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第二節:死闘解謀 ―― 最弱の戦理

 斜面をえぐるように深く崩れた黒狼のの滑落痕を追いながら、先ほどの戦闘について振り返る。十字槍の先端を交差させて固定していたおかげで、切っ先が過剰にめり込まず、槍の根元まで突き刺さらずに済んだ。


 おそらく穂先に何も噛ませていなかったら、勢いに任せて槍の奥深くまで肉体を滑り込ませて突き刺さり、至近距離で火の巻き添えを食らっていただろう。それに槍がへし折れて投げ飛ばされるまで、その赤い瞳に宿る戦意は全く衰えていなかった。もし十字の横木が強固なストッパーになっていなかったら、そのまま前腕を振り抜かれ、鋭利な爪で頸動脈ごと引き裂かれていたかもしれない。


(残心か……)


 黒狼には、こちらを安全に処理する方法がいくらでもあった。遠距離から視線発火で直接こちらを燃やしてもいいし、周囲の草木に火を放って熱風と煙で取り囲み窒息させてもいい。


 牙を使わずとも、強靭な爪でじわじわと嬲るように弱らせるもよし、あの規格外の体格で頭突きでもされれば、背後の大石に叩きつけられるまでもなく内臓破裂で致命傷だろう。相当な硬度を持つこの木の槍でも、あの分厚い頭蓋骨を貫くイメージは全くできないし、腕の肉を浅く刺せたところでその巨体は止まらないだろう。


 彼我の戦力差は歴然。付け焼刃の原始的な武装でどうこうなるものでもない。相手は三メートル近い巨大な体躯に、遠隔から対象の周囲に炎を発生させる視線発火のチート持ち。走る速度は人間をはるかに凌駕し、噛み砕く牙の圧力は獲物の骨を粉々に粉砕する。


 しかもここは相手のホームで、対する自分は運動不足の都会育ち。自然界の頂点に君臨する圧倒的強者であり捕食者である。しかも普段からゴブリンの姑息な戦術にも慣れた様子である。小手先の工夫など、圧倒的な腕力と戦術経験、野生の勘の前で誤差も同然だろう。


 そもそも自分が作ったのは身を隠すための迷彩武装で、真正面から打ち倒すことを目的として作っていない。本来であれば、姿を捉えられた時点で終わりである。


(本当に何とかなってよかった)


 最初のきっかけは、拘束用のロープを焼いたときの爆発的な炎を見たときである。燃え盛る火勢はあまりにすごかった。あの落下地点の戦場で無数に立ち上ったどの火柱よりも強かった。


 泥による目つぶしや投石の痛みに相当イラついたのか? だが、拘束しているただのロープを焼き切るためだけに、あれほどの過剰な火力は必要ない。それにロープ自体は瞬く間に燃え尽きて炭になったが、体表の火はその後もしばらく消えなかった。あの剛毛は熱に強いだけで、完全に燃えない防火というわけではない。


 つまり、全身を過剰に燃え上がらせるのは黒狼自身にとっても肉体を焦がすリスクがあるのだ。実際、あの戦場でも自らの全身に火を纏って暴れ回っている黒狼はいなかった。おそらくロープの強度を底上げするために擦り込んでいた樹木のヤニや樹脂が、黒狼の火種に触れて爆発的に引火し、想定外の可燃性物質として作用したのだろう。


 そこに、針の穴を通すようなわずかな勝機を見出す。とはいえ、外側から火を焚いて焼き殺すなどという芸当は不可能だ。辺り一面を支配するこれほどの湿気だ。


 そこらに落ちている枯れ枝は水分を含んで湿っていて逆効果だし、何かに使えないかと手遊びも兼ねて樹脂を丸めて作っていたボールがあるが、たった一つポケットにあるだけではどうしようもない。自ら飛び込んでくる牙攻撃を一点に誘導し、地面に固定した槍で迎え撃って仕留める。これ以外に勝機はない。


(だがどうする)


 そこで、あの落下地点の樹上からの観察が役に立つ。あの黒狼たちが敵を仕留めるときは、最後は必ず牙を使うのである。遠距離の炎を牽制に使用することはあっても、それ自体を相手の息の根を止める決定打にしない。


 また前腕の爪による打撃は、あの戦場ではゴブリン相手に使っていなかったことや最初の突進での爪撃が自分に直撃せず逸れたことから、致命性は低く不確実性が高い武器なのかもしれない。つまり手強い敵であるゴブリンには通用しない武器だが、その辺の無力な獲物を狩り殺す道具程度には使える、それくらいの威力と精度の立ち位置なのではないかと。


 逆に言えば黒狼からみてただの獲物ではなく、警戒すべき敵として認識してもらえないと、爪で十分と判断され牙を使わない可能性が高い。まずは挑発に成功する必要がある。ただの逃げ惑う獲物から、憎悪をたぎらせて叩き潰すべき敵として認識されるための挑発だ。


