第二節:死闘戦線 ―― 背水の迎撃
血に飢えた黒狼を前に、戦闘態勢をとる。左手でシダをくくり付けた盾を構え、右手で十字槍の柄を握り締め、視線を遮断すべく近くの太い木に向かって地を蹴る。
前方に黒狼、後方にゴブリン。なぜ東に向かったはずの黒狼が戻ってきているのか、<漆黒シリーズ>の忌避効果が効いていないことなど、今はどうでもいい。この場にとどまれば、挟み撃ちで死ぬのは確実。
黒狼とは反対側に逃げ出せばゴブリンと鉢合わせする可能性がある。南に向かいせめて黒狼だけを相手にできる状態にするか。いや、一対一にしたところでホームであるここで勝つのは不可能だ。ならばと木を盾にして視界を遮りつつ、あのゴブリンが向かっていると予測される北東を目指す。
(三つ巴の状態なら)
だが、黒狼が地をえぐる音とともに突撃してくる。木陰へ回り込むまでは全く間に合わない。とっさに足裏でブレーキをかけ、反対方向に全身をひねって回避を試みる。だが擦り切れた靴底のゴムのせいでぬかるんだ地面に足をとられ、足元から体勢が崩れる。
(くそっ)
何とか踏ん張るも、この体勢で大きく回避することは無理だ。間に合わないと直感し、反射的に地面へうつぶせに倒れ込む。その瞬間、視界を黒い巨躯が覆い、頭上を暴風を伴って黒狼が飛び越える。偶然足を滑らせたことで意表を突かれたのか、背負っていたシダ迷彩で距離感を狂わされたのか、黒狼の爪の攻撃はわずかにそれ、背負っていたバックパックに衝突する。わずかに狙いがズレていなければ、背骨ごと体をそのまま引き裂かれていただろう。
だが安心したのも束の間、バリバリとバックパックが破壊される轟音とともに、背中から強烈な衝撃が全身を突き抜け、突撃の余波で十字槍を手放したまま前方へと勢いよく吹き飛ばされる。
(まずい、すぐ立て直さないと黒狼に襲われる)
泥水を浴びながら激しく地面を転がり、勢いが弱まったタイミングでぬかるみに両手を突き立てる。全身の筋肉を軋ませ、跳ね起きるように無理やり体勢を立て直して、黒狼に視線を向ける。
顔を上げると、わずか数メートルの至近距離に黒狼がいる。自分の身長を超える圧倒的な体躯と、濡れそぼる黒い毛の威圧感に喉が渇き、覚悟を決める。
だが、どうやらバックを引き裂いた影響で、荷物に詰め込んでいた網紐が幾重にも黒狼の前足へ絡まっており、いら立たしげに牙で咬みちぎって外そうとしている。長時間の移動で網目の大きさがかなり偏ってしまったこと、紐の長さが足りなくて網目を大きくした自作の網だったことが幸いし、相当面倒に絡まっているようだ。
(これはチャンスだ!)
