第二節:冥黒導素
「うあああああああ!」
死の恐怖に脳が沸騰し、思わず絶叫が口をついて出た。慌てて、釣り竿代わりにしていた槍ごと<漆黒のオクタグラム>を前方へと力任せに放り投げる。いや、もう遅い。手繰り寄せた際、すでにひんやりとした感触が伝わるほど、確実に腕に接触してしまっていた。
心臓を早鐘のように打ち鳴らしながら、飲み込まれる覚悟で慌てて自分の腕を見る。だが、そこに広がるべき底なしの穴はなく、特に異常はない。肉はえぐれておらず、服も無事だ。触れたと思しき部分を恐る恐る逆の手で撫でてみるが、特に何も起こらない。
いや、すでに起こっている。その部分を中心に、世界からの隔絶を思わせるほどずっと失われていた『触覚』がはっきりと戻っていることがわかる。
「感覚が戻った!?」
一体何が起きたのか。慌てて、放り投げた先の<漆黒のオクタグラム>を見る。探すまでもなく、それは一瞬で見つかった。
周囲のどんな光よりも暗く、視線ごと吸い込むような絶対的な漆黒。相対的に、周囲の土が赤く見えてしまうほどの異常なコントラストを放っている。距離を取ってしばらく観察するが、特に何の動きもない。あのゴブリンたちを飲み込んだ時のように、触手を伸ばしてこちらを襲ってくる様子も一切ない。
(何が起きたんだ)
ともあれ検証が必要なのは間違いないだろう。地上に降りる際に安全確認で使った千円札の紙飛行機を取り出し、適当に作ったツタの紐に括り付け、少し離れた位置から<漆黒のオクタグラム>に向かって投げて飛ばす。
コントロールが難しかったが、何度か試してピンポイントで当てることに成功する。しかし、特に紙飛行機を飲み込む様子も、括り付けた紐を侵食している様子も確認できない。
慎重に手元に引き寄せてみるが、表面に特に異常はない。次に適当に落ちている木の棒を拾い、オクタグラムをひっくり返してみるが、放り投げた際についた泥にまみれているだけで、棒が食われることもない。
意を決して、歩み寄って近づく。やはり動きはない。ポケットからスマホを取り出して近づけたり、万札や財布で直接突っついてみたりしても、特に反応を示さない。
お札で折った折り紙であるオクタグラムに一度は反応し、その形を乗っ取った以上、完全に無反応ということはあり得ないと思うのだが。ならば、意を決して直に手に取ってみることにする。どうせすでに一回は触れてしまっているのだ。
先ほどは不意にがっつりと触れてしまったが、今度は地面の泥を指先にこすりつけて手袋代わりに保護したうえで、慎重に指先の一瞬だけ触れようとする。
すると、触れる直前、感覚が戻る。正確には近づけた瞬間に、じわりじわりと神経が通い出す感覚である。驚いて慌てて手を戻す。しばらく距離を置くと、また感覚が鈍くなっていく。先ほど不意に触れてしまった腕の方を確認してみるが、そちらもすでに感覚が鈍くなりつつある。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そもそも、この身体の感覚遮断に近い不調が何なのかという仮説を立て直す必要がある。昨日の夜、木の上で考えた仮説では、あれは『対価』だったのではないかということだ。
あの砲弾でも落ちたかのような巨大なクレーターの中心にいたにもかかわらず、自分には一切の身体的ダメージが無かった。つまり、神を名乗るあの声から、餞別として一時的な『無敵のバリア』をもらったのだと考えた。その強力な守りの代償として、五感や痛覚といった感覚が鈍くなっていたのでは、と。
そして、そのバリアを<漆黒のオクタグラム>がごっそりもっていったせいで、あの瞬間だけ感覚が戻ったのだと、先ほどまでは考えていた。
だが、そうなると矛盾が生じる。近づけただけで感覚が戻った理由や、先ほど触れて感覚が戻った腕が、離れると再び鈍くなりつつある理由がつかないのだ。バリアが食われて消えたのなら、感覚は戻りっぱなしになるはずである。
