第二節:暗夜逆探 ―― 爪痕のゆくえ
墓標を残した谷底を去ったのち、斜面を迂回し黒狼と最初に遭遇した場所まで慎重に戻る。あの黒狼がどこから来たのかを探るためである。
周囲の草むらやぬかるみを捜索すると、泥の表面に深く刻み込まれた巨大な足跡をすぐに見つけることができた。その凶悪な爪先が向いているのとは逆の方向――つまり、黒狼がやって来た痕跡へ視線を向ける。泥濘に残された凹みを一つひとつ確認しながら、その足跡を逆に辿って歩き始めた。
(あの黒狼は群れから離れた「はぐれ」に違いない)
ならば、この執拗な足跡をどこまでも辿っていけば、奴が雨風をしのいでいた寝床に必ず行き着くはずだ。
そう判断する理由は二つある。第一に、昨日の苛烈な戦いの中で見た黒狼の群れは、統制を保ったまま東へ逃走していたからだ。すでに回収したとはいえ、昼の時点では現場に奴らが本能的に恐れる<黒い泥>がいくつも残されていた。あれほど<黒い泥>を嫌悪して逃げ去った群れの生き残りが、わざわざ危険を冒して西側へと舞い戻ってくるとは到底思えない。
第二に、先ほどの戦闘中、あの黒狼は仲間を呼ぶような咆哮を一切上げず、周囲から別の黒狼が集まってくる気配もまったくなかった。仮にあの群れが戻ってきたとして、ゴブリンと激闘を繰り広げたばかりの地帯で単独行動するとも考えにくい。
(だとすれば、群れから離れ、この一帯を単独で縄張りにしていた「はぐれ」と考えるのが妥当だろう)
身につけた<漆黒シリーズ>の忌避効果が効かなかったのも、極限まで飢えていたからかもしれない。あるいは群れを追われるほどの狂暴な性質ゆえに、不快感を無視して突撃してきたからだろうか。
そして「はぐれ」であるとするなら付近に黒狼が使っていた拠点があるはずだ。あえて危険な足跡を追う最大の目的は、黒狼の寝床を今夜の拠点として利用することにあった。急速に日が暮れつつある以上、一刻も早く安全な寝床を確保しなければならない。
あの黒狼は紛れもなく、この森の頂点捕食者の一角だった。強者の縄張りの匂いが色濃く残っている間は、ねぐらの周囲に他の危険な生物も恐れて近寄らないはずだ。
昨日から鳥の鳴き声一つ聞こえないのはここまで歩いてきても変わらない。例外はあの黒狼である。だとするなら必要以上に地上を恐れて木の上で休むというのも考え物だ。木の上は落下のリスクがある上、木に身を縛り付けておくためのロープすら今はない以上、眠れない。そして落ちないよう力を抜くことはできないので、ほとんど疲れは取れない。
そんな状態を翌日まで持ち越しては、本当に力を発揮するべき場所で力がでないということにもなりかねない。ならば今夜は危険を冒してでも地上で休息をとる。欲を言えば、雨風を防げる地上で確実に疲労を抜き、明日の行動に万全の状態で備えるべきだ。
昨夜は徹夜で作業に没頭したうえに、苦労して作り上げた装備の大半を先ほどの戦闘で失ってしまった。明日から再び道具を作り直すためにも、今夜はどうしても体を横たえて休める場所が必要だった。
ぬかるみに刻まれた爪痕を追って森の奥へ進んでいくが、急速に暗くなり、すぐに肝心の足跡を見失ってしまう。ここまで劇的に視界が悪化すれば、探索をいったん打ち切り、翌朝に回す選択肢も頭をよぎる。
しかし道具を喪失した焦燥感に加え、限界を迎えた体からも、安全な寝床なしで立ち止まる余裕はない。 <漆黒シリーズ>による感覚遮断のおかげで手足の痛みは感じないものの、蓄積した疲労と日中の過酷な移動、そして死闘による肉体の損耗はすでに限界をはるかに超えているはずだ。今もし装備を外して感覚を取り戻せば、激痛と疲労で一歩も動けなくなる恐れすらある。
幸い、闇に紛れて見失う直前までの足跡は、尾根の地形に沿って北東へ一直線に延びていた。これだけ真っ直ぐな軌跡であれば、方位磁石の示す方角さえ維持して進めば目的地に到達できる可能性はかなり高い。
完全に視界が閉ざされ一歩も歩けなくなるまで、一か八か探索を続けることにする。あの巨大な黒狼を倒した際のねっとりとした返り血や、焦げた獣毛の臭いが、今の体には強くこびりついているはずだ。それは下位の獣たちにとって頂点捕食者の威嚇臭として働くため、今夜一晩を無防備な地上で過ごすリスクは低く抑えられるはずだ。