とっさに、腰からぶら下げていた捕縛ネットをつかみ、黒狼の頭部めがけて力任せに投げつける。これは先ほどの網紐よりもはるかに網目が大きいうえ、ロープの先端には大きめの石をくくり付けている。
重みを持った捕縛ネットが、狙い通り黒狼の頭から上半身をすっぽりと覆いかぶさる。泥に落ちていた十字槍を素早く片手で拾い上げ、柄に巻き付けていたポーラを外して投げつける。ただの紐に石を巻き付けた分銅だが、うなりを上げて首に巻き付き、両端の石がネットの網目に深く引っ掛かる。
黒狼は狂ったように首を振り払おうとするが、暴れるほどポーラとネットは複雑に絡まり合い、さらに動きを縛り上げていく。すかさず足元に転がっていた拳大の石を拾い、全力で投げつける。鈍い打撃音とともに頭部にクリーンヒットする。黒狼が殺気立つ顔をこちらに向けるが、その隙を逃さずもう片手で地面からすくい上げた泥を横なぎに投げつける。ぬれた泥塊が、両目をふさぐように顔面へ命中する。
「GROOOOOAAARGHHH――!!」
鼓膜をつんざく咆哮が周囲の空気を震わす。泥を投げつけられたことへの怒りなのか、動きが制限されていることへのいら立ちか。だが縛っている細い紐はいずれ力任せにちぎれるだろう。盾を構えつつ十字槍で網をほどこうとしている足にけん制をかけるべく、意を決して十字槍を構え直し間合いを詰めようとする。
だが突如として、黒狼の全身が爆発音とともに勢いよく燃え上がる。あの落下地点の戦場で見たどの炎よりも巨大な紅蓮の火柱である。巻き付けていたツタや紐に含まれる可燃性の樹脂に引火したのか、一瞬で爆発的に燃え広がる。
肌を焼くほどの凄まじい熱気と閃光に目を背けそうになるが、盾を胸元に固め、目を細めて視界を確保し、全神経を集中させる。投げつけたポーラやネットは一瞬で消し炭と化し、黒い灰となって宙に舞う。火はそれでも消えない。毛そのものが激しく燃え盛っている。
黒狼自身も予期せぬ火力だったのか、全身からいら立ちをむき出しにしながらゆっくりとこちらに顔を向け、らんらんと輝く鋭い眼光が自分を射抜く。わずか数メートルを隔ててにらみ合いとなる中、一瞬、憎悪の宿った赤い瞳が閃光のように光る。
(来るっ!)
回避のために右足を蹴り出すと同時に、火の粉をまき散らしながら黒狼が突撃してくる。右手に持った槍を瞬時に手放し盾を持つ左腕をおとりとして闘牛の要領で前に突き出し、体をわずかに横へ滑らせてかわす。紙一重で体幹の回避は成功する。あとは腕を引っ込めるだけだ。だが黒狼は空中でとっさに体をねじり、太い腕を伸ばして盾ごと手首を切り裂こうと爪を繰り出してくる。
(これはダメだ)
手首を切り落とされることを覚悟する。だが盾を持った手首が黒狼の爪に接触する刹那、巨躯が突進で巻き起こした猛烈な風圧と膨張した熱気が盾を強打し、その衝撃で手首が外側へはじき飛ばされ、奇跡的に爪の軌道から外れる。突進の風圧と熱風にあおられて自分は無様に尻もちをつき、黒狼はその圧倒的な推進力のまま前方へと駆け抜けていく。完璧に避けたはずが、空中で爪を合わせてくる恐るべき動体視力。確実に次は合わせてくるだろう。
使えるものが無いか、荒い息を吐きながら周囲を必死で見渡す。数十メートル先で急制動をかけた黒狼が止まり、低くうなりながら体勢を整えようとする。もはや獲物への油断は微塵もない。これほど距離を離されたら、何を投げても見切られて避けられてしまうだろう。だがやるしかない。
地面に落としていた二メートルほどの木の棒を拾うと、空いた手でポケットから樹脂のボールを真上へ高く放り投げ、直後に全身のバネを使って木の棒を黒狼に向かって全力で投げつける。追撃をするべく振り返ろうとした黒狼は棒に鋭い視線を向けるが、狙いは明後日の方向に外れてむなしく飛んでいく。
一瞬、鼻先を鳴らして笑われたような気がした。だが、棒を投げると同時に真上へ高く放り投げていた可燃性の樹脂のボールが、時間差で黒狼の体に当たる。弱まりかかっていた体表の炎が再びボッと勢いよく燃え出す。
