黒狼断章 ◆ 希望に賭けた選択
洞窟の奥深く、外の光が一切届かない完全な闇の中で、はるか昔に聞いた話をシャラは思い出す。幼いころ、ひいおじい様から直接聞かされた古い記憶だ。
昔、<深淵>は森の守護者であった。我々が狩った獲物の後処理や残された死体、あるいは小鬼どもの垂れ流すゴミをすべて吸収し、大地へと還す存在であった。命の循環の象徴であり、森の生き物は<深淵>とともに生きていたのだ。
同時に、切なる願いをかなえる存在でもあった。<深淵>に呑み込まれた死体がその姿を借りて現界し、絶体絶命の窮地にある同胞を救い出すという話は子供心ながらワクワクした。逆に、理不尽な恨みを持って死んだ者が取り込まれた場合、その怨念を宿して生者に逆襲するということもあったそうな。
ゆえに、死するものに無用な遺恨を残さない。苦しませずに命を奪い、尊厳を守る。今や形骸化しつつあるものの、それがかつての一族の厳格な掟であった。
だが問題は小鬼だ。奴らは秩序を乱し、無為に死体をつくる。腹を満たすためではなく、自らの下賤な愉悦のために他者をなぶり殺す。その殺し方も問題だ。奴らの残虐さや狡猾さは、死するものに対して万感の無念や拭いがたい怨嗟を残す。
それだけではない。奴らは己の生に対して諦めるということを決してせず、最後は周囲への怨念をまき散らすかのごとく死ぬ。それに加えて、あの小鬼どもはとにかく数が多い。
そして<深淵>は善悪を区別せず、相手を選ばない。受け皿となった<深淵>には次第に無念や怨念が蓄積し、その膨大な負の感情に耐えかねて狂い、やがて生けるモノまでをも食らうようになった。
さらに生者の思念まで取り込み始めたことで加速度的に狂い始め、いまや取り返しのつかないほど無差別に死をまき散らす厄災となってしまった。そして、この話をしてくれたひいおじい様も、そのひいおじい様から昔話として聞いた話とのこと。<深淵>が狂っていたのは、少なくとも数千年前ということになる。
少なくともシャラが生を受けてから今日に至るまで、<アレ>が無害であった姿など一度も見たことはない。
(そういえば、あの人間のような姿をした、幼生体はどうなっただろうか)
暗闇の中で、シャラはふと思いだす。あれがこの森の理に従うただの人間であるなら、あの戦場で<アレ>に呑み込まれて命を落としているだろう。
だが、あのとき木の上で見かけた姿は、以前に見たことのある人間とは異なることを直感的に感じた。人間の形を模した人間ではないモノ。「人間もどき」と形容するべきだろうか。何百年生きてきて、これまで見てきた他のどの生物とも類似しない、まるで初めて遭遇する異質な感覚である。もし本当に異なる存在であるなら、<アレ>の影響を一切受けない可能性がある。
(ならばこれも、あるいは)
即座に頭を左右に振る。何を馬鹿な妄想をしているのか。この森に生きる生物である以上、等しく<アレ>に呑まれる。例外などあるはずがない。だがもし、ただの落下の様子を見に来た脆弱な生物ではなく、空からやってきた全く別の理を持つ存在であるとするなら。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
仮にそうであったとしても、今この過酷な現状を変える手助けにはならない。無意味な妄想で現実逃避するのはそろそろやめにしようと、自らの置かれた惨状を振り返る。
あの小鬼どもとの激闘の末、飛び散った<アレ>のごく一部が肉体に付着してしまった。即座に炎で焼き払おうとしたが、あの時点では連戦により体内の「力」を使い果たしており、回復を待っているわずかな時間の間に、泥は肉の奥深くまで浸食されてしまった。
内側からあふれだす激しい破壊衝動を、一時的に回復したわずかな「力」で必死に押さえつけていたが、背後から追いかけてきたジルに対して覚えたちょっとした怒りをきっかけに、破壊衝動に呑まれ暴走してしまった。そのあとの記憶はない。
気が付いたときには目の前にジルが居て、とっさに胴に刺さった矢を抜いて自我を取り戻した。そして、ジルの追跡を振り切ってこの洞窟までたどり着いた。だが、あの暴走のせいで、体内での浸食がかなりすすんでしまった気がする。
