第二節:気宇壮大【下】 ―― 死角の気配
結論から言えば、三か所で残滓が見つかった。どれも足跡が途切れた場所からほとんど離れていない木の幹や地面で、葉の表面に付着していたのだ。
慎重に回収し、それぞれの手持ちの道具類に付着させる。そのうちの一つが変質してできたのが、<漆黒のクレジットカード>である。まるで本物のブラックカードのようである。個人的にはこれが一番のお気に入りだ。
それを胸ポケットにおさめると、上半身の感覚がじわりと戻る。残りの二つの残滓も回収し、財布の中に入れてズボンにしまたことで、下半身の感覚はすでに戻っている。
相変わらず泥から遠い腕先や膝先の感覚が無いが、疲労を感じずに延々と動けるという意味では、むしろ好都合だろう。だが、この感覚に慣れてくると、以前の地球での体で感じていたよりも少し神経が鈍く感じる。完全に影響を完全に相殺しているというよりは、緩和しているという感覚のほうが近いのかもしれない。
槍を垂直に立て、自作のコンパスを取り出して北を測りつつ、影の位置を確認する。午後四時より少し前くらいか。道中で身を隠すためのシダを採取するなど、資源を集めながら動いていたので多少時間はかかったが、日没までにはまだ時間がある。
このまま南に向かうべきだろうか。それとも、安全を確認したこの場にとどまり、夜を明かすべきだろうか。
あちこち歩き回って、自分の足跡だらけになった地面を見る。あれだけの地獄絵図があったのだ。逃げたバケモノどもがおいそれと戻っては来ないだろうという読みであるが、万一戻ってきて足跡の異変に気づかれ痕跡を追われたら、取り返しがつかない。どこかで痕跡を切るためにも、移動すべきだろう。
それに、一刻も早く南に向かって断崖の様子を確認したい。上空から撮影した写真から推測した通りであれば、南に人類が住む文明圏が広がっているはずだ。そこにたどり着くために、あの断崖を越えるルートを探さなければならない。
改めて自分の様子を確認する。頭には<漆黒のオクタグラム>、胸には<漆黒のクレジットカード>、財布に入れた2つの<漆黒シリーズ>。これほど<黒い泥>の残滓を身にまとう自分は、この森の住人からどう見えるだろうか。あの泥の気配を漂わせる、相当不気味な存在に見えるに違いない。
少なくとも、積極的に食いたいとは思わないだろう。黒狼とゴブリンの拠点はそれぞれ東西にあると思われるため、その方角に向かわなければ、襲い掛かってくることはないかもしれない。
むしろ、東西の勢力の縄張りが荒れているこのタイミングで真南に向かい、余計な衝突を防ぐ。これがベストなのではないか。もし南に反れたゴブリンどもが集結して南に新たな縄張りを作られてしまうリスクもある。そうなると南に向かうのはかなり困難になるだろう。
そう判断すると、迷いを振り切り、真南に向かって歩き出すのであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
真南に向かって、起伏の激しい丘を下り、そして登る。身体の感覚が戻ったことで少し蒸し暑いと感じるが、不快に感じるほどではない。ツルを切り裂いて水分を補給する。少し草の青臭さは感じるが、喉の渇きを癒すには十分だ。
元の世界の体と比べれば、嗅覚や味覚などの感覚はかなり鈍っているとは思う。だが、その鈍さが今のサバイバルにおいてはちょうどいい感じに機能している。また、<漆黒シリーズ>の恩恵の範囲外となっている膝先や腕先は、触覚や痛覚がほとんど感じられない。
前と違ってわずかに感覚がある気はするが、自分の手足のように感じられないという点において、正直誤差の範囲だろう。変に負荷をかけると後で肉体が壊れるのが怖い。あまり負担をかけないように注意しつつ、疲労を一切感じない足や腕は、険しい下り坂や上り坂を、難なく合理的なルートで踏破していく。
一時間ほど歩いた時だった。ふと、周囲に微かな違和感を感じ取る。なんとなく、北西の方角に何かがいる気がするのだ。これも、上半身の肌感覚が戻った影響だろうか。
勘のようなものに従い、近くの深い茂みに身を隠し、道中で採取したシダで覆って作っておいた手作りの盾を構える。周囲の植生に同化しつつ、息を殺してしばらく立ち止まり、様子をうかがう。すると、遠くでガサリと茂みが動くのが見える。
北西という方角からして、仮に西を根城とするゴブリンだとしたら何処に向かっているだろうか。しばらく観察していると、南に向かって茂みが揺れた気がする。
このまま待機すべきか。それとも気にせず南に向かうべきか。もし仮にあのゴブリンが南へ向かっているのだとすれば、自分が南へ向かうのは、逆に相手の進路と交差して発見される可能性がある。
だがゴブリンの拠点は西側に存在する。そして日が暮れるまであと一時間といったところだろう。こんな時間にあえて拠点から離れる南へ向かうだろうか。この状態で果たしてゴブリンは南に向かっているのだろうか。見間違い、もしくは迷っているだけだろうか。
ならば待機か。だが、もしすでに相手に発見されているのだとすれば、ここで待機することはあまりにも愚策だ。いつの間にか背後に回られているか、囲まれているということになりかねない。
それに、そろそろ今日の寝床を探す必要がある時間帯だ。この場に留まり続けるのは、あまり良い案のようにも思えない。
しばらく悩むが、当初の予定通り真南に向かうことにする。どれを選んでもリスクがあるなら、少しでも断崖へ近づくという明確な目的を果たすべきだ。先ほどの影がゴブリンだとして、それに気づかれないよう、忍び足でゆっくりと後退する。
茂みが揺れたあたりの方向を警戒しつつ後退する。だが、特に茂みは揺れない。
(気のせい……いや、風のせいだったのだろうか)
やがて、茂みが揺れていたあたりが視界から完全に切れたところまで遠ざかることに成功する。これだけ注視していて特に何もないということは気のせいだったか、ゴブリンが居たのだとしてもすでに進路を変更したのだろう。
顔を正面に向け、しばらく身を屈みながら真っ直ぐ南へと進む。バックパックの後ろにも移動中にシダでカモフラージュを施しているので、万一後ろから見られても、遠目からは植物が風で揺れているようにしか見えないはずだ。念のため、もう一度振り返る。真後ろには何もいない。
安心して正面を向いて南に向かう。だが、何気なしに、あるいは直感でも働いたのだろうか。進行方向の斜め左、南東の方角を見る。一見して何もないように見える。だが違和感を感じ注視する。
暗がりと同化していて分かりづらいが、確かに何かが遠くにいる――黒狼だ。
(なんでこんな場所に)
戦場にあった足跡はゴブリンと異なり、整然と東に向かっていた。ならばこんな南にいるはずがない。だが確かにあの黒い毛並み、赤い目、遠目からでもわかる巨大な体躯。ただの狼と見間違えようもない、黒狼の姿である。
しかもどう考えても友好的ではない。野生の獣を見たことがない自分でもはっきりとわかるほど、明確な戦闘態勢をとった巨大な獣が、ゆっくりと、確実な足取りでこちらへ近づいてきていた。
明日は18時過ぎの更新を予定しています。
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