第一節:理外審問
スマホで漫画を読みながら、いつものように最寄りのコンビニに向かっていた。
作品を読み終わり、次の新着を読もうと画面を操作しようとする。ふと、車の走行音や、駅の方から聞こえていたはずの電車の音が、完全に途絶えたことに気が付く。
世界がミュートされたような、不気味なほどの無音。足を止め、違和感に顔を上げるが、まったく見知らぬ場所にいることに気が付いた。
「……は?」
何年も使っている道だ。迷うはずもない。だが、目印となる建物はおろか、アスファルトの道すら見当たらない。そもそも視界が薄暗く、先を見通せない。どこかの路地か、建物の中か、工事現場にでも迷い込んだのだろうかと考え、出口を探すべく周囲の様子を見る。
全方位を確認するが出口はなく、薄暗いとはいえ、はるか先まで空間が広がっている様子が確認できる。少なくとも、目に見える範囲で壁はないようだ。では、どこから入ったというのだろうか。
また、ところどころに砂嵐のようなノイズが走っている。眼鏡の度数が合っていないとか、そういうレベルの話ではない。空間そのものに、今にも崩れそうな不安定さを感じる。
「ここは、どこだ?」
夢か、現実か。頬をつねってみるが、痛みはあるような、ないような、ひどく曖昧な感覚だ。ありえない出来事にフリーズしていると、目の前に半透明のウィンドウが浮かび上がった。
それはRPGのメニュー画面のようなデザインで、チート能力の一覧が表示されていた。『聖剣召喚』『基礎能力10倍』『万物鑑定』『全属性魔法適性』『錬金術適性』など、いかにも異世界転生ものと呼ばれるような名前の能力と、その詳細な効果がずらりと記載されている。
ようやく状況を理解する。チート能力の羅列と未知の空間とくれば、これから異世界に転生するのがお約束である。いや、死んでいないから異世界転移か? 勝手に触っていいものかとしばらく迷ったが、目の前に並ぶ魅力的な能力の数々に、結局は好奇心が勝った。
「とりあえず、下の方も見てみるか……」
リストをスクロールしようと、宙に浮くウィンドウに向けて指を伸ばした。
――スッ。
指先は、あっけなく画面をすり抜ける。触感はない。どうやら物理的なパネルではないらしい。何もない空間に投影されているようである。
指の位置を手前に引いたり、ウィンドウにギリギリ近づけたり、すり抜けた状態でスクロールしてみるが反応はしない。指をスワイプさせてみたり、手をかざして振ってみたり、手のひら全体で触れようとしたりと試行錯誤を繰り返す。
『ジ……ザザッ……!』
不意に、ウィンドウ全体に激しいノイズが走った。
「うわっ」
驚いて手を引っ込めた次の瞬間、音もなく画面そのものが消えてしまう。
「……あー。もしかして、何かやらかした?」
閉じるボタンでも誤って押してしまったのだろうか。いや、そんなボタンはなかったはずだ。何かのジェスチャーが『閉じる』と認識されてしまったか? ふと、スマホがフリーズしている途中でポチポチ触っていると、アプリが強制終了してしまう現象を思い出す。
いやいや、そんなまさかと首を振る。だとしても、そのうち直るだろうと考え、やることが無くなったので改めて周囲を観察する。
それにしても、この空間には『神聖さ』というものが欠片もなかった。薄暗い空間はただただ不気味なだけだし、荘厳さの欠片もない。女神も、天使も、親切な案内人も見当たらない。あるのはただ、薄気味悪いノイズと絶対的な虚無だけ。
この空間を作った存在がいるとすれば、相当ヤバい奴に違いない。興味本位から空間に走るノイズに近づこうとも考えるが、これ以上変なことを起こすのは良くないと考え、その場にとどまる。
やることがなくなり、とりあえずスマホを取り出そうとポケットに手をかける。
――突如として、頭上とも足元ともつかない虚空から声が響き渡る。
『――転生者よ』
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
姿は見えない。声の主は、こちらの都合などお構いなしに言葉を続ける。
『お前は今から異世界へ転生する。チート能力などは一切与えない。せいぜい足掻いて見せるが良い。あと数分で転生が始まるが、何か言っておきたいことがあれば一応聞いてやろう』
あまりにも突然で、あまりにも理不尽な宣告。普通ならパニックになって喚き散らすか、「ふざけるな!」と怒り狂う場面だろう。
先ほどまでは、あー、よくある転生ものね、と軽く考えていたが、有無を言わさぬ圧を放つ言葉に、現実感が急速に押し寄せてくる。これまで課金してきたゲームは遊べなくなり、二度と漫画の更新を見ることすらできない。動画も見られないし、ネットも使えない。たまの外食もできなくなるのか?
