因が指定されている以上、ただの落下じゃ死なないってわけか)
立ち上がり、周りを見回す。頭上を覆い隠す巨大な樹冠のせいで、深い樹海の中は昼間だというのに薄暗く、少し先すら見通すのが困難だ。だとすると、『一日と経たず贄となる』という予言の方も、絶対に無視はできない。まずはあの予言を覆すことだけを考えよう。そう決意し、泥だらけの拳を強く握りしめるのであった。