そもそも、あれだけの狂気的な攻撃性があるなら、バリアが解けた腕など一瞬で飲み込まれるだろう。だが自分は食われなかった。自分はこの世界の人間ではないから、生態系の枠外にいるから攻撃対象ではないということだろうか。謎は深まるばかりだ。
もう一度、手を近づけてみる。指先が空気に触れている、ごく自然な感覚が戻ってくる。不思議と嫌な感じはしない。むしろ、失っていた自分の体を取り戻していくような安心感すらある。
正直、近づけただけで感覚が戻る仕組みは論理的に説明できない。だが、このまま体の感覚が失われたまま探索を続けるのは、サバイバルにおいて致命的に良くないように思える。ここは覚悟を決めるべきだろう。意を決すると、地面に落ちている、槍のツタに繋がれたままの<漆黒のオクタグラム>を素手で手に取る。
手のひらに、ひんやりとした心地よい感触が伝わる。特に手が飲み込まれるといった悪影響はない。同時に、手のひらから肘のあたりまで、血が巡るように感覚が戻ってくるのを感じる。
どうやら距離が関係しているらしく、手に近いほど感覚は敏感になるようだ。少し離れた肘のあたりは、まだかなり感覚が鈍いように感じる。
痛覚はどうだろうか。試しに手のひらを裏返し、手の甲を思いっきりつねってみる。
「っ……」
痛い。確かな痛みを感じるようだ。久しぶりの痛覚という本来は不快な情報のはずが、思わず感動してしまう自分がいる。試しに、その<漆黒のオクタグラム>を、ゆっくりと自分の頭に近づけてみる。
近づけるにつれ、肌で感じる微かな空気の流れ、肌を撫でる熱気、森の湿度、それに草木や土の青臭い匂いを鮮明に感じるようになる。それと同時に、脳内を覆っていた思考のモヤがスッと晴れていく気がする。
目をつぶり、息を思いっきり吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
これが、異世界の空気か。肺を満たすその重さと匂いは、地球のそれとは全然違うのがわかる。命の濃さが違うような気がする。
再びオクタグラムを頭から遠ざけてみると、先ほどまで感じていた嗅覚や触覚の鮮明な感覚がスッと抜け落ち、頭のモヤが再び濃く立ち込めていくのがわかる。試しに首元に持っていってみるが、頭部の感覚が中途半端に戻るせいで、首を絞められているような変な拘束感を感じる。これなら取り付けないほうがマシだろう。
(頭に取り付けるしかないか)
まるで正気の沙汰ではないが、感覚が回復しないまま行動している方がよっぽど問題だろう。気が付いたら取り返しのつかないダメージをおっていたとか、気が付いたら倒れたとかなりかねない現状は大変マズい。
(とはいえ脳の近くに持ってくるのは)
しばらく迷ったのち、釣り竿代わりにしていたツタから、ようやく<漆黒のオクタグラム>を取り外す。直に見ると、影響はオクタグラムを直接縛っていた紐まで進んでいて漆黒に染まっているが、そこから伸びる天然のツルには全く侵食されていない。
余分に作ってポケットに入れていた最後の紐を取り出すと、素手で触れても平気なことを良いことに、侵食された紐をそのままぐるぐると巻き込んで一本の太い紐にしつつ、オクタグラムを十字に縛り付ける。それが終わったら、その紐で輪っかを作り、自分の頭の上に乗せる。さながら、孫悟空の頭に乗っかっている金輪(緊箍児)の要領である。そうしたうえで、パーカーのフードをすっぽりと被る。
これで不意に落として無くすことを防止しつつ、巨大なアクセサリーを頭につけることへの変な気恥ずかしさもかなり薄らぐ。
(完璧だ……)
底知れぬ深淵を冠として被って確かな五感と思考を取り戻したことに、思わず笑みを浮かべた。
明日は19時の更新を予定しています。
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