↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

28/29

黒狼断章 ◆ 泥土に残されたモノ

 生命力探知の感触を頼りに、ジルはぬかるんだ下草を蹴り立てて敵を追跡する。鼻先と目の痛みは次第に引き、焦点を結び直した視界は急速に回復していく。木立を抜けると、眼前に傾斜のきつい下り坂が広がり、ジルはその頂上へと躍り出る。見下ろす坂の下方、谷間の入り口の手前で、肩で激しく息を乱しながら足を止めた敵の背中を、研ぎ澄まされた両目がはっきりととらえる。


 敵は無防備に背中をさらし、逃走の足を止めている。この急な下り坂の傾斜と重力を味方につければ、一足飛びで間合いを詰めて圧殺できる。背後の気配を察知したのか、敵は蒼白な顔で振り返り、あわてて手にした盾を胸元に構え直す。逃走の限界を悟り、やむなく迎撃の姿勢をとったのだろう。


 先ほどよりも頑丈そうに見える。手短に草などを重ねて急造の補強を施したのだろう。だが何が防げるというのか。むしろ動きがにぶくなるだけだろう。先ほどの盾を囮にした回避の動きも同じ手は二度も通じない。回避の余地は一切ない。


(判断を誤ったな。下り坂の重力を乗せたトップスピードで反応する暇すら与えず、盾ごと肉塊へとすり潰してくれる)


 一切の容赦を捨て去り、ジルは坂の頂上から一気に大地を蹴り下ろす。正真正銘、手加減など微塵もない全身全霊の突進を開始する。傾斜を利用して一足ごとに加速を跳ね上げ、自重と運動エネルギーを極限まで凝縮させて突進する。間合いは一瞬でゼロへと縮まり、大地をえぐる轟音とともに黒い弾丸となって一気に跳躍する。


 今さら盾を固めたところで、すべては手遅れだ。構えられた盾を粉砕すべく爪を突き出し、敵の頭蓋を粉々に噛み砕くべく牙を突き立てる。


 だが衝突の極限の刹那、敵は手にした盾をジルの顔面めがけて投げ捨てる。爪でとっさに盾を粉砕する。ジルの視界が破片と飛び散るシダの葉に遮られるが、敵の体の動きは確実にとらえている。どこへ身をかわそうと、重力と速度が乗ったこの追撃を回避することはかなわないだろう。


(こんなもので隙が出来たとでも?)


 だが次の瞬間、敵の身体は左右へ飛ぶのではなく、その場に屈みこんで地面の死角に手を伸ばし、伏せていた鋭い木の棒を一気に跳ね上げるように立ち上げた。敵の体の逃げの動きに注意を取られすぎるあまり、地面に置かれていた手の動きを見落とし、一瞬反応が遅れる。馬鹿な、あの棒は先ほど明後日の方向へ投げ捨てたはずでは――驚愕するジルの網膜に、岩の根元に柄を固定され、斜め上を向いて切っ先を構えられた十字槍の穂先が映り込む。


 あの時投げ捨てたのではなく、この場所におびき寄せて待ち伏せるための布石だったというのか。このまま突進すれば、自らの体重と速度によって喉を深々と貫かれる、そう確信する。


(だが、まだ間に合う!)


 死地を前に、回避ではなく、より前に出ることを決める。先端が尖っているとはいえ、ただの木の棒であり扱うのは圧倒的に非力な存在である。首を捻じり横向きに力を加えてやるだけで、簡単に穂先が反れると確信する。多少首筋を負傷するかもしれないが、その後、牙は敵の肉体をとらえ致命傷を負うのは敵の方であることに疑う余地はない。


(勝った!)


 その刹那、敵の露出した頭から立ち上る異様な気配がジルの鼻腔と第六感を貫く。<深淵>――マグノカルシス。森の深奥に眠る絶対的な死の気配、畏怖すべき漆黒の残滓。弱小な敵から突如として放たれたその名状しがたい威圧に、ジルの戦士としての本能が一瞬、完全に硬直する。


 そのわずかな躊躇が、取り返しのつかない致命的な遅れを生む。交差の刹那、首を捻じる迎撃の動作が間に合わず、鋭利に研ぎ澄まされた木の穂先が、ジルの喉元深くへと容赦なく吸い込まれる。生肉を断ち割る激痛とともに、熱い血が喉奥へ逆流する。痛みに焼かれてなおも敵を道連れに噛み砕こうと体を捻るが、穂先の根元に頑丈に固定された十字の横木が、ジルの肉体をそれ以上前へ進ませない強固なストッパーとなって立ちはだかる。