これから一体何を楽しみに生きればよいというのだろうか。数秒間か、あるいは数十秒か、言葉を完全に失ってしまう。
だが、脳内では突きつけられた現状を驚くべき速度で処理し終えていた。文句を言っても始まらない。
『どうした。言いたいことは何もないのか?』
深く、ひどく深いため息を吐き出した。
「はぁ……。了解です。まあ、せいぜい頑張ります」
我ながら、あまりにも緊張感のない、投げやりとも取れる返答だった。しかし、その態度が声の主の癇に障ったらしい。傲慢さと、どこかドロドロとした苛立ちが混じったような、冷酷な声が空間を震わせた。
『せいぜい頑張る、だと? 呆れた馬鹿だ。己の置かれた状況がまるで理解できていないようだな。お前が行く世界は、人類など最弱の被捕食者に過ぎない地獄だ』
声の主は、嬉々として絶望を語り始める。
『神たる我が予言してやろう。お前は転移後、一日と経たず贄となり、その場で死ぬだろう。運が悪ければ家畜として尊厳を破壊され、無惨に死ぬだろうな。お前の取ってつけたような薄っぺらい覚悟など、開始数分でへし折られるだろうよ』
その言葉には悪意しか感じられない。神を自称するなら、せめてもう少し神聖さを感じさせてほしいものだ。神聖さを微塵も感じられないこの不気味な空間。
突然人を拉致しておきながら姿を見せない卑怯さ。こちらの都合など一切お構いなしで、真っ当な説明すらしない。おそらく先ほどのチートが表示されていたウィンドウも、ぬか喜びさせるための舞台装置だったのだろう。
悪魔か悪神か、いずれにしてもろくでもない存在であることは間違いないだろう。こんな相手に噛み付いたところで、状況が好転するとは思えない。
喚いたところで、この声の主を喜ばせるだけだろう。心証を損なえば、転生すらさせてもらえずにこの場で消し飛ばされる可能性すらある。
消し飛ばされないよう期待に応えるリアクションをすべきだっただろうか。しかしながら、こちらにもプライドというものがあり、みすみす相手を喜ばせるなどしたくはなかった。それに、見方を変えれば、転生先が最悪の環境であるという「情報」と「予言」までわざわざ事前に教えてくれたわけだ。何も知らされずに放り出されるよりは、警戒できるだけまだマシと言える。
また一つ長い溜息をついてから、皮肉に聞こえない程度の嫌味を込めて口を開いた。
「へえ、そうなんですか。てっきり、右も左も分からないまま何も教えられずに放り出されるのかと思っていましたけど……わざわざ事前説明までしてくれるなんて、案外親切なんですね」
そして、頭を軽く下げた。
「ありがとうございます。参考にします」
『……は?』
声の向こう側から、素っ頓狂な声が漏れた。絶対的な理不尽と恐怖を突きつけたはずだったのだろう。
おそらく「声の主」は、チートがないことに喚き散らすか、元の場所に戻せと泣き叫ぶか、あるいは何らかの取引を持ち掛けたりすることを期待していたに違いない。
「親切にどうも」と感謝したことが、相当予想外だったらしい。
しばらく、静寂が訪れる。
あまりの意表を突かれたのか、声の主は戸惑いを隠せないまま思わず聞き返してきた。
『……お前は、狂っているのか? なぜ、これほどの理不尽を突きつけられて、喚きも絶望もせず受け入れられる?』
あまりに人間臭い、そして素朴な疑問。先ほどの声と異なる真剣な声に、しばらく考えた後、答えた。
「受け入れたわけではないですが……。理不尽なんて、生きてりゃどこにでも転がってますからね。人生ってそんなもんでしょ」
絶え間なく努力をしても、ある日突然無に帰す。そんなことはどこにでも転がっている話で、大小はあれど何度も繰り返してきた。だからといって絶望したところで、明日は容赦なくやってくるのだから、逃避であれ何であれ気持ちを奮い立たせるしかない。
異世界がどれほどのものかはわからない。だが、これまでの努力がすべてゼロになるというのなら――新たな何かを見つけるまでのことである。少なくとも自分はそう生きてきた。
ふたたび、静寂が訪れた。納得したのか、それとも毒気を抜かれたのか、声の主から漂っていた刺々しい空気が、わずかに弛緩したような気がした。
『……ふん。ならば、その言葉が虚勢でないか証明してみるが良い。これは餞別だ。せいぜい――』
言葉の途中で、唐突にそれはやってきた。
「えっ?」
体の奥底に、熱く煮えたぎった鉛をゆっくりと流し込まれるような、焼き尽くされるような鈍い激痛が走った。それと同時に、脳髄を直接かき混ぜられるような、得体の知れない情報の奔流が精神を強く揺さぶる。
「ぐ、あああっ……! あ、ぎぃぃぃぃぃぃっ!」
耐え難い痛みに膝から崩れ落ちる。全身から脂汗が吹き出し、視界が急速に暗転していく。ブラックアウトしていく意識の中、ノイズにまみれた空間のどこかから、微かな声が聞こえた気がした。
《……再構築…………救済………期待……》
激痛に耐えつつ、薄れゆく意識を必死にかき集め、血を吐くような声で最後の言葉を絞り出した。
「何かがはいっ………お前は……なにもの……だ……」
その問いに対する答えを聞く前に、意識は完全に途切れた。