 しかし、目に泥を投げつけた程度では不十分だったようで、二度目の攻撃は牙ではなく腕を振るってきていた。生半可な嫌がらせでは意味がないだろう。しかも二度目の爪撃の回避は文字通りの紙一重だった。次も同じように腕を振るわれたら、ほぼ確実に回避できない。チャンスは一度のみ。


 そこでやりすぎと思えるほど挑発をした。棒を投げて視線を逸らした隙に真上へ投げていたのは、ただの石ではない。ポケットから取り出し、投石の重りとして石に巻き付けておいた、あの唯一の可燃性樹脂ボールである。


 弱まりかけていた黒狼の炎めがけて、可燃性の樹脂ボールを投げ落とし、再び激しく燃え上がらせる。効果は一瞬である。だが、あの漆黒の美しい体毛に誇りを持っているなら、毛を焦がされる屈辱に相当な怒りを感じるかもしれない。そうでなくとも、生命維持の基盤をわずかでも害されるのは、どんな凶暴な生物だって気分は良くないだろう。


 さらに、バックパックが引き裂かれた衝撃で地面に散らばった果物のうち、念のための食料として確保していたほぼ腐りかけの果物を鼻先へ死角から投げつける。直前の泥は大して効果が無かったので黒狼の鼻に投げたが、犬のように嗅覚が鋭かったなら腐敗臭と刺激臭で相当なストレスになったのではないか。


 果物を顔面にクリーンヒットさせた直後、指先で銃の形を作って狙い撃つ決めポーズをとったり、「ヘッドショット!!!」と腹から大声を張り上げて叫んだのは、煽りとして機能しただろうか。とりあえずやれることはやったろうという精神である。


 犬は匂いで飼い主の感情を捉えるらしい。言語は通じなくても、見下すような声音と空気感が本能に通じるかもと試してみたが、遠かったためかあまり効果は無かったように感じられた。


 そうしてさんざん挑発したうえで、一切の躊躇を捨てて脱兎のごとく背を向けて逃げ出す。これも相当腹を立てるだろう。煽るだけ煽って戦いもせず逃げ出す。おちょくり、侮り、舐め腐る。これをはるか格下の相手からやられたら相当腹に据えかねるのではないだろうか。


(もう少しやれた気もするが、アレ以上あの場にとどまれなかったな。準備の時間も必要だったし)


 どれも危害を与えるという点ではほとんど意味がない行為である。だが、格下の矮小な生物にここまで愚弄されて、腹が立たない捕食者がこの世にいるだろうか。しかも二度も連続で回避されているのだ。ゴブリン並みに狡猾で油断ならない厄介な敵と思ってくれれば万々歳だが、そこまでの評価は望めなくとも、滅ぼすべき敵として認定されるだろうと考えた。


 爪で切り裂いても反撃でハラスメントをしてくる可能性がある相手なら、対象を瞬時に無力化できる牙を使ってくるだろうと。とはいえ、もし自分への認識が獲物のままだったら打つ手なしだった。そうなれば黒狼が捕食行動を割に合わないと諦めて立ち去るまで、遮蔽物越しに石を投げつけるなど姑息な攻撃を怯えながら繰り出し続けるしかないだろう。その泥仕合を選んでいた場合、いずれ体力が尽きて生存は絶望的だっただろうが。そもそも回避できるかという話がある。


(二度目の回避は本当にギリギリだった。三度目は……無理だっただろうな)


 黒狼がこちらを即殺すべき敵と認定したとなれば、残る攻撃手段は遠距離の炎攻撃か、牙攻撃かの二択になる。とはいえ、こちらが頑丈な岩陰で身構え、槍を突き出して準備万端とばかりに待ち構えていたら、警戒心の強い獣は様子見と牽制を兼ねて視線発火の炎を使ってくるだろう。


 それを選択されたら完全に詰みだ。身にまとっている石油でできた化学繊維の衣服は気持ちの良いくらい一瞬で燃え上がるだろうし、着衣を脱ぎ捨てたところで、超高温の火災現場に全裸で無防備に立つのと同じだろう。この熱に弱い脆弱な人間の皮膚は、直火の炎に包まれた瞬間、即座に重度の火傷を負って行動不能になる。服を脱ぐことは何ら解決策になっていない。


 逆にこちらの不意を突いたと黒狼に錯覚させたらどうだろうか。炎攻撃など悠長なことをせず、こちらに考える時間や準備の時間を与えないよう最短最速で仕留めるため牙攻撃を使ってくるのではないか。そこで黒狼を待ち構える際、まずは突撃してくるだろう正面を向くのではなく、あえて完全に背中を向けた無防備な姿勢で武器を一切手に持たない姿を晒した。