 突進の莫大な自重と運動エネルギーを真正面から受け止め、弓なりにしなった槍の柄は、やがて臨界点を超えて轟音とともに爆発するように弾け飛ぶ。支えを失った莫大な推進力は斜め横へと弾き飛ばされ、ジルの巨躯は泥の斜面を激しく転がり落ちる。重力に引かれるまま斜面をえぐり、泥濘の谷底へと無残に投げ飛ばされる。


(すまない……シャラ)


 遠のく意識の底で、救えなかった同胞の名を呟く。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 泥まみれになって横たわるジルの喉元からは、絶え間なく血の泡が溢れ出している。首に激痛が走り、微動だにできない。立ち上がろうと前足を踏ん張るたびに、喉元深くに残された槍の折れた柄が地面に突き当たり、首を持ち上げる動きを完璧に阻害する。しかも十字の木枠が破壊されたことで、裂けた木肌の鋭利なささくれが簡易的な返しとなり、もがけばもがくほど喉の生肉を内側から無残にえぐり広げていく。


 炎により喉の異物を焼き捨てようとするが、視線を向けることができず、焦点が合わないため炎が霧散してしまう。そこで敗北を悟る。慢心や油断の末の敗北ではない。全身全霊で挑み、相手の策が相手が上回った。いや、相手の知略と覚悟が圧倒的な力の差を覆した。素直に称賛せざる得ない、ジルはそう考える。


 そして自らの運命を悟る。もはや自力で助かる見込みはない。だが、誇り高き戦士として戦い抜いたのだ。せめて無様ななぶり殺しにされることなく、尊厳ある死を迎えたい。ジルは静かに息を整え、覚悟を決めて重い瞼を閉じる。だが、いつまで待ってもトドメの衝撃は訪れない。


 ぬかるみを踏みしめて近づいてくる足音に気づき、薄く目を開ける。そこには、満身創痍のあの奇妙な生き物が佇み、ジルの喉元に突き刺さった折れた槍の柄を両手で固く握りしめている。一体何を企んでいるのか。その意図を測る間もなく、敵は全身の体重を乗せて、喉を貫く槍を一気に引き抜く。


 肉を裂く鈍い感触とともに、傷口から温かい鮮血が泥の上へと勢いよく噴き出す。馬鹿な、なぜ息の根を止めずに槍を抜いたのか。疑問を巡らせるよりも早く、生き物としての本能が肉体を突き動かす。今は止血が先だ。ジルは残された気力を喉元へ集中させ、瞬時に傷口へと炎を灯す。


 だが、すでに出血と疲労で意識が乱れており、自ら放つ炎の制御が定まらない。放たれた火花は瞬く間に全身の体毛へと燃え広がり、傷口を止血するとともに自らの皮膚を容赦なく焼き焦がす。熱と激痛に呑まれ、息を詰まらせて悶絶する。焼烙の熱によって肉を焼き固め、激しい出血はようやく泥の上で止まる。


 焦げた皮膚の痛みに耐えながら荒い呼吸を整え、薄く目を開ける。すでに周囲に敵の姿はない。ただ、ジルの目の前のぬかるんだ地面に、折れた槍の残骸が垂直に突き刺さっている。トドメを刺すでもなく、肉を奪うでもなく、ただ折れた棒の残骸を大地に刻んで去っていった。


 あれは敗者への手向けか、それとも己の勝利を刻む独自の儀礼なのか。奇妙なことに、心の中に屈辱や怒りは一切湧き上がらない。不思議と嫌な気分はしなかった。弱者でありながら強者を討ち倒し、憎悪に囚われることなく背を向けた、あの得体の知れない敵。


(俺は、あの生き物についてもっと知る必要がある)


 純粋な興味が胸の奥で静かに疼く。大量の失血によって急速に奪われていく体力を回復させるべく、ジルは泥濘に頭を預け、深い眠りの中へと意識を沈めていくのであった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
=======================================

▼ この作品の更新情報・裏話を発信中 ▼
➔ X(@reptfrag)をチェック

少しでも「面白かった」と思っていただけたら、『☆』や『いいね』、『ブックマーク』で応援していただけると執筆の励みになります!
=======================================
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。