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黒狼断章 ◆ 奇襲の交差

 ジルは群れとは逆方向に走るシャラを追いかけ、夕闇が迫る森の樹間を駆ける。急速に日が落ちていくなか、荒い呼吸を繰り返しながら、やっとのことで前方に立ち止まるシャラの背中を捉えて追いつく。すでに足腰には疲労が溜まり、息も絶え絶えである。一方のシャラは、その場で硬直したように立ち止まっていた。


「いったいどうしたんだ」


 ジルが荒い息の合間に問いかけると、シャラは視線を合わせようともせず、後ろ向きのまま低く喉を鳴らして唸り声を上げ、この場から消え失せるように告げる。なにいってるんだ、どこかケガでもしているのか、と訝しんだジルは、様子を確かめるべくシャラの目の前に回り込む。


 シャラの様子を正面から見据えると、顔を地面へ向け、巨大な体が小刻みに激しく震えている。


「やっぱりなにか……」


 そう言ってジルが案じて近づこうとした瞬間、その全身の震えがピタリと静止する。いったい、と思ったのも一瞬、シャラは前触れもなく獰猛な牙を剥き出しにしてジルへ襲い掛かる。あまりに唐突な凶行に回避がコンマ数秒遅れ、鋭い爪がジルの腕を浅く引き裂く。


「くっ」


 とっさに上体を引いていなければ、首の骨ごと跳ね飛ばされていた一撃だ。いくら怒りや焦燥に駆られていたとしても、同胞に対して即死級の攻撃を仕掛けるだろうか。よく見るとその両目は血走って濁り、半開きになった口端からは濁った唾液が糸を引いて滴り落ちている。かつての冷静沈着なシャラとは似ても似つかない異様な佇まいから、何かに蝕まれ、明らかに正気を失っている様子が見て取れた。


「まて、俺だ! ジルだ!」


 裂かれた腕の痛みを堪えてかばいながら、必死に正気に戻そうと言葉を投げかける。だがシャラはその隙を見逃さず、影が溶けるように一瞬でジルの視界から姿を消す。


(まずい。次が来る!)


 来るとすれば上空からの強襲か、あるいは死角となる左右の木陰か。全身の毛を逆立てて最大限に警戒する。瞬間、右側の草むらで微かに何かが動く音が耳朶を打つ。不意を突かれたとはいえ、我を忘れて正気を失った者の単調な突進を見切ることなど容易い。


 迎撃と回避に備え、左側へ飛び退こうと前足に力を込めながら、右側の茂みへ鋭い視線を向ける。だがそこには獣の姿など何もない。代わりに、直線状に細い熱風の煙が立ち上っている。


「まさか!」


 熱気による偽装だと直感し、とっさに真逆の左側へ目端を走らせる。そこには気配も音もなく肉薄していたシャラが、すでに喉笛へ届く一息の距離まで迫っている。ジルの重心はすでに右からの攻撃を避けるべく左側へ大きく傾いており、ここからの体勢の立て直しは絶対に間に合わない。剥き出しの牙は、確実に首をもぎ取っていくだろう。ならば、この傾いた運動エネルギーのまま、頭部から体当たりを仕掛けるほかあるまい。


 そう瞬時に判断したジルは、残されたわずかな時間で頭突きの体勢を取る。おそらく急所である喉元の肉は深く噛みちぎられる。だが、頭蓋さえ砕かれなければ即死は免れるはずだ。その痛みに耐えた一瞬の隙に全身の質量で組み伏せ、力任せに押さえつけて動きを封じる。そう冷徹に計算し、死線の覚悟を決める。


 だがジルが身を挺して頭突きの体勢を取ったことで、その胴の側面に突き刺さっていたゴブリンの矢がシャラの視界に映り込む。その瞬間、シャラの全身から迸っていた狂乱の敵意が、嘘のように霧散する。シャラはジルの捨て身の頭突きを風のように華麗にひらりと躱すと、交差するすれ違いざまの刹那、ジルの胴に刺さっていた矢を周囲の肉ごと正確無比にえぐり取る。さらに間髪入れず傷口へ精密な炎を走らせて瞬時に止血を施すと、着地した勢いのまま振り返ることもなく夜の森の奥へと走り去っていく。