(だが、もし近くに別の黒狼が潜んでいた場合、同胞の血の臭いは真っ先に怒りを買い狙われる原因にもなる、か)
その最悪の懸念を振り払うように、痛む足に鞭打って歩調を速める。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
やがて数歩先すら判別できないほど暗くなり、前進はついに限界に近づく。これ以上勘に頼って歩けば、斜面の深い亀裂や崖から真っ逆さまに転落しかねない。
ふと足元へ視線を落とすと、巨木の根元に巨大な板根が幾重にも広がっているのが目に留まる。あの板根の隙間に潜り込んで震えながら夜を明かすべきか、それとももう少しだけ奥へと進むべきか。
焦りと激しい疲労の中で葛藤しながらよろめくように数歩進んだとき、岩壁の根元にぽっかりと開いた黒い空洞を見つける。入り口は大人が二人並んで通れるほどの幅があり、あの巨体の黒狼なら十分に入れる大きさだ。
洞窟の内部の様子は外からでは一切確認できない。
安全を確かめるため、入り口の正面を避け、近くの茂みに息を潜める。足元の石を拾い、奥へ放り投げる。石は内部の岩壁にぶつかり、乾いた音を立てて手前へと転がり落ちてくる。
反響の間隔の短さから、内部は広いダンジョンのような空間ではなく、奥行きの浅い単純な構造だと分かる。角度を変えてさらに数個の石を連続して投げ込むが、反響音はいずれも短く、空間自体が広くはないことを示している。
入り口の狭さから見ても、せいぜい巨大な獣が一頭、丸くなって横たわれる程度の広さとみて間違いなさそうだ。
念には念を入れ、最奥を狙ってさらに大きめの石を投げ込み息を殺すが、怒れる唸り声も這い出てくる足音もまったく返ってこない。
(やはり、あの「はぐれ」が使っていた空き家である可能性が極めて高いな)
空の残光も完全に消え去り、漆黒の夜が森全体を覆い尽くすまでもう数分もない。
肌を刺すような冷たい夜気の中、空き家だと信じて意を決し、暗い洞窟の中へと足を踏み入れる。しかし、無警戒に最深部まで踏み込むべきではない。
密閉された洞窟の底には二酸化炭素などの有毒ガスが滞留しやすく、一息吸い込んだだけで意識を失う危険が潜んでいる。それに暗闇の中でスマートフォンのライトを点灯させれば、外にうごめく夜行性の生物に格好の標的を晒すことになる。
外気が通り抜ける入り口のすぐ内側、冷たい岩肌に背中を預け、冷え切った泥の上に直接腰を下ろす。
重力に逆らうのをやめ地面に体を預けた瞬間、極限まで張り詰めていた緊張がとうとう糸が切れるように解け、重く抗いがたい睡魔が一気に押し寄せてくる。
(何か、まだ確認し忘れていた重大な事柄があったような気もするが)
重い鉛のようになった瞼を持ち上げる力すら残っておらず、そのまま深く暗い眠りへと落ちていく。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――冷え切った夜気の中、岩肌の隙間から差し込むわずかな青白い月明かりで、ふと意識が覚醒する。
入り口の方角から微小な光が差し込んでいるはずなのに、なぜか正面の視界だけが不自然に、真っ暗に塗りつぶされている。何かが、月明かりを遮っている。
ひどく寝ぼけた頭のまま確かめようと、前へ向けて恐る恐る右手を伸ばしてみる。
指先が触れたのは、冷たい岩の感触でも、湿った泥の感触でもなく――柔らかく、生温かい獣の毛並みである。自分の鼻先から、わずか二十センチメートルほどの至近距離に、何者かが存在している。
状況への理解がまったく追いつかず、微睡みの中で夢の続きかと感触を確かめるように指を滑らせていると、漆黒の闇の奥に、突如として二つの赤い瞳がぼうっと浮かび上がる。
心臓が警鐘のように大きく跳ね上がり、一気に完全な覚醒へと引き戻される。しかし悲鳴を上げることも逃げ出すこともできず、指先をその柔らかな毛並みに置いたまま、呼吸を忘れて全身を硬直させる。
圧倒的な質量を伴う闇の奥から、こちらを見下ろす双眸。
(そんな……バカな)
それは間違いなく――黒狼だ。
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