何が起こったのか一瞬うろたえる黒狼。その隙を逃さず、バックパックが破壊された際に地面へ散らばっていた熟した果物を素早くつかみ取り、地面すれすれのアンダースローで腕を振り抜く。石で視線が跳ね上がった死角から放たれたためか、黒狼は一切の回避行動を取れず、果物が鼻先へとクリーンヒットする。
「ヘッドショット!!!」
そうとう熟していたのか腐敗していたのか、べちょりという生々しい破砕音とともに顔全体に果物の破片が飛び散る。感情の高ぶりにまかせ指で銃の形を作り決めポーズをとる。だが、これまで恐怖で思い通り声を出せなかった反動のためか、予想以上に喉が裂けんばかりの大声が森に響き渡る。
「やべっ」
腐敗した果汁で鼻は利かず、視界がふさがれ、回復には多少の時間がかかるはずだ。それまでに、先ほど通って地形と高低差を把握している北側、あの狭まった丘陵の谷間めがけて脱兎のごとく全速力で逃げる。あの地形であれば何とかなるかもしれない。ぬかるみに足をとられそうになりながら目的である丘陵の谷間の中腹にたどり着き、背後を振り返る。
丘の頂上には、完全に怒髪天を衝いた黒狼が、激しく火の粉を散らしながら仁王立ちしている。体毛はほとんど焼け落ち、地肌がむき出しになっている。
さんざん泥臭い反撃で翻弄されたあげく、自慢の毛を焼かれ、人間ごときに嘲笑されたのだ。遠目からでも肌が粟立つほど、獲物を完膚なきまでにたたき潰そうとする猛烈な殺気が伝わってくる。こちらの体が振り返るよりも先に、黒狼は重力を味方につけ、急な下り坂を一気に駆け下りてくる。
とっさにシダの盾を掲げる。だが向こう側が透けて見えるほど隙間だらけの盾など、せいぜい視線を誤魔化す程度の役目しか果たさず、衝撃を防ぐ防御力など皆無だ。加えて怒り狂ってトップスピードに乗っているうえ、急坂の下り坂でついた莫大な運動エネルギーは、爪を振るうまでもなく盾ごと骨を粉砕し、自分を一瞬で肉塊へ変えるだろう。それにあの並外れた動体視力だ。すでに二度も回避を見せている以上、左右のステップをしたところで完全に合わせてくるだろう。確実に躱せない。
「だが、それでいい!」
衝突まで残り数メートルという極限の刹那、構えていた盾を黒狼の眉間へ向けて投げつけ、地面に伏せて右手を添えていた十字槍を一気に両手で跳ね上げる。十字槍の石突は、あらかじめ背後の地面に深く突き刺さった巨大な岩の根元にがっちりと噛み合わせている。
投げつけた盾は獣の突進で粉々に砕け散り、むき出しの巨大な牙と充血した赤い瞳が目の前を埋め尽くす。十字槍を握りしめる。力任せに突き出すのではなく、両腕に全体重を乗せ、切っ先が黒狼の突進ルートのど真ん中から微動だにしないよう強固に押し留めるべく全力を込める。
必然。研ぎ澄まされた十字槍の穂先は、突進の自重そのものによって黒狼の喉元深くに突き刺さる。生肉と筋繊維を断ち割る感触とともに、想像を絶する質量が槍を通じて全身に雪崩れ込んでくる。両腕の骨が軋み、衝撃で槍が弾き飛ばされそうになるが、ここで上体を押し潰されれば黒狼の残火だけでも自分も焼け死ぬ。歯を食いしばり、足の裏を泥にめり込ませて勢いを逃そうとするが、まるで暴走機関車を相手にしているかのようにびくともしない。
もう腕の骨ごと砕かれるかと思った瞬間、過密な運動エネルギーに耐えかねた槍の柄が、轟音とともに中央から爆発するように弾け飛ぶ。支えを失った莫大な突進力は斜め横へと弾かれ、黒狼の巨体は勢いを失って緩やかな丘陵の下り坂へ激突する。力なく泥の斜面を抉りながら、泥まみれの滑落痕を残して谷間へと滑り落ち、そのまま視界の底へと消え去る。
「何とかなったのか?」
極度の緊張が一気に抜けたのか、あるいは筋力の限界を迎えたのか、両腕がガタガタと激しく痙攣している。正直言って、このまま泥の上に倒れ込んで眠ってしまいたい。だが、もし相手が致命傷を免れて余力を残し、谷底で息を潜めていたら、次こそ確実に不意打ちで殺される。意を決して泥まみれの膝に力を込め、折れた槍の残骸を握り直すと、地面に刻まれた生々しい泥の跡を追って歩き出す。