 残されたジルは、血煙のなかでしばらくあっけにとられる。熱風を用いた高度な陽動。死を覚悟した自らの捨て身を軽くいなされたこと。唐突に霧散した殺気。そして目の前で見せつけられた神業のような技術。


 あの一瞬で痛覚の元凶たる矢を肉ごと削り取る空間把握、傷口だけを焼き塞ぐ極小の炎の制御、それでいて疾走の体勢を一切崩さない強靭な体幹。群れにいる他の同胞で真似できるものなど、数えるほどもいないだろう。まさに卓越した技の極致だ。


(間違いない。完全に我を失ったわけじゃない。まだ正気は残っている)


 今すぐ全速力で追いかけて事情を質したい衝動に駆られる。だが、再び不用意に追いつけば同じ凶行が繰り返される危険が高い。次こそは正気を取り戻せず、本当に互いの命を奪い合う破滅へ至るかもしれない。とはいえ、重傷を負って錯乱するシャラをこのまま放置して、自分だけ群れのもとへ帰還するわけにもいかない。


(あの頭の固いリーダーにこの異常事態を報告したところで、群れの安全を優先して処分を言い出しかねない)


 ジルは息を整えると痛む腕に力を込め、シャラが走り去った闇の奥へ向けて、気配を殺しながら静かに追跡を開始する。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 追いかけている事実をシャラに悟られないよう、一定の距離を保ちながら進んでは立ち止まり、大気中に漂う存在力探知を慎重に繰り返す。幾重にも神経を研ぎ澄ませて痕跡を辿り続ける。翌日の昼過ぎ頃になって、ジルはようやく微かなシャラの気配を捉えることに成功する。


 そこは、昨日の戦場のほぼ真南に位置する、木立と岩肌に隠された自然の洞窟である。遠巻きに漂ってくる生命力の波長を確認してみるが、昨日よりも明らかに弱まっている。だが、これ以上不用意に間合いを詰めれば、鋭敏なシャラに接近を気取られてしまうだろう。


 また、この一帯は小鬼の生息域にも近い。大声で呼びかけて刺激すれば、周囲の敵を引き寄せる致命的なリスクがある。特にシャラの体力が著しく消耗している今、無用な騒乱を招く選択肢はあり得ない。だが、自分に何ができるのか。自問自答するなか、ジルは自らの腹が激しい飢餓感で鳴っていることに気づく。


 あの激戦から丸一日以上、何も口にしていないのだ。ならばシャラも同じように、腹を空かせているに違いない。あの生命力の低さだ。獲物を狩る体力も残っていないのかもしれない。しかし、仕留めた肉を洞窟の前に直接置いたところで、警戒して巣穴を捨てて逃げ出すかもしれない。それどころか、再び錯乱して襲いかかってくる危険すらある。


 ならば生きた獲物をあの洞窟のなかへ追い込み逃れられないようにしよう、とジルは考える。だが、周囲の状況を思い返して思考を巡らせる。ここへ至る道中で何度も周囲を探知したが、森には生き物の気配がほとんどない。『アレ』が現れた影響もあるだろうが、ここはあの恐るべき気配がする断崖にもかなり近い。都合よく手頃な野生動物を見つけるのは至難の業だ。


 ふと、あのゴブリンとの戦場の最中、高木の枝の上から戦況を見下ろしていた奇妙な生き物の姿が脳裏に蘇る。存在力は欠片も感じられないのに、なぜか生命力だけは異常なほど満ち溢れていたあの存在。肉付きもよく、滋養をつけるための獲物としては極上の食べ応えがあるはずだ。洞窟に閉じ込めて少しずつ喰らわせれば、動かずに体力を回復させる糧として一週間は持つかもしれない。