おそらく他の生き物の姿を目にしただけでも、その刺激で即座に暴走してしまう予感がある。道中、とっさに目をつぶって回避し、そのまま視界ゼロの洞窟を見つけられたので事なきを得たが、あの衝動を思い出すと寒気がする。次は確実に戻ってこれない。
そうして今は、外光の入らない視界ゼロの洞窟の奥深くで身を潜めている。何も見えていなければ、視覚刺激から破壊衝動に呑まれることはない。
ジルに声をかけられた前後の記憶は全く残っていない。だが<アレ>が体に付着した同胞の辿る凄惨な末路を、シャラは数百年前に一度だけ見たことがある。我を失ったその同胞は、仲間も小鬼も問わず、動くものすべてに狂乱のまま襲い掛かった。
最初にその牙にかけられたのは、魂の複製体、つまり自らの子だった。そのあと同胞は己の肉体が力尽きるまで仲間を殺しつくし、最後は群がった小鬼どもに殴り殺される無残な末路を迎えていた。
自分もあのとき、ジルに対して同じように狂乱のまま襲いかかったのだろう、とシャラはそう考える。かつて侵食されたあの同胞が、一度たりとも正気に戻ることはなかった。自分がこうして一時的に自我を取り戻せたのは、奇跡的な幸運だったとしか思えない。次はない、そう確信する。
そして話はこれだけで終わらない。狂った同胞と小鬼どもの死闘がまき散らした血と怨嗟が<アレ>の本体を引き寄せ、あの戦場と同じようにその場にいた者を丸ごと飲み込んだのだ。
つまり、付着した相手を狂わせたあげく、その狂気をさらなる獲物を引き寄せる生きたエサとして利用し、最後にはまとめて死体すら残さない。まさに無慈悲な殺戮兵器である。あの戦場で小鬼どもを追い払う決断がもう少し遅れていれば、飲み込まれていたのは我々だったということだ。
その凄惨な事件以来、群れには厳格な鉄の掟ができた。次に<アレ>が付着した同胞が現れたなら、仲間だろうが身内だろうが、群れの総力を持って速やかに殺す。狩りを学び始めて、まず初めに教え込まれる掟である。自分の暴走を目撃したジルは、今頃群れのリーダーに事態を報告しているに違いない。
まだ生きたいという思いはある。だが、ことここに至っては、いかに同胞へ迷惑をかけないかこそが重要だろう。シャラは決意を固める。浸食されてからあまりに時間が経ちすぎている。洞窟の周辺に、<アレ>の本体がすでに待ち伏せしている可能性も考える必要がある。
小鬼の巣穴に捨て身の特攻を仕掛けることも考えたが、道中で完全に狂気に呑まれる危険も高く、何より<アレ>が小鬼を食らってさらに強化される事態もまずい。ならば、今できることは誰も訪れないこの視界ゼロの洞窟で、ひっそりと息をひそめることだけだろう。せめてもの抵抗として、残された力で少しでも浸食を抑え込む。
いずれ尽きる力である以上、まるで意味がない行為であることは百も承知だ。だが、このまま理不尽に身を任せて呑まれるのも己の性に合わない、とシャラは考え、再び体内の泥を抑え込むことに集中するのであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
どれほどの時間が経っただろうか。外光の届かない視界ゼロの空間で、泥を抑え込むためだけに体力だけが消耗していく。いずれは立ち上がることすら動けなくもなるだろう。だが、限界まで体力を使い尽くしてしまえば、万が一狂って暴れまわったとしても大した被害はでない。そんな思いを胸に、再び浸食を抑え込むことに集中する。
だが突如として、洞窟の入り口側から硬いものがぶつかる乾いた反響音が響き、侵入者の気配を感じる。カランと小石が転がる音。外の様子をうかがうように、角度を変えて幾度か石が投げ込まれる。
シャラはこの森の中では生態系の頂点に君臨する強者である。そんな怪異の気配が充満する洞窟に対し、外から探りを入れてズカズカと入り込んでくる存在など、この森には数えるほどしかいない。そして洞窟の入り口の狭さから逆算すると、導き出される答えは一つだけである。
(しつこい奴らめ……!)