 そして十字槍は石突を岩の根元にセットし待ち構えていた。ここも賭けだった。もし全身の炎を完全に消火されたうえで、野生の慎重さを取り戻して気配を消し、背後から獲物を狩るべく忍び寄られていたら、絶対に気づけなかっただろう。


(炎攻撃の牽制をさせず、正面から突っ込ませるという賭けには勝った)


 だが、ここまで誘導できたとしても、もう一つ問題があったのだ。それは、相手が余力を残したまま突撃してきた場合、突撃に合わせて槍を合わせたとしても、あのすさまじい動体視力で寸前に回避されてしまう可能性があるということである。


 仮に先の執拗な挑発が効いていて我を忘れていたとしても、こちらが武器を手に持っていれば本能的に回避の余地をいくらか残すだろう。しかも樹脂のボールを頭上に落とすために囮の木の棒を投げ飛ばした際、その飛翔軌道を鋭い眼光で追うなど、かなり警戒していた節がある。


 そこで黒狼に対して、武器を一切持っていないことを徹底的に見せつける必要があった。囮として投げたあの木の棒は、もともと十字槍の柄にポーラで縛り付けて一体化させていたものだ。黒狼の視点から見れば、最初から自分は一本の棒しか持っていないように見えていたはずである。


 それを明後日の方向へ投げ捨てることで、もう武器を持っていないと錯覚させる。遠くへ投げ飛ばしたおかげで、それが本命の十字槍ではないという細部の違いに気づかれることもなかっただろう。そして脱兎のごとく逃げ出す際、地面を擦るような低い姿勢で本命の十字槍を素早く回収し、地面スレスレで持ってきた。迎撃地点の地面へ置いた際には、その上からシダを被せて完全に隠蔽した。ちなみに囮にした棒は、黒狼と遭遇する前に拾った、ただの『いい感じの木の棒』である。


(まったく。何が役に立つかわからないな)


 武器の問題に加えて、もう一つ別の問題もあった。二回目の突撃で、自分は紙一重とはいえ見事な回避を見せている。どれほど頭に血が上っていようが、こちらの回避運動に対応するだけの余力を当然残して突っ込んでくるだろう。


 そこで迎撃の瞬間、先ほどまで背中を向けていた姿勢から一転して素早く振り向き、あらかじめ周囲のシダをむしり取ってねじ込み厚みを倍増させておいた盾を、腰をどっしりと据えて自信満々に構えて見せた。回避するつもりなど微塵もない。『この重厚で頑丈な盾で、お前の脆弱な突撃など力任せに押し返してくれる』と、全身にまとう空気感と、実際にはスカスカで軽い盾をパントマイムで重厚感を示すことで、黒狼から全力の直線的な突撃を誘発したのだ。


 そのうえで黒狼が突撃してきたところを極限まで引きつけてから盾を投げる。その盾を黒狼が牙で粉砕するが、飛び散った破片やシダの葉が視界を遮る。こちらの視界も著しく悪化するが、相手も同条件だ。黒狼が隠されていた十字槍を視認出来たのは、槍との距離が十センチもない程度、まさに激突の寸前だっただろう。


 切っ先は、的確に脳天を貫通する即死コースに入っていた。だが、激突のまさにその寸前、黒狼は驚異的な動体視力と運動能力で首を僅かに捻り、脳への直撃だけを強引に避けた。もし黒狼があと数センチ深く首を動かして受け流していたら、皮膚をわずかに切り裂く浅い傷だけで終わり、こちらの身体がへし折られていただろう。まさに生死を分けた紙一重だった。


(やれやれ)


 しかし、生き残ったとはいえ手元の結果は散々である。背負っていたバックパックは原形をとどめず破壊され、苦労して採取した果物や木の実のストックは全損。苦労して削り出した槍は半分に折れ、自作の投げ網とポーラは高熱の炎で焼かれてすべて消し炭。盾も木っ端微塵。つまり樹上で丸一日かけて作ったツールはほとんど残っていない。


 文字通り総力を尽くした。失ったものはまた作ればよいが、問題はそれを作り直すだけの体力と時間が残っているかである。この世界に転生した直後は十分な体力があったが、すでに丸一日経過しておりその間口にしたのは道中で見つけたわずかな果物だけだ。もう時間は取れない。


 あとはこの致命的な損耗と遅れを、この黒狼からどれだけ回収できるかという話になるのだろう。毛皮、牙、肉、そしてあの発火器官――この巨獣を解体し、次につなげるしかないのか。


 滑落痕の終点である谷底へ足を踏み入れる。泥に塗れ、すでに荒い呼吸で息も絶え絶えになっている黒狼を目の前にして、肺の底から深くため息をつく。


(本当に、どうすればよいやら)


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