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第二節:気宇壮大【上】 ―― リスクの天秤

 <黒い泥>を回収して持ち歩けば、周囲の生物を遠ざける安全な移動が約束される。というのが当初の目論見である。


 さらに上手く使えば、確実に相手を葬る最強の武器やトラップに転用することも考えていた。それがこの得体の知れない森を生き抜くための武器になりえると考え、リスクを押してでも木から降りて慎重に探索を進めていた。どのように回収できるかはわからなかったが、釣竿は直接触れず回収するために用意した手段の一つであった。釣り竿で回収できなかった時は樹皮を接着して作った器など他のプランも用意はしていた。


 だが想定外なことに、まさか手に触れても問題ないどころか、失われていた体感覚を取り戻せるとは想像もしていなかった。正直なところ、手に触れても問題なくなった理由も、なぜ感覚が部分的に戻ったのかも全く不明のままだ。


 依然として、<黒い泥>の安全性が100%保証されたわけでもない。今は静かであっても、何かの拍子に突然襲いかかってくる可能性も十分に考えられるだろう。


 だが、これからこの危険な密林を移動するにあたり、今の身体の感覚遮断を放置したままにするのも、それに劣らず相当リスクの高い問題でもあるのだ。

 

 たしかに瞬発的には疲労を感じないで限界以上の力を引き出せるというメリットはあるが、サバイバルという長期的な目線で見れば、極めて大きなデメリットとなる。


 周囲の索敵を目と耳だけで行うことがどれほど危険か。そして自分の痛みに気が付かないことがどれほど致命的か。


 疲労を一切感じずに限界を超えて体を酷使して動けなくなるリスクや、外傷を負っていても気付かずに止血せず、出血多量で死ぬリスクが常に付きまとう。極端な話だが、仮に背後から黒狼に背中を焼かれたとしても、痛みが無いから全く気がつけないのだ。皮膚の焦げる匂いすら感じないため、背骨まで焼かれても気づけないまま死ぬだろう。


 そもそも、この身体を覆う感覚不調が何によるものかは全く分からないが、この世界特有の環境が原因というよりは、少なくとも転生に起因する異常であり、十中八九「あの声」の仕業だろう。仮に一種の餞別だと考えたとしても、純粋な善意でないことは確実だろう。不気味にもほどがある。もし単なる不手際だったのだとすれば、なおさら感覚の異常を放置するべきではない。


 熟考の末、結局「感覚遮断の不調を放置して探索を行うことのリスク」と「身に着けることで<黒い泥>に急襲されるリスク」を天秤にかけ、最終的に身に着けることを決めた、ということである。


 正直なところ、「あの声」によってもたらされた不調をそのまま放置して進むのは、あまりに危険すぎるというのが一番の決定打かもしれない。


 一応の予防策として、<黒い泥>が直接肌や髪に触れないよう、結びつける紐に千円札を折り畳んで咬ませているうえ、頭に乗せた紐との間にも一万円札を咬ませて二重に直接接触を避けている。定期的に取り外して状態を確認し続ければ、最低限の安全性は確保できるだろう。


 とはいえ、端から見ればその姿はあまりに異常。狂気の呪術師か新興宗教の怪しい儀式をしているかのように見えるかもしれない。


(背に腹は代えられない……か)




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 今、<漆黒のオクタグラム>を頭に装備しているおかげで、顔で感じる肌の感覚はしっかりと戻っている。一方、顔以外の部位の感覚は全く戻っていない。生存率を上げるためには、少なくとも内蔵の感覚だけでも優先して戻すべきだろう。そのためには、最低でもあと一つは<黒い泥>を新たに見つける必要がある。


 だが、そもそも<黒い泥>がどこにあるのかという根本的な問題がある。さすがに黒い泥本体の直径140mの範囲を隈なく探すのは不可能だ。


 なら、どうやって探し出すか。


 あの<黒い泥>は獲物をとらえる際に無数の触手を伸ばしていたが、捕らえられた獲物が死に物狂いで抵抗すれば、捕食の過程で多少の泥は周囲に飛散するはずだ本体付近であれば、飛び散った泥はすぐに引き戻されて統合されるだろうが、影響範囲の外まで遠く飛散した泥は、本体が消え去った後もその場に取り残されるのではないか。


 しかも、本体は体感で数秒ほどの間で完全に見えなくなった。逃げ遅れて木や草に飛び散った泥の破片は、統合されずに今もなお残っているのだろう。


(あるとすれば、<黒い泥>の範囲外の外周、もしくは獲物の激しい抵抗があったあたりか)


 だが今、自分がこの<漆黒のオクタグラム>を発見したこの場所は、黒狼が抵抗した痕跡から少し離れている。


 発見場所から導き出される可能性として最も高いのは、泥の残滓自体が微かながら独自の意志を持ち、自ら移動していたということだ。であれば、このまま時間が経てば、残滓がどこかへ這って消え去り、回収の手がかりを完全に失うかもしれない。


(急ぐ必要がある)


 槍、もとい釣り竿に新たなエサを急いで取り付けつつ、頭の中で次なる探索の計画を立てる。黒狼側の足跡で途切れているのは一体分だけである。この限られた痕跡の周辺を探すよりも、多数の個体が飲み込まれたゴブリン側の痕跡を探す方が、飛散した泥を見つける確率も高く効率が良いだろう。


 決断すると同時にエサの取り付けが終わる。ゴブリン側の足跡が途切れている西側の外周へと向け、急ぎ足で探索を始めるのであった。





 明日は18時過ぎの更新を予定しています。


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