シャラの脳裏に、あの醜悪で執念深い小鬼の姿がよぎる。ここで戦闘になれば、感情の高ぶりから再び狂気に呑まれ、二度と正気には戻っては来れない。だが、無抵抗で殺されるのはもっとありえない。息を殺し、まずは様子をうかがうことにする。
だが、侵入者は奥へ向かって警戒しながら踏み込んでくることはなく、あろうことか入り口付近の壁際にそのまま座り込む。罠かと身構え、耳を澄ませてしばらく様子をうかがうが、立ち上がる気配どころか、衣擦れの音すら途絶え、微動だにしていない。前足の爪で床の小石を軽くけとばして音を立て、侵入者の足元へ転がしてみるが、何ひとつ反応しない。伝わってくるのは、深く規則正しい寝息だけである。
(まさか、寝ているのか?)
ありえない状況に、シャラは思わず絶句する。だが、暗闇の中で研ぎ澄まされた感覚が指し示す事実は、極めて明快である。圧倒的強者の気配が染み付く洞窟で、森の動物なら絶対に近寄らない場所に無警戒に侵入したあげく、音がしても小石が体に当たっても気づかないほど熟睡しているのだ。
こんな行動をとる小鬼は存在しない。そして、このような常識外れの行動をとる存在に、シャラはたった一つだけ心当たりがある。あの小鬼との戦場で、高木の枝の上にいた「人間もどき」だ。心臓が早鐘のように激しく鳴る。それは、先ほど無意味な妄想として切り捨てた、この絶望的な運命を覆し得る唯一の希望である。
(落ち着くのよ。一度冷静にならないとね)
その存在を直接確かめる必要がある。体内の泥の浸食を抑え込むために力を割いている以上、遠隔の存在力探知は使えず、物理的に接近する必要がある。だが、こちらの接近に気づかれて逃げ出されたりでもしたら、すべてが水の泡だ。それに、うっかり相手の姿を目にしてしまえば、その瞬間に殺戮衝動が暴発して発狂する。そう考えると、シャラは両目をつぶりながら、足音を完全に消して闇の中を摺り足で近づいていく。
間合いを詰めるにつれ、気配で気が付く。皮膚で感じ取れる異様な気配は、ほぼ間違いなくあの「人間もどき」だ。だが探知が使えない以上、確信までは至れない。もし見立てが間違っていれば、目にした瞬間、殺戮衝動に呑まれ完全に暴走するだろう。だが、このまま洞窟の奥深くに留まっていても、ただ衰弱して死んでゆくだけである。
(唯一の希望……か)
<アレ>から生き残ったということは、少なくとも先ほどの仮説はまるで荒唐無稽なものではない、とシャラはそう考える。鼻先わずか二十センチの距離まで間合いを詰め、息を潜めて立ち止まる。
その刹那、微睡みから覚醒しかけた侵入者の右手が、迷うように前へと伸ばされる。指先が、シャラの胸元の柔らかな毛並みに触れる。生温かい指の腹から伝わる微小な圧力。直後、侵入者の呼吸が止まり、触れた指先が石のように硬直する。
もはや迷う猶予はない。仮説を確信に変えるべく、鼻先わずか二十センチの距離で、意を決して目を開くのであった。