 あの見るからに鈍重で脆弱な生き物であれば、誘導して洞窟へ追い込むことなど造作もない。『アレ』に呑まれて命を落としていないかという懸念はあるが、高所に居たのだ。対象外となっていた可能性は十分に高く、探しに戻る価値はある。そう決断を下すと、ジルは戦場跡の方向、すなわち北へ向かって静かに歩き出す。


(そういえば、あの獲物は器用に高い木へ登っていたな。生餌として追い込む前に、木の上へ逃げ込まれないよう両腕をへし折っておく必要があるな)


 北へ向かいつつ何度か生命力探知を走らせていると、案の定、木立の間を歩くあの生き物の反応をすぐに見つけ出すことに成功する。まさにジルの想定である。ゴブリンや同胞たちが退却していった東西へ逃げるはずがない。また北の深奥には凶暴な竜が潜んでいる。逃げ場を失った脆弱な獲物が向かうとすれば南しかないと当たりをつけて索敵していたが、その読みは見事に的中する。


(思った通りだ。実に見通しやすい獲物だな)


 そうほくそ笑みながら、木陰から遠巻きに歩みを進める獲物の姿を冷静に観察する。見るからに脆弱そうな皮膚で、なんの力も持たない非力な存在。牙で噛みつけばその場で即死し、鋭い爪をまともに当ててしまえば肉が吹き飛んで致命傷になることをジルは確信する。


(それでは困る。シャラのいる洞窟へ辿り着くまでは、生きて自力で歩いてもらわねばならない)


 爪先ではなく太い前腕の面をぶつけ、地面へ転がす程度の手加減がちょうどいい塩梅だろうと目論む。その衝撃で獲物の腕をへし折ってしまえば、高い木へ登って逃げ延びる手段を確実に封じることができる。仮に骨が折れなくとも、木に足をかけようとした瞬間に炎で周囲を脅せば済む話だ。最初の一撃で反撃の気力を根こそぎ奪い、あとは背後からじわじわと圧力をかけ、シャラの待つ洞窟へと追い立てる。


(実に容易い。狩りですらない作業だ)


 この程度の無力な獲物に対し、小細工や罠を用いる必要など微塵もない。だが、せっかくの機会だ。先ほどシャラに一杯食わされたあの鮮やかな目眩ましを、練習がてら試してみることにする。


 獲物は南へ進んでいる。ジルは先回りをして獲物の進行方向の斜め前方、南東の木立の影に身を潜める。そして、絶妙のタイミングを計り自身が潜む位置とは真逆の方角、獲物の右後方にあたる北西の草むらへ微細な火を走らせて熱風で揺らす。


 獲物は過剰なほど敏感に反応し、草の揺れた方向へ視線と盾を向け、茂みに身を屈めて立ち止まる。自身が身を伏せる位置とは完全に真逆の方向へ、獲物の警戒を釘付けにすることに成功する。笑ってしまうほどの完全な隙だ。


(まるで隙だらけだ。音もなく忍び寄るまでもなく、軽く突進を当てるだけで狙い通り無力化できる)


 だが、ここまで無力で隙だらけの相手に対し、騙し討ちを使う必要があるだろうか。そんな考えがよぎり、ジルは躊躇する。これほどの力の差があって、さらに騙し討ちなど取るべきだろうか。迷いが頭を駆け巡る。


 そうこうしているうちに獲物は北西を警戒しながら後退している。じきにこちらを振り返るだろう。まだこちらには全く気づいていない。そして決める。ジルは隠密を解き、堂々と立ち上がる。卑怯な手は使わない。相手が気づくのを待って狩ることを決断する。


 やがて獲物がふと視線を左斜め前へ向け、暗がりの中に佇むジルの輪郭を捉える。獲物の足が止まり、息を呑む気配が伝わってくる。交錯する視線。ジルは唸り声すら上げず、威圧するように泥を踏みしめ、獲物との距離をじりじりと詰める。


 二十メートル、十五メートル。


 獲物の瞳孔が開き、手にした粗末な盾が硬直する。逃げ場を完全に塞いだことを確認し、ジルは冷徹に呼気を吐き出すと、生かさず殺さず腕を叩き折るべく、泥の大地を力強く蹴り上げる。


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