黒狼断章 ◆ 殺意に燃ゆる黒炎
ジルの突進を前に、獲物は無謀にも回避を試みようとしていた。あの脆弱な足を見るだけでも、大した運動能力など無いことは明らかであり、回避に合わせて爪の軌道を微調整してとらえることなど造作もない。所詮は「力」を持たぬ非力な獲物であり、仕留めることなど朝飯前だ。どれほど油断しようと見誤るミスなどありえない、とジルは確信する。
だが回避の直前、獲物が履いていた擦り切れた靴のゴム底が、ぬかるんだ地面に足をとられて滑る。その瞬間、獲物の体幹が予想もしない不規則な沈み込みをみせ、ジルの空間予測を超えて急激に下方へ加速する。さらに獲物が背負っていたシダの葉による擬装が、正確な輪郭と距離感を狂わせる。
加えて、先刻のゴブリン戦で受けた胴の矢傷により、踏み込みの感覚にわずかなブレが生じる。結果、獲物の腕をへし折ろうと手加減して突き出したジルの腕は、空を切り、獲物が背負っていたバックパックを切り裂くにとどまる。
(攻撃を外した? まさか、俺が!?)
切り裂かれたバックパックから飛び出した粗末な網の紐が、ジルの前足に鬱陶しく絡みつき、疾走の勢いを削ぐ。
(殺さないよう手加減をしすぎたか? それにしても、この鬱陶しいツタは何だ、足を取られそうだ。いや、今は木の上へ逃げ込まれる前に追撃するのが先か!)
泥濘を蹴って即座に反転しようとするジル。だがそこに、すかさず獲物の手から追加の捕縛ネットが頭上へ被せられ、さらに分銅のついた石付きの紐がうなりを上げて首元へ巻きつく。
(くっ、なんだこれは! 動けば動くほど、複雑に絡みついて締め上げてくるっ!)
爪で引き裂こうともがくジルの顔面へ、ぬかるみから掬い上げられた濡れた泥塊が容赦なく叩きつけられる。太い眉毛に阻まれて眼球への直撃こそ免れたものの、顔面を泥で汚された屈辱と、鼻腔を満たす生臭い泥の臭気に頭の芯が沸騰しそうになる。
(こんなツタ切れ、まとめて燃やし尽くしてしまえばいい!)
全てを燃やす必要はない。絡みついている前足と首元の紐だけを局所的な炎で焼き切れば、あとは力任せに引きちぎれるはずだ。そう判断したジルは、皮膚の表面から微小な火花を放ち、腕に絡まるツタへと点火する。
だが次の刹那、ロープの強度を保つために塗り込まれていた可燃性の植物樹脂が、ジルの火花に過剰反応して爆発的に引火する。ボウッと凄まじい轟音とともに火柱が跳ね上がり、たちまちジルの巨躯全体が紅蓮の炎に包み込まれる。
『熱っ! いったい何が起こったんだ!』
驚愕と痛熱の咆哮が森の木々を激しく震わせる。考えるまでもない、あの矮小な獲物が何か細工をしていた以外にありえない。
すでに炎は体毛の奥へと燃え移り、皮膚の表面をじりじりと焦がし始めている。泥に体をこすりつけて消火するなどという悠長な真似をしていれば、その隙に獲物は木の上へと逃げ去ってしまうだろう。そうなれば火で焼く以外の選択肢がなくなり、生け捕りはほぼ不可能になる。
拘束していたロープは激しい炎で瞬く間に炭化し、力任せに引きちぎるまでもなく崩壊している。ならば、全力で前方を駆け抜ける突進の風圧で炎を吹き消しつつ、逃走を図る獲物へ即座に手傷を負わせるのが最善だ。
幸いにも、正面の獲物は粗末なシダの盾を構え、逃げることなく迎撃の構えをとっている。
(先ほどは足を滑らせて運よく回避できたようだが、今度こそ真っ向からねじ伏せてくれる!)
獲物が盾を固めたのを見届け、ジルは地響きを立てて突撃を開始する。体表の炎を吹き消すため、先ほどよりも格段に速度を上げた猛烈なトップスピードで間合いを詰める。
速度が増している分、先ほど以上に浅く当てなければ、衝突の衝撃だけで獲物の脆弱な肉体を粉砕してしまう恐れがある。そこでジルは、攻撃目標を獲物の肉体そのものではなく、構えられた盾へと絞る。盾をかすめるように爪を立てれば、盾は砕け散り、その強烈な余波で腕の骨をへし折って出血させずに無力化できるはずだ。
だが獲物は、盾を持つ腕を前に突き出して囮に使い、衝突の寸前に自らの体幹をすれすれで横へと滑り込ませる。さながら闘牛士が赤い布で猛牛の突進をいなすかのような動きだ。ジルはその動きを瞬時に見切り、横へ逃げる腕を逃さぬよう空中で爪の軌道を鋭く合わせる。
本来であれば、獲物の反応速度では到底回避が間に合わない絶妙のタイミングだった。だが、隙間だらけで防御力皆無のスカスカの盾は、ジルが突撃の自重で巻き起こした猛烈な突風と熱気の圧力に耐えきれず、爪が接触する直前に外側へと弾き飛ばされる。その反作用で獲物の腕が爪の射程外へと奇跡的に押し出される。
獲物の肉体を直接狙っていれば、確実にその場で息の根を止めていただろう。だが結果として、獲物は二度もの回避を成し遂げ、ジルは自らの目を疑うほどの激しい動揺に襲われる。
(一度なら運もあるだろう。だが、二度の偶然はありえない! これは、油断していい相手ではない!)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ジルの獲物に対する警戒度は一気に跳ね上がる。まずは不用意な接近を避け、距離を取るべきだと判断してそのまま数十メートル前方へと駆け抜ける。
体毛に着火していた炎は、全力疾走の風圧と、足元の草むらに擦りつけた泥水のおかげで急速に鎮火していく。表面の毛こそチリチリと焦げて抜け落ちたものの、芯まで焼かれたわけではない。火の勢いは次第に弱まり、燻る煙へと変わる。
十分距離を取って振り返ると、獲物は地面に落としていた二メートルほどの細い木の棒を拾い上げ、こちらに向けて投げつけてくる。先端は尖っているように見えるが、この間合いである。回避は余裕だし、当たったところでまるで問題はない。
だがあの狡猾な生き物のことだ、何か罠があるかもしれない。ジルは身構え、飛来する棒を鋭い眼光で注視する。だが、放たれた棒はジルの立ち位置から大きく逸れ、明後日の方向の草むらへと虚しく突き刺さる。あまりに無様な投擲の軌道に、ジルは思わず鼻先を鳴らして嘲笑する。
だが、安堵したのも束の間。棒を投げた放物線とは別に、時間差で真上から落ちてきた石が、ジルの頭頂部へ正確に直撃する。正確には石のように固められた樹脂の塊である。直後、鎮火しかけていた体表の炎が、油を注がれたようにボッと凄まじい勢いで再燃する。
何が起こったのか理解できず、思わず頭上を見上げるが、そこにはただ鬱蒼とした木々の枝が広がるばかりだ。いや、あの生き物が棒を投げる動作と同時に、視線を逸らす囮として高く放り投げていたのだと直感する。まんまと誘導されて視線を逸らした己の愚かさに激怒し、爛々とした眼光を獲物へ突き刺す。
しかしその瞬間、地面スレスレの死角からアンダースローで振り抜かれた何かが、猛スピードで飛来する。回避行動をとる間もなく、ぐちゃりという生々しい破砕音とともに、腐りかけた熟れた果実がジルの鼻先と両目の間へクリーンヒットする。
(ぐあっ……! 目が、鼻が……っ!)
酸味と腐敗臭の混ざり合った刺激的な果汁が粘膜を焼き、鋭敏な嗅覚が麻痺するほどの激痛と悪臭が脳髄を直撃する。あまりの痛熱さに視界が真っ白に染まり、ジルは前足で必死に顔面を擦りながら悶絶する。
視界が塞がれる中、前方の森に人間のけたたましい叫び声が響き渡る。
「ヘッドショット!!!」
痛む目を薄く開けると、獲物は指先をこちらに向けて変なポーズを決め、こちらに向けて嘲弄の笑みを浮かべている。声を出せないはずの弱者が、自慢の体毛を焼かれ、泥と果汁で顔面を汚されてのたうち回る自分を、心底から嘲笑しているのだ。こちらが睨むと慌てたように逃げ出す。
(なんだ! なんなのだ、あの矮小な生き物は!)
弱者であるならば、弱者らしく恐怖に震えて逃げ惑うべきではないのか。挑むなら正々堂々と命を懸けて牙を交えるべきであり、姑息な真似をするくらいなら最初から泥濘を這い蹲って命乞いをすればいい。正々堂々と戦うのかと思えば回避し、愚弄し、侮辱した挙句、みっともなく逃げ出するなど、到底許されるはずがない。
その悪辣さと卑劣さは、森の忌むべき天敵たるゴブリンどもの姿をありありと想起させる。いや奴らの嘲笑や侮蔑はあくまで戦うための手段であり、無様に逃げ出すことはしない。一方あれは何だ。どうせ逃げるなら全く意味のない行為だ。それに、ゴブリンですらここまでの嫌がらせはしてこない。
小鬼どもよりはるかに醜悪な目の前の「敵」を、このまま生かして逃すことなど、己の血と誇りが断じて許さない。シャラのための生餌がどうなどという計画は、もはや完全に消し飛んだ。ジルの頭の中で、ただの「獲物」から明確な「敵」となる。
この場で噛み砕く。肉の一片すら残さず、完膚なきまでに叩き潰して絶対に殺す。食べることすら汚らわしい。ただ許せないから殺す。そう決めた。だが、視力はまだ完全には回復しない。
この状態で不用意に追撃を仕掛け、下手にさらなる反撃を食らっては誇りどころの話ではない。今度こそは絶対に逃しはしないし、手加減など微塵もしてやらない。一切の油断を排除し、確実に葬る。敵は視界から消えるものの、生命力探知で敵の姿は確実にとらえている。焦る必要はない。
回復しつつある視力で、敵の向かった方向を見据える。幸いにも、あの生き物が脱兎のごとく逃げ出した先には急な下り坂が広がっている。
(下り坂の中腹にたどり着いた時がお前の最後だ。ヤツが対応できない速度で一気に力で押しつぶす。ここまでコケにした代償を払わせてやる)
ジルは灼熱の殺意を全身から立ち上らせながら、敵を追跡するのであった